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理性と不安──ホブズボーム『帝国の時代』を読む(5) [商品世界論ノート]

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 この時代(1875〜1914)、芸術や科学、学問の分野では何がおこっていたのだろう。
 ブルジョワ社会は揺らぎ、大衆社会が生まれはじめている。それにともない、芸術も変容するが、状況は混沌としている。
 音楽では18世紀、19世紀のクラシックと並んで、マーラーやシュトラウス、ドビュッシーが登場し、グランド・オペラが流行し、ロシア・バレエがもてはやされる。いっぽう、オペレッタや身近な歌曲も人気を博するようになった。
 文学ではトマス・ハーディ、トーマス・マン、あるいはマルセル・プルーストの名声が高まる。イプセンやチェーホフは演劇の新境地を開いた。
 芸術が隆盛していたことはまちがいない、とホブズボームはいう。それは豊かになった都市中産階級と識字能力をもつ大衆によって下支えされていた。「この時期に、創造的芸術家として生計を立てようとした人々が増えたことは否定できない」
 日刊紙や定期刊行物も増え、広告産業が出現し、ポスターという視覚芸術が生まれ、工芸家がデザインした消費財がよく売れるようになった。それは国際的な影響力をもち、各地に飛び火して、新たな芸術を生みだしていく。
 大衆のための建築も花開いた。ロンドン、ミラノ、モスクワ、ボンベイ(ムンバイ)その他数限りない駅舎、パリのエッフェル塔やニューヨークの摩天楼、劇場、美術館、博物館のような公共施設、そして、かずかずの記念碑、これらはすべて大衆に開かれたものだ。
 にもかかわらず、この時代は「世紀末」と「デカダン」ということばに彩られている、とホブズボームはいう。オペラにしても従来のありきたりのものとは異なるもの(たとえばビゼーの「カルメン」やシュトラウスの「サロメ」)が求められ、自然主義の作家(ゾラなど)が登場し、ゴッホやムンクがリアリズムの枠を越えた絵をかくようになり、アール・ヌーヴォーが隆盛し、郊外住宅や田園都市へのあこがれが広がっていく。
 しかし、文化的なエリート主義と大衆主義、刷新への願望と中産階級のペシミズムとのあいだには常に緊張がある。
 アヴァン・ギャルド(前衛芸術)は、この時代にも存在した。アヴァン・ギャルド芸術家は伝統主義者と世紀末モダニストを一様に非難し、大衆が望みもせずついても行けない方向に突き進んでいった。しかし、かれらは孤立していたわけではなく、中産階級文化の一郭をなしていた、とホブズボームはいう。

〈新しい革命家たちが帰属していたのは、同じ仲間同士、適当な街区のカフェにたむろする反体制の若者の議論好きなグループ、批評家たちと新しい「イズム」(キュービズム、未来主義、渦巻き主義)のための宣言書の起草者、小雑誌、新しい芸術作品やその創作家への鋭い眼識や嗜好を持つ若干の興行主や収集家たち……だった。〉

 しかし、そうしたアヴァン・ギャルド派をよそに、社会の民主化を背景として、一種の大衆芸術が世界制覇に乗りだそうとしていた。
 酒場やダンスホール、キャバレーでは、新たな音楽やダンスが登場した。発行部数100万部以上に達する大衆紙も生まれた。映画はそれまでにない画期的な芸術で、そこからはまもなくチャップリンのようなスターがでてくる。それがトーキーとなるのは1920年代にはいってからだ。

