SSブログ

日本史への視座──美濃部達吉遠望(29) [美濃部達吉遠望]

R3meizi05.jpg
 ほんらいの専門である比較法制史や公法の分野から離れるようだが、美濃部達吉は『日本国法学』の一章で、日本の歴史をふり返りながら、明治維新のもつ意義を強調している。それは天皇が万世一系であることをことほぐ物語ではなかった。日本では、さまざまな政体の変化がありながらも、皇室はそのなかでそれなりの役割をはたすことで存続し、明治になって、ついに立憲君主制という輝かしい形態をとるにいたった。そのことに達吉はむしろ意義をみいだしていた。
 はっきりとは書いていないが、達吉が王政復古そのものに重点を置かず、立憲君主制の確立と、そのもとでの議会の発達に期待を寄せていたことは明らかである。万世一系思想の過度の強調が、議会主義の否定につながりかねないことを懸念していたともいえる。しかし、その懸念が、昭和の戦時体制下において事実上の軍事政府樹立となってあらわれることを、現時点の明治末段階で予想できたわけではなかった。明治が落日を迎えるこのころ、目の前に広がろうとしていたのは、むしろ大正デモクラシーの時代だった。
 ここではもう少し具体的に明治育ちの達吉が日本の歴史をどのようにとらえていたかをみておくことにする。われわれは戦前の歴史というと、皇国史観を思い浮かべがちだ。それは、記紀の神話から綿々とつづく天皇の国の歴史にほかならなかった。しかし、明治末年に達吉のとらえた日本の歴史は、それとはずいぶんことなっている。
 はじめに、こんなふうに書いている。口語に直して紹介してみよう。

〈国初から明治維新にいたるまでの日本の国家体制の発達は、およそ4期に分けることができるだろう。第1期は国初から大化の改新にいたり、第2期は大化の改新から鎌倉開府にいたる。鎌倉開府ののち、徳川幕府の成立にいたるまでは、これを第3期とし、これより明治維新にいたるまでを第4期とする。〉

 まるで新井白石を思わせるような書きっぷりである。達吉が明治維新までの歴史を淡々と4期に分け、日本史をできるだけ客観的に記述しようとしていることがわかる。
 各期について、達吉のまとめをごく簡単に紹介してみよう。
(1)国初から大化の改新(645年)まで
 日本民族がどこからやってきたかはわからない。だが、いずれにせよ海を越えて移住してきたことはたしかだ、と達吉は書いている。そのとき、日本にはすでに先住民がいたかもしれないが、新たな集団はそれを駆逐したり征服したりして、九州から東征し、ついに日本国の基礎を築いたという。ここでは、記紀の神話は排除されている。
 日本に移住してきたとき、その新たな集団はすでに農業技術や造船・建築技術などで高い文化をもっていた。地域が統合されていくなかで、「族長的君主」が登場する。かれは、もっとも高貴な氏族の族長として、国じゅうのすべての氏族を統轄支配する権利を有していた。
 そのころの社会・政治組織は氏族制を基礎としていた。人びとは多くの氏(うじ)にわかれ、各氏には族長がいて、一定の地域を支配していた。天皇は各氏のもっとも高貴な一族の出身で、国じゅうのすべての氏族の上にあって、各氏族を統轄する役割を果たしていた。
 天皇は最高の祭主であり、兵馬の大元帥でもあり、かつまた最高の裁判権者でもあった。氏のあいだに争訟があればその裁決をおこなった。
 そのころ朝廷の官職は、決まった氏が世襲していた。各氏はその尊卑に応じて、臣(おみ)や連(むらじ)の姓(かばね)をもっていた。全国は多数の国に分かれていたため、各国には国造(くにのみやつこ)が置かれた。
 皇位は父子継承を原則としたが、かならずしも長系相続を原則としていたわけではない。男系男子が本則であり、例外的に女帝を認める。だが、その血統は常に男系の出にかぎられる。
 皇位はゲルマン民族などのように民族の総集会によって決められていたわけではなく、あくまでも皇統、すなわち血統にもとづいていた。
 これが達吉のえがく天皇の原型である。ここで「国体の基礎いかに強固なりしかを知るに足るべし」と強調するところをみても、達吉がいかに天皇主義者だったかがわかる。
(2)大化の改新(645年)から鎌倉開府(1192年)まで
 大化の改新の意義は、氏族制度を一変したことにある、と達吉はいう。そのころ蘇我氏の専横が目立ち、中大兄皇子は中臣鎌足と協力して、蘇我氏を討ち、「大権を皇室に復した」。
 大化の改新は、日本の政治に一大変革をもたらした。唐の制度が取り入れられ、氏族制に代わって新たに官制が定められ、土地は国有とされ、地方制度が整備され、各国に国司が置かれた。
 だが、大化の改新以降は外国の制度を取り入れるのに急なあまり、政治改革は国の実情に合わないことが多かった、と達吉はいう。
 門閥の一掃はたしかに理想ではあったが、官職の世襲は避けられず、次第に藤原氏が摂政、関白の地位を代々受け継ぐようになっていく。土地の私有を禁止した班田収受の法も長く維持できず、土地公法主義は100年足らずのうちに全く失われてしまうことになる。
 これに代わって出てくるのが荘園制度だった。荘園は貴族や寺院の所有する私有地で、朝廷はしばしばこれを禁止しようとするが、その勢いをとどめることはできなかった。国司の制度も有名無実となっていく。
 達吉はこんなふうに記している(口語に直した)。

