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社会主義とナショナリズム──ホブズボーム『帝国の時代』を読む(3) [商品世界論ノート]

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 帝国主義のもと民主主義が拡大すると、とうぜん数の多い労働者階級が力をもつようになった。資本主義の波が押し寄せるなか、賃金で生計を立てる労働者が世界中で増えていった、とホブズボームは書いている。
 とりわけ注目すべきは、古くからの工業国であるイギリスと1870年以降産業革命を迎えたヨーロッパ、北アメリカ、日本、それに海外の植民地だった。
 労働者階級の補給源となったのは、手工業と農業の部門である。農業の進歩は農業従事者の数を減らし、農村から都市への人口の移動を促進した。親方のもとで働く職人のなかからも、製造工業に移る者もでてきた。
 工業化の進展は熟練労働者をはじめ、多くの未経験労働者を必要としていた。とりわけ建築業と炭鉱業には多くの未熟練労働者が求められた。大都市のインフラを築いたり、基本的エネルギーとなる石炭を掘り出したりするためである。
この時代は経済の多様化(第3次産業)はまださほど進んでいない。
 先進的な産業国では、人口5万から30万程度の工業都市が多く生まれ、石炭や鉄鋼、織物、兵器、船、化学製品などを生みだしていた。これにたいし、巨大な首都はたいていが産業の中心地ではなかった。
 労働者大衆はきわめて雑多だった。大規模工場で働く労働者も増えていたが、それはどちらかというと少数派で、中小の事業者で働く労働者が大半だった。しかし、組織化されていったのは、少数派の大規模工場の労働者である。
 1880年代には、労働者階級を基盤とする大衆政党はほとんど生まれていない。例外はドイツの社会民主党だった。だが、20世紀にはいるとアメリカでも社会党が生まれ、ヨーロッパでは社会主義政党や労働者政党が侮りがたい勢力をもつようになる。労働組合や協同組合も増えていった。
「1880年代以降社会主義的な労働者政党が異常な隆盛をみせたことが、その党員、支持者、指導者たちに、高揚感、バラ色の期待感、いずれ自分たちが勝利を収めるという歴史的必然性の意識を持たせたとしても無理からぬことであった」と、ホブズボームは書いている。
 労働者階級政党の政治的要求は単純明快だった。それは賃金のために働くすべての肉体労働者のための政党にほかならなかった。
 だが、プロレタリアートはけっして均一ではなかった。その差異は実際、非常に大きかった、とホブズボームはいう。
 イギリスでも男性ばかりのボイラー製造人と大部分が女性の綿織工のあいだにほとんど共通性はなかった。造船所の熟練工、港湾労働者、衣服製造職人も共通性はなかった。
労働者内の差別もあった。たとえば、印刷植字工はれんが職人を見下し、れんが職人はペンキ職人を見下していた。国籍や言語、文化、宗教のちがいからくる対立もあった。たとえば、チェコ人労働者はドイツ人労働者にもドイツの社会民主党にも不信をいだいていた。
 産業経済の雑多な構造が労働者の階級意識や組織を分断していた。イギリスは例外で、全国的な大衆的労働組合が大きな力をもつようになっている。しかし、ほかの国では、組合の力はきわめて地域的だった。そのなかでもとりわけ侮りがたかったのが炭坑プロレタリアートだったという。
 注目すべきは輸送業と公務員だった。国家公務員はまだ組合を結成できなかったが、国有の鉄道業、さらには海運業からは経済ゼネストにもつながりかねない労働組合が生まれる可能性があった。大規模化が進む金属工業では工場の合理化とともに労働者が尖鋭化していった。
 労働者階級はばらばらだった。にもかかわらず、かれらは統合されつつあった。
 社会主義者の教義の影響が大きかった、とホブズボームはいう。それまで大衆は教会からもだまって上に従うよう教えられてきた。政治とも何らかかわりをもっていなかった。しかし、社会主義者が労働者のあいだにプロレタリアートというアイデンティティを持ちこんだ。労働者の党が誕生すると、大衆はそちらの側になだれこんでいった。
 労働者と小市民を含む下層階級と、排他的な中産階級からなる上層階級の階級分化が進んでいた。
 労働者が社会秩序の不当性を認識するようになるのは、雇用主との関係からだった、とホブズボームは書いている。労働組合が結成され、労使紛争は政治の場に持ちこまれた。だが、第3次産業が生まれ、ホワイトカラー層が成長すると、労働者とブルジョワジーのあいだに中間層がつくられるようになり、大きな壁となっていく。さらに国民国家と国民経済が、労働者の階級意識のうえに覆いかぶさっていくようになる。
 投票権拡大の要求が広がっていった。その中心となったのは、財産をもたない市民だった。社会主義運動は必然的に普通選挙権を求めるものとなった。アナーキストはこれに反対する。革命運動が損なわれるとみたからである。
 普通選挙権の獲得によって、労働者階級はみずからの権利を獲得していく。ただし、そのいっぽうで、国家の枠に組みこまれていったことはまちがいない、とホブズボームは指摘する。

