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革命と戦争──ホブズボーム『帝国の時代』を読む(6) [商品世界論ノート]

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 先進資本主義国だけを見れば、19世紀末は政治的な安定期だった。経済的にも繁栄と拡大が保たれていた。だが、世界全体をみると、このころ、周辺部では革命の嵐が吹き荒れており、その嵐はやがて中央部におよぶことになる。
 そんな地域としてあげられるのが、オスマン帝国、ロシア帝国、ハプスブルク帝国、中国、イラン(ペルシャ)、メキシコなどである。ブルジョワの世紀にあって、これらの地域の古風な政治構造はぐらついていた。
 清朝は弱体化し、帝国主義勢力の猛攻撃により、その体制は風前の灯となっていた。満州に進出したロシアを撃退した日本は、すでに獲得した台湾に加えて、さらに多くのものを得ようとしていた。イギリスは香港と上海に拠点を置き、チベットを事実上分離した。フランスはインドシナを植民地とし、ポルトガルはマカオを保全している。ドイツも中国に食らいついている。アメリカは中国に門戸開放を迫っていた。
 中国では宮廷の支配層と秘密結社、南部のブルジョワ勢力がしのぎをけずっていた。宮廷内の改革は失敗し、清朝は1911年に南部と中央部の反乱によって崩壊する。しかし、それに取って代わったのは、不安定な軍閥勢力で、その後約40年にわたり、中国に安定した国家体制が築かれることはなかった。
 オスマン帝国もまた崩壊への道をたどっていた。その領土は西洋の列強によって蚕食されている。バルカン半島では民族独立の勢いが強まり、北アフリカや中東の一部もイギリスやフランスの手にわたった。
「事実、1914年には、すでにトルコはヨーロッパからほぼ完全に姿を消し、アフリカからも全面的に締め出され、中東においてのみ脆弱な帝国をなんとか保持していたものの、[第1次]世界大戦後まで生き延びられなかった」
 しかし、トルコには民族的な核というべきイスラム住民の巨大なブロックが残っていた。それを核としてトルコの愛国主義をかきたてたのが、いわゆる「青年トルコ党」である。
 青年トルコ党による1908年のトルコ革命は、事実上、失敗に終わる。当初、掲げられた自由主義的、議会制的な枠組みは、軍事的、独裁的な体制、トルコ的なナショナリズムへと変じていった。そして、オスマン帝国がドイツへの傾斜を強めていったことが、第1次世界大戦での致命的な敗北を招くことになる。
 その後トルコでは、ケマル・アタチュルクのもと、近代化が推し進められる。とはいえ「トルコ革命の──特に経済における──弱点は、革命を膨大なトルコ農村大衆に強制する力がなかったこと、あるいは農村社会の構造を変えられなかったことにあった」とホブズボームは指摘する。
 揺れ動いていたのはイラン(ペルシャ)も同じだった。イランでは1906年に憲法が発布され、国民議会が成立する。イギリスとロシアはイランの分割を画策したが、イランの君主制は残った。そして、第1次世界大戦後には、その軍司令官が最後の王朝となるパーレヴィ朝(1921〜79)を開くことになる。
 1910年にはメキシコでも革命がはじまった。世界ではほとんど注目されなかった革命だが、それは従属的世界でおこった労働者大衆による最初の革命だった、とホブズボームはいう。だが、革命後のメキシコの輪郭は1930年代末まで明らかになることはない。
 イギリスの植民地では、白人の植民地を除いて、イギリスの支配に抵抗する動きがはじまっていた。エジプトもそうだが、とくに深刻なのはインドだった。
 19世紀末には、ツァーリの支配するロシア帝国は、あきらかに時代遅れで、革命は不可避とみられていた。問題はそれがどのような革命になるかだった。
 クリミア戦争(1854〜56)はロシアの脆弱さを白日のもとにさらした。1861年に農奴制は廃止されたが、農業は近代化されなかった。貧困、土地収奪、高い税金、低い穀物価格によって、ほぼ1億人にのぼる農民の不安は高まっていた。
 ナロードニキは、小農民の村落自治体が社会主義への基盤になると考えた。これにたいし、ロシアのマルクス主義者は、それは不可能で、むしろ労働者に基盤をおくべきだと主張した。
 1890年から1904年にかけ、ロシアでは鉄道の敷設が進み、石炭や鉄、鋼の産出高が一挙に増えていく。それにともない、産業プロレタリアートも成長していた。帝国西部のポーランド、ウクライナ、アゼルバイジャンの発展も著しかった。民族的、階級的な緊張が高まっていく。
 ツァー打倒の動きが生じる。テロリズムは帝政の弱体化にはあまりつながらない。1900年代になって、旧ナロードニキは「社会革命党」という左翼農村政党を結成する。いっぽう、レーニンはロシア社会主義労働党のなかにボルシェヴィキと呼ばれるグループをつくった。
 ツァーリ政権のもと、大衆の反ユダヤ主義が加速し、ユダヤ人はますます差別され虐待されるようになっていた。そのため、かれらは革命運動に引き寄せられていった。
 1900年以降は社会不安が急速に高まっていく。しばらく落ち着いていた小農民の暴動が頻発し、ロストフやオデッサ、バクーの労働者はゼネストを組織した。
 社会不安が増大するなか、ロシア政府は拡大政策に乗りだし、勢いを増す日本と衝突、屈辱的な敗北を味わう。1905年1月には革命が勃発する。ツァーリは革命のうねりを受け、日本との和平交渉を急いだ。
 1905年の革命により、サンクトペテルブルクでは評議会(ソヴィエト)が一時的な権力機関として機能した。だが農民の反乱や労働者のストライキは次第に押さえこまれていく。1907年に革命は沈静化した。
 ツァーリの体制が改革されることはない。
 ホブズボームはこう書いている。

