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北一輝と美濃部達吉──美濃部達吉遠望(26) [美濃部達吉遠望]

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 北輝次郎(一輝)はみずからを社会主義者にして帝国主義者(国家主義者)と名乗っていた。そして、社会主義と国家主義を合体する思想を築くために奮闘し、満23歳の1906年(明治39年)5月に大著『国体論及び純正社会主義』を自費出版する。本は発行後5日で発禁となり、差し押さえられた。
 社会主義と国家主義が合体した思想を、われわれは現在ファシズムと呼んでいる。しかし、これを政治的罵倒の言辞として扱うのではなく、北のいわば純粋ファシズムの思想、すなわち昭和維新の思想を、社会主義も国家主義も輝きを失った現在から、見つめなおしてみることは、それなりに価値があると思われる。
 結論的にいえば、北の考え方の特徴は、国家を正義としての社会主義を実現する共同体ととらえたところにある。その国家を統率するのは、君主としての天皇である。ただし、その天皇は「教育勅語」の万世一系思想によって脚色された天皇、いわば「天皇の国民」の上に鎮座する天皇ではなく、民主的な「国民の天皇」でなくてはならない。
 いま、北一輝の思想と行動を詳しく論じるつもりはない。松本健一に名著『評伝北一輝』(全5巻)がある。ここでは、それを参考にしながら、北と美濃部が交錯する1906年の思想風景にかぎって紹介してみることにする。
『国体論及び純正社会主義』は次の5編からなる。

(1)社会主義の経済的正義
(2)社会主義の倫理的思想
(3)生物進化論と社会哲学
(4)いわゆる国体論の復古的革命主義
(5)社会主義の啓蒙運動

 この目次からもわかるように、いわゆる国体論を批判し、社会主義を宣伝することが主な内容となっている。美濃部達吉が批判されるのは、国体論批判に関する第4編においてである。
 だが、その前に、北一輝が社会主義をどのように考えているかをみておくことにしよう。
 現代社会は貧困と犯罪にあふれている。これを取り除くことができるのは社会主義だけだ。北はそう断言し、まず貧困について論じはじめる。
 ほんらい労働者の苦痛を軽減し、社会をより豊かにするはずの機械が、かえって労働者を苦しめ、失業者を増やしているのは、経済的貴族、すなわち少数の資本家階級のせいである。かれらは地主と手を携えて、この国の土地と人民を支配している。
 この「経済的貴族国」のもとで、人びとは農奴と奴隷になって苦しんでいる。いつかかれらがストライキに走り、暴動を起こすのは目に見えている。そうした事態は避けなければならない。したがって、その前に、社会主義を実現し、正義と権利の名において「土地および生産機関の公有」を実施しなければならないのだ、と北はいう。
「経済的貴族国」を「経済的公民国家」へと移行させることはその第一段階である。この公民国家のもとでは、国民はそれぞれ義務かつ権利として、国家によって雇用を保証され、いわば「徴兵的労働組織」においてはたらき、外国の経済力と戦う。
 だが、それはまだ社会主義にはほど遠い段階だ。労使関係は服従を強いられ、報酬の差も大きい。社会主義国家が誕生すれば、労働者は「全世界と協同扶助を共に」するために働く。自由と独立も保証されるようになり、職務のいかんにかかわらず報酬も同一となる。国家はその段階に向かって進化していく。
 松本健一は、北一輝にとって「社会主義は社会に経済的幸福をもたらすがゆえに、正義なのである」と記している。それは貧しい社会主義ではなく、豊かな社会主義であり、最終的には「世界連邦」をめざすものと考えられていた。
 次に論じられるのが犯罪についてである。下層階級による犯罪はほとんどが経済的欠乏によるものだが、上層階級もより高尚な生活を手に入れようとして犯罪に走る。社会の必然的現象といえるこうした犯罪を減らすには、社会主義によるしかない。経済的貴族国を覆し、経済的な自由と平等を実現する社会主義は「倫理的理想」でもある、と北はいう。
 社会主義は個性の圧殺をはかるものではない。むしろ、個人の個性を尊ぶものだ。なぜなら、社会を進化させる唯一の手段は、個人の個性にほかならないからである。
ただし、北は個人と国家が対立するとは考えない。社会主義のもと、個人と国家が共進化することによってこそ、社会全体の幸福が得られると考えている。
 人類は半神半獣の存在であり、いわば類神人なのだ、と北はいう。しかも、人類は社会的動物なのであって、人間を分子とする社会は、それ自体が有機体なのである。
人間が「小我」としての生物だとすれば、人民を包摂する国家は「大我」としての有機体である。そして、人間が進化するように国家も進化する。
 人類は生物界の生存競争を勝ち抜くことによって、現在の優勝者となり、相互扶助のもと獣類から神類へと進化しようとしている(まるでユヴァリ・ハラリのいう「ホモ・デウス」のようだ)。
 国家もまた民族国家間の抗争をくり返しながら、それに生き残って世界連邦を形成するにいたるはずだ。その段階では階級闘争も戦争もなくなっている。北は世界連邦を「無我」と呼んでおり、「小我」である人が「大我」を悟り、さらに「無我」の境地にいたることこそが、人生の意義だとしている。
 北はマルサスの人口論を否定し、人口は幾何級数的には増えないという。生物種は生存進化に必要なだけしか子を育てない。人口の増加には共同体の進化の理法、いわば「宇宙目的論」があって、それは戦争を経つつも、最終的には人口過多のない世界連邦へといたる、と北はいう。
 そして、いよいよ国体論批判がはじまる。日本の国体は天皇の偶像崇拝のうえに成り立っているというのが批判のポイントである。
 天皇は天照大神からはじまる万世一系の末裔などではない。ほかの国々と同じく君主なのであって、「国家の一分子」であり、「国家の機関」であることは自明である。北はこうした考え方を一木喜徳郎や美濃部達吉から受け継いでいる。
 近代国家においては、主権はあくまでも国家にあり、そのなかで天皇は「機関」としての役割をはたしているのだ。もし、穂積八束などがいうように天皇こそが国家の主体だというのなら、日露戦争は国家の戦争ではなく、天皇一人の戦争となり、6万の死者を出したのは万世一系の天皇だと論ずるほかなくなってしまう、と北はいう。
 ただし、達吉が天皇を国家の「最高機関」としたのにたいして、天皇は国家の「特権機関」だと切り返す。北によれば、わが国においての最高機関は天皇と議会であって、天皇は最高機関そのものではなく、あくまでも特権機関だということになる。このあたりの認識は、民主主義をさらに強く意識したものとなっている(二・二六事件の青年将校にあこがれた晩年の三島由紀夫は、北が国家機関説論者であることを知って、愕然とした)。
 復古主義者の穂積八束は、「わが万国無比の国体においては、国民は一家の赤子(せきし)であり、天皇は家長として民の父母である」と唱えていた。だが、北は日本の歴史をふり返ることによって、こうした主張に反駁する。
 天皇が日本の国土と人民を私有する唯一の「家長君主」だったのは、平安時代までである。それがいまもつづいていると考えるのは時代錯誤もはなはだしい。
 北によれば、日本の国は3期の進化を経てきた。松本健一は、それを次のようにまとめている。