「[第1次世界大戦がはじまった]1914年8月における、各国労働者階級の大半の態度に見られたように、彼らの階級意識の実際の枠組みは、革命というほんの束の間の時期は別として、政治的境界がはっきりと定められた国であり、国民であった」とホブズボームは記している。
 帝国の時代において、労働者階級の組織化が進んだのは、1880年代末から1890年代初めにかけての第2インターナショナルの時代だった。メーデーもこのころからはじまっている。
 社会主義政党が生まれ、議会での議席を伸ばしていた。労働組合も勢力を拡大しつつある。社会党(社会民主党)や労働者党(労働党)を名乗る社会主義政党を支えたのは労働者であり、労働者の関係するあらゆる組合だった。政治的にみれば、スペインやロシアは別として、アナーキズムは取るに足りない存在だった。
 労働者階級の政党は、いずれみずからが政府を結成し、大変革に乗りだすのだと考えていた。だが、それまでは自重するという姿勢が強かった。社会主義革命のビジョンは漠然としたままで、劣悪な現状をいかに改善するかが焦点になっていた。
 資本主義の崩壊が差し迫っているという見方は遠のきつつあった。カウツキーはドイツの社会民主党を「革命的ではあるが決して革命を行わない政党」と評していた。
 1905年以降になると、大衆的な社会主義政党を批判する急進的左翼があらわれる。かれらは直接プロレタリアに訴えて、革命的ゼネストにいたる道を探ろうとしていた。革命的サンディカリズムも登場した。
革命思想が復活した。とはいえ、革命の中心は西欧から東欧、ロシアに移ろうとしていた。
 いっぽう、社会主義政党は大衆政党に成長するにつれ、その関心を労働者階級以外にも向けていくようになる。それはなかなかうまくいかないが、それでも農民や職人、小商店主のあいだにも社会主義への支持が広がっていた。フランスでは、大衆的知識人、共和制擁護者、小学校教師の多くが社会主義を支持するようになった。
 搾取や富の集中を弾劾する社会主義政党に多くの支持が集まったのはとうぜんだった。歴史はよりよい未来に向かって前進すると信じる考え方、理性、教育、科学技術の進歩を推進する姿勢が大衆をひきつけていた。
 こうして社会主義政党はプロレタリアートの枠を越えて、支持を拡大していく。だが、それは急進的野党としての立場を放棄することにもつながりかねなかった。

 民主政治の副産物が労働者政党の台頭だとすれば、ナショナリズムもその一つだった、とホブズボームは書いている。
 1880年から1914年にかけ、ナショナリズムは飛躍的な前進を遂げた。ナショナリズムはもともと国家の侵略的拡大を熱烈に支持する右翼思想を意味していた。それが民族自決を含む国家的大義の運動を意味するようにもなった。さらに、ナショナリズムによって、個人が自分と「自分の国」を心情的に同一視する傾向が生みだされていった。
 帝国の時代には、すでに民族的一体感がいっそうの広がりをみせていたが、20世紀になると、それはさらに重要な結果をもたらすことになる。
 ひとつはファシズムという極端なかたちをとる右翼ナショナリズムの台頭である。もうひとつは民族自決にもとづいて独立主権国家をめざす民族主義(ナショナリズム)運動である。
 1870年代以降、ヨーロッパでは民族主義的な運動が増加していた。ブルガリア、ノルウェー、アルバニアなどが独立していく。フィンランド人やスロヴァキア人、エストニア人、マケドニア人も民族意識をもつようになった。イギリスではウェールズ党運動がはじまり、スペインではバスク国民党が結成され、ユダヤ人のあいだではシオニズム運動が盛んになった。
 ホブズボームは民族の定義が人種=言語によってなされるのは19世紀末になってからだという。それによりアイルランド人はゲール語に、ユダヤ人はヘブライ語に(日常語としてはイディッシュ語だったが)、マケドニア人はマケドニア語に結びつけられるようになった。
 こう書いている。