〈大衆が映画の中で目にし、愛好したものは、まさに、かつてプロの演芸が聴衆をびっくりさせ、昂奮させ、楽しませ、感動させていた限りのすべてのものだった。〉

 帝国の時代は、科学に転換がもたらされた時代でもあった。
 その科学革命は科学と直感がそのまま結びつくのではなく、むしろ分離する過程をたどった、とホブズボームはいう。
 ひとつは数学的思考の進歩である。「数学の基礎は、いかなる直感への訴えも厳格に排除することによって再定式化された」
 それでも、数学と現実世界との関係を否定することは不可能だった。
 物理学のガリレオ的ないしニュートン的宇宙は危機に見舞われ、アインシュタインの相対性理論に置きかわろうとしている。
 だが、「科学はそれ以後、ほとんどの人々に理解できないものになった。それへの依存がますます認識されるようになる一方で、多くの人々が認知しない何ものかになったのだ」。
 古い物理学の秩序が崩壊していくなかから、電磁気学が発展し、新種の放射線が発見された。物理学のパラダイムが転換される。マックス・プランクは新たな量子理論を打ち立てた。
 細菌学と免疫学はまさに帝国主義の産物である。植民地での白人の活動を妨げていたマラリアや黄熱病などの熱帯病は克服されなければならなかった。梅毒の研究も進展した。
 ただ、医学などの分野を除いて、科学の基礎研究は応用に生かされてはいなかった。それが可能になるには、工業経済の技術的発展を待たなければならない。
 いっぽう進化の概念はイデオロギー的な色彩を帯びて、社会ダーウィニズムをもたらし、超人の思想と優生学を生んでいた。社会民主主義者もダーウィニズムに熱狂していた。
 1900年以降は遺伝学が発達した。遺伝学はダーウィニズムに突然変異の概念をもたらす。
 知の世界の変動は外部世界の変動と直接関係しているわけではない。しかし、歴史家はプランクの量子仮説、メンデルの再発見、フッサールの『論理学研究』、フロイトの『夢判断』、セザンヌの『玉葱のある静物』が同じ1900年の日付をもつことに衝撃をおぼえる、とホブズボームは書いている。
 だが、アインシュタインにせよプランクにせよ、理論家たちはじつは自分で解消できない矛盾、ないしパラドックスに直面していた。そこから逃げ込もうとして、マッハやデュエムのような新実証主義も生まれる。
 科学革命は正しいと思われていた。それはたしかに進歩をもたらすものだった。だが、それはほんとうに進歩といえるのか。進歩が引き起こしたさまざまな矛盾があらわになろうとしていた。それが世紀末とデカダンの風景だった。

 知性の危機に対処するもうひとつの手段が、理性と科学を放棄することだった、とホブズボームは書いている。オカルティズムや降霊術、超心理学がはやった。だが、その影響はほとんど無視できるものだ。
 それよりも1875年から1914年にかけての特徴は、大衆教育と独学がめざましい発展を遂げたことだといえるだろう。教師の数も増大していた。新しい教育のもとでは、迷妄に代わって科学と理性が力と進歩を与えるようになった。そんななか、伝統的な宗教は後退していく。
 もちろん世界的な規模においては、宗教の力はまだまだ大きい。しかし、少なくとも西欧では都市住民のあいだで宗教心は薄れつつあった。カトリック諸国では教権反対主義が大きな力をもつようになる。1905年にフランスは教会と国家の分離に踏みこんだ。
「要するに、ほとんどのヨーロッパで進歩と非宗教化が手を取り合って進んでいた」。教会はもはや独占的地位をもたなくなった。
 そのころマルクス主義の影響が大きくなっていた。多くの知識人がマルクス主義にひかれ、社会科学、歴史学もマルクス主義の影響を強く受けていた。
 いっぽう、マルクス主義とは一線を画する社会科学、人間科学も登場する。たとえばフロイトの精神分析学もその一つだ。経済学では歴史学派が誕生する反面、合理的な理論経済学もその一歩を踏み出す。ソシュールの言語学はコミュニケーションの抽象的で静態的な構造モデルをつくりあげた。
 実証主義的で厳密な社会科学が生まれようとしていた。限界効用と均衡の新しい経済学はジェヴォンズ、ワルラス、メンガーにさかのぼることができる。フロイトは心理学を刷新し、性的衝動の強大な力を明るみにだした。
 人間の理性的思考能力が行動におよぼす影響がいかに少ないのかを示したのはル・ボンの群衆心理学である。
 社会学は民主化と大衆文化が社会に何をもたらすかという不安のなかから生まれた。そのなかで、とりわけ注目されたのが、デュルケームであり、ウェーバーである。かれらは社会が現実にいかに動いているか、そしてブルジョワ社会がどこから生まれ、これからどこに向かっていくのかに関心を集中した。
 社会学の発展を動機づけたのは、ブルジョワ社会の状況にたいする危機感、それを崩壊にいたらせないための方策にほかならなかった、とホブズボームは書いている。だが、その答えは出なかった。戦争と革命が近づいてきたからである。

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