〈第一期は……天皇が唯一の家長君主としてあった「君主国」時代である。第二期は、皇室が神道的信仰のうえに「神道の羅馬(ローマ)法王」としてあった時代で、このときはその法王から征夷大将軍として統治権をわかたれた「鎌倉の神聖皇帝」がほかの封建的諸侯とともに、政権に「覚醒」している状態である。すなわち、諸侯の併存する「貴族国」時代である。この第二期は、明治維新まで継続したわけである。さて、第三期はそれまで貴族階級(封建諸侯)によって独占されていた政権を「百姓一揆と下級武士」がわかちもったことになり、政権への「覚醒」が、さらに大多数に拡張した状態である。「万機公論に由る」という「民主国」が、これである。つまり、日本国家は「君主国」、「貴族国」、「民主国」という進化過程をたどった。〉

 北の歴史認識は明解である。ところが「民主国」になったはずの日本が、復古的な「教育勅語」などをいただいているのは、どうしたことか。口語に直すと、「われわれは国家の前に有している権利にもとづき、教育勅語の外に独立しなくてはならない」と北はいう。
 松本健一によれば、北一輝は大日本帝国憲法における天皇機関説によって、教育勅語に代表される国体論を破却しようとしたのだという。
 だからこそ、『国体論及び純正社会主義』のなかで、こう述べる(口語訳)。

〈今日の国体論者は武士道とともに立った武門を怒り、武門が立って皇室が衰えたと悲憤慷慨する。しかも、万世一系のかなづちに頭蓋骨を叩かれて、武士道とともに天皇陛下万歳を叫ぼうとしている。まるで土人部落だ。〉

 国体論者は天皇をまるで土人部落の酋長のように扱っている、と北は差別語満載でいう。
 皇室が歴史上、連綿とつづいてきたのは事実である。それは尊貴な系統を利用して、支配者がみずからの地位を正統化しようとした島国独特の風習である。加えて皇統が連綿とつづいたのは天皇が神道の祭主となったためである。そのため、新たな政治権力が登場しても、天皇の宗教的権威は奪われることがなかった。そんなふうに北は論じる。
 だからといって、北は天皇をおとしめるわけではない。その逆である。北にとって、明治維新は王政復古ではなく、あくまでも維新革命だった。1300年前の古代がよみがえったわけではない。国民の団結力を背景として、明治維新という民主革命が発生し、生まれながらの英雄である明治大帝が登場したのである。
 北はいう(口語訳)。

〈維新革命の根本義が民主主義であることを理解しないために、日本民族はほとんど自己の歴史を意識せず、勝手な憶説独断を並べて、王政復古、あるいは大政奉還などといい、みずから現在の意義を意識していない。……維新革命の国体論は、天皇と握手して貴族階級を転覆したかたちにおいて君主主義に似ているけれども、天皇も国民も共に国家の分子として行動した絶対的平等主義の点において、堂々たる民主主義なのである。〉

 北にとって、維新革命は王政復古などではなく、あくまでも明治デモクラシーのはじまりなのだった。教育勅語などによって国民を万世一系神話に縛りつけようとする輩は、維新の精神を踏みにじる者にほかならない。
 北において、社会主義とは明治国家を初発の理念に引き戻す運動にほかならなかった。普通選挙を通じて、経済的維新革命による土地資本の国有化を実現し、天皇を君主とする国民のための国家をめざさなければならない。これがかれのユートピア的な革命論だった。
 しかし、北の社会主義革命路線を達吉が支持することはないだろう。その後、北は国家を否定する幸徳秋水や大杉栄のほうにではなく、宮崎滔天や内田良平のほうに接近し、「支那革命」に展望を見いだしていくのである。

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