〈言語ナショナリズムは言葉を話す人間を創り出すのではなく、読み書きする人間を創り出したのであった。彼らが自民族の基本的特性をその中に見出した「国語」は、たいていの場合、人工的なものだった。〉

 言語は時代を経るとともに、編集され、標準語化され、均質化され、近代化されていった。その点からすれば、ドイツ語とロシア語が生まれたのは18世紀、フランスと英語が生まれたのは17世紀、イタリア語とカスティーリャ語が生まれたのはそれ以前、カタロニア語、バスク語、バルト語は19世紀から20世紀に生まれたということになる。シオニズムはユダヤ人の領土獲得運動にほかならないが、その言語は何千年も使われたことのないヘブライ語と定められた。
「国家が国民をつくるのであって、国民が国家をつくるのではない」という言い方がある。人びとがこれまで親しんできた共同体は衰退し、国民国家という幻想共同体が生まれた。国家は国民をつくり、かれらに国家への積極的関与、さらには奉仕を求めた。
 ドイツ人はドイツ人たること、ロシア人はロシア人たること、日本人は日本人たることを求められ、国家的アイデンティティが注入されていく。それを推進したのは、大衆にたいする初等教育だった。
 だが、国家ナショナリズムは両刃の戦略でもあった、とホブズボームはいう。なぜなら、それは「公用語や国家イデオロギーに抵抗を示すような共同体を公認のナショナリティから締め出すこと」になったからである。
 多くの人は実質的な利益のあるかぎり、国家ナショナリズムに抵抗しなかった。だが、ヨーロッパの植民地の先住民エリートのように、国家の正式の一員になることを認められない場合には、やがて独立闘争を必然とする下地が生まれていくことになった。
帝国の時代は「外国人排斥の古典的時代であり、したがって、それに対する民族主義的反応の時代でもあった」とホブズボームは書いている。
同時にそれは大量移住の時代でもあった。マックス・ウェーバーですら流入するポーランド人に嫌悪を募らせていた。アメリカのブルジョワジーにとっては外国人貧民層の流入が悩みの種だったが、低賃金の労働者を輸入したいという誘惑には勝てなかった。
 だが、ポーランド人もシチリア人もスロヴェニア人も、移住者は移住先で相互扶助のための共同体をつくった。こうしてナショナリティにもとづくネットワークが築かれていく。アメリカで労働者の大衆政党となった民主党は、必然的に「民族」の連合政党として発展していくことになったのだという。
 ナショナリズムは社会の中間層によって推し進められた運動だ、とホブズボームはいう。言語ナショナリズムもそうした運動のひとつだった。さらに外国人排斥や反ユダヤ主義が、大不況に苦しんでいた商人や職人、農場経営者にアピールするようになった。こうして、愛国心は右翼のものへと転じ、軍国主義と反ユダヤ主義が右翼ナショナリズムを引っぱっていく。
 自由主義とナショナリズムの両立がもはや機能しなくなろうとしていた。民主主義の反動としてナショナリズムが前面に出て、人びとの不満を吸収し、狂信的愛国心、外国人排斥へと動いていく。しかも愛国心は中間層の社会的劣等感を埋めあわせてくれた、とホブズボームはいう。
 1870年代から1914年にかけては、愛国的なアピールのできる政府や政党が人気を博するようになっていた。労働運動や社会運動はばらばらになろうとしていた。民族主義と結合する社会主義が出てくるのは第1次世界大戦後だ。
 そして、国家による戦争がはじまる。愛国心による国家への奉仕が求められ、大衆が動員されていくのはこのころからだ。


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