〈明らかなことは、1905年革命の敗北が、ツァーリズムに代わる潜在的に「ブルジョワ」的な代替物を生み出さなかったし、6年以上の小康期間をツァーリズムに与えもしなかったということだ。1912─14年まで、ロシアは明らかに社会的騒擾で再び騒然となっていた。革命的状況が再び近づきつつあるとレーニンは確信した。〉

 ヨーロッパで全面戦争が勃発するとは、だれも予期していなかった。1914年7月のサラエヴォ事件が、まさか世界戦争に火をつけるとは想像もしていなかったのだ。

〈1914年7月の国際的危機の最後の絶望的な日々にあってさえ、政治家たちは、取り返しのつかない行動をとりながらも、自分たちが世界戦争を始動させているとは本当には考えていなかった。きっと何らかの方式が、過去にもたびたびそうだったように見いだされるはずだと考えられていた。反戦派の人々も、長年予言してきた破局が今、自分に降りかかっているとはやはり信じられなかった。〉

 1871年から1914年にかけ、ヨーロッパでは、戦争はゲームの世界で、ほとんど現実の世界ではなかったはずだった。徴兵制は通過儀礼にすぎなかったし、一般市民にとって軍隊とは軍楽隊であり、パレードだと思われていた。
 散発的な戦争がなかったわけではないし、国内の鎮圧行動もあることはあった。植民地では多くの兵士が軍事行動ではなく疫病で亡くなっていた。この時期、イギリスでは南ア戦争を除けば、陸海軍兵士の生活はごく平和なものだった、とホブズボームはいう。
 武器の開発は進んでいた。各国が他国に遅れをとらないよう相互に競争していたためである。軍事支出もはねあがっていた。軍需産業も盛んで、エンゲルスが「戦争が巨大企業の一部門になった」と書いているほどである。
 ホブズボームにいわせれば「政府は、軍需工業に対して、平和時に必要とする量をはるかに超える生産力を保持させるよう配慮しなければならなかった」。
 それでも、世界戦争は兵器製造者の陰謀によって引き起こされたわけではなかった。軍備の蓄積が事態を一触即発のものにしていたのはたしかかもしれない。しかし、ヨーロッパで戦争が勃発したのは、列強を戦争に駆り立てた国際情勢にあったことはまちがいない。
 第1次世界大戦はなぜおこったのだろうか。引き金となったのは、バルカンの辺鄙な地方都市で、一学生テロリストによってオーストリアの皇太子が暗殺されたことである。だが、その時点では、どの国もヨーロッパの全面戦争など望んではいなかった。
 1870年の普仏戦争以来、ドイツとフランスは敵対していた。またドイツがオーストリア=ハンガリーと恒久的な同盟を結んでいたのも事実である。加えてイタリアとも同盟が結ばれ、「三国同盟」となった。
 オーストリアはボスニア・ヘルツェゴビナを併合することで、バルカン地域の紛争に巻きこまれ、ロシアと対峙するようになっていた。そのロシアがフランスと同調するのは必然の流れだった。
 そうしたことが国際関係の緊張を高めていたことはまちがいない。だからといって、全面的なヨーロッパ戦争が不可避だったわけではない。「フランスはオーストリアと、またロシアもドイツと本気で反目していたわけではなかった」。
 しかし、この同盟システムが時限爆弾をかかえるようになったのは、1903年から1907年にかけて、イギリスが反ドイツ陣営に加担することを決めてからである。それにより、いわゆる「三国協商」が成立した。
 それまでイギリスはドイツと敵対していなかった。むしろ、アフリカや中央アジアで、フランスやロシアと敵対してきた。それがなぜドイツとの敵対に転じたのだろう。
 ホブズボームはその原因を(1)国際的パワーゲームの世界化にともないロシアやフランスの脅威が薄れたこと[普仏戦争ではフランス、日露戦争ではロシアが敗れていた]、(2)イギリスにたいするドイツ経済の驚異的追い上げにみている。
 ドイツの急激な産業発展がイギリスに大きな影を投げかけていた。大英帝国はもはや経済世界の中心ではなくなろうとしていた。

〈たとえ世界の金融取引および商業取引が依然として、いや事実ますます、ロンドンを通じて行なわれていたとしても、イギリスは明らかにもはや「世界の工場」ではなかったし、実際その主要な輸入市場でもなくなっていた。逆にその相対的衰退は歴然としていた。〉

 オスマン帝国内にドイツが浸透していることもイギリスにとっては懸念材料だった。とはいえ、イギリスとて海外の権益取得をためらっているわけではなかった。アフリカでは、フランスと取引し、イギリスがエジプトに独占的権益をもつ代わりに、フランスにモロッコをまかせるというような取り決めもしていた。
 ドイツはたしかに強大になりつつあったが、世界の覇者として具体的にイギリスに取って代わろうとしていたわけではない。だが、ドイツが1897年以降、大艦隊の建設にとりかかったことが、世界の海軍大国であるイギリスに脅威を与えていた。ドイツ艦隊の基地はすべて対岸の北海におかれている。その目的はイギリス海軍との交戦以外にありえなかった。

〈このような状況下で、また両国産業の経済的敵対関係も加わるとなれば、イギリスがドイツを仮想敵国の中で最も敵対する可能性の高い、また最も危険な国とみなしても不思議はなかった。イギリスがフランスに接近し、またロシアの危険性が日本によって最小化されるやいなや、ロシアにも近づいたのは理の当然だった〉

 ドイツが工業的にずば抜けた存在であるだけでなく優勢な軍事強国になったことがイギリスに脅威を感じさせていた。思いもかけぬ英仏露三国協商が結ばれたのには、そんな背景がある。
 こうして、ヨーロッパは三国同盟と三国協商のブロックに分割される。そのブロックを背景に、各国は1905年以降、瀬戸際政策に走った。モロッコをめぐる危機、オーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナの併合、イタリアによるリビア占領、バルカン戦争、そして1914年6月28日にサラエヴォ事件が発生する。
 サラエヴォ事件は、ほんらいオーストリア政治の一偶発事件にすぎなかった。それなのになぜ事件から5週間もたたないうちにヨーロッパは戦争に突入していったのか。
 事態の推移ははっきりしている。ドイツがオーストリアを全面支援して戦争に加わったことが、いやおうもなくその後の決定(ロシア、フランス、イギリスの参戦)につながったのだ。
 ロシアは1905年以降の国内危機を大ロシア民族主義によって乗り越えようとしていた。ドイツの民主主義勢力は軍国主義を抑えることができなかった。オーストリア=ハンガリーの政治は国内の民族問題でもめにもめ、崩壊寸前だった。
「最悪だったのは、解決困難な国内問題に直面した国々が、国外での軍事的勝利によってその解決を図るという賭けの誘惑に乗ったことではないだろうか」
 ホブズボームは国際的危機と国内的危機が1914年直前の数年間に融合していたことが、予期せぬ戦争を招いたとみている。
 いったんはじまった戦争は容易には終わらなかった。反戦運動は取るに足りないものだった。
「雷雨と同様に戦争は重苦しい期待の閉塞感を打ち破り空気を浄化した」。その結果、戦争で2000万人の死傷者が出た。
 平和の時代、自信に満ちたブルジョワ文明、増大しつづけた富、西欧の諸帝国の時代は、不可避的に戦争、革命、危機の萌芽を含んでいたのだ、とホブズボームは書いている。
 21世紀にいたっても、革命と戦争の時代はまだ幕を下ろしていない。

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