〈平安朝の200年(西洋紀元では9世紀から11世紀初めにかけて)は表面は天下泰平で京の朝臣はひたすら栄華にふけっていたが、国権はその力を失うようになり、国勢がまさに一変する機運が、このかんに養成されていた。新たな勢力が勃興しようとしていた。その新しい勢力とは東国における武家にほかならない。〉

 中央権力は統治能力を失おうとしていた。これに代わって、各地を武力で支配しようとする勢力が生まれた。その地方豪族のなかでも、もっとも有力だったのが源氏と平氏である。
 ただ、政権がまったく武人の手に帰するまでは、なお多くの年月を要した。
 そのころ皇室はどのような立場に置かれていたのだろうか。

〈大化の改新から平治の乱にいたるまで、そのかんおよそ500年あまり(第7世紀中葉から第12世紀中葉まで)親しく皇室によって国政がおこなわれたのは、ただその初期にすぎず、中ごろには実権は藤原氏の手に帰し、のちにはさらに転じて平氏に帰した。とはいえ、この政権推移のかんにあっても、皇室はなお厳としてその最高統治者としての地位を失わず、実際に権柄をとる者がだれであっても勢力の中心が皇室にあったことは、わが国体史において特に注目すべき事実である。〉

 ここで達吉はヨーロッパでは王朝の変遷が著しかったのにたいし、「わが国体の歴史上の基礎がいかにこれら欧州諸国と異なれるかを知るべし」と論じている。
 摂関政治をへて武家政権が成立するにつれ、皇室は次第に衰える。しかし、皇室を抜きにして日本の政治は成り立たなかったというのが、達吉のとらえ方だといってよいだろう。
(3)鎌倉開府(1192年)から徳川幕府成立(1603年)まで
 頼朝は天下の実権を握ると、征夷大将軍に任じられ、鎌倉に幕府を開いた。
王朝以来、荘園は国司の管轄外にあり、もっぱら領主と庄司の支配下に置かれていた。
 文治元年(1185年)に頼朝は朝廷に奏請して、諸国に守護を置き、荘園に地頭を置くことした。これらはすべて鎌倉幕府の管轄下に置かれた。こうして、朝廷や公卿の所領と荘園、寺社の荘園を除いて、武家の所領の支配が確立する。
 頼朝は平氏を討滅すると、平氏の旧領を没収し、関東以外にも莫大な領地を広げ、その領地を御家人に分かち与えた。とはいえ、それ以外にも公卿や社寺の荘園、国司の支配する国衙(こくが)もあって、これらに幕府の権力はおよばなかった。
 鎌倉時代の初期は、朝廷はまだ権力を失ったわけではなく、両頭政治の時代がつづいたという。とりわけ叙位任官の権利は朝廷に属していた。朝廷の権力が衰えたのは承久の乱(1221年)以降である。この乱に関係した武家と公家の領地は没収され、幕府の権力はさらに強化された。
 鎌倉では源氏の正統は3代で途絶え、北条氏がその実権を握った。だが、その幕府の勢いが衰えると、後醍醐帝が帝権を回復する。しかし、その親政は成功せず、足利氏が新たな帝を立て、57年にわたり南北朝時代がつづいた。
 足利氏にいたって武人政治は完成し、朝廷の権力はまったく失われ、公卿や朝臣もみな幕府の権力のもとに服するようになった。諸国の土地はみな武人の所轄となり、朝廷の命じた国司はすべて滅んだ。
 室町時代において全国の土地はみな守護の所轄となった。守護は幕府の権力を奉じていた。とはいえ、世襲の大名として、次第に専制的な権力をふるうようになる。
 幕府の財政は将軍の所領からの収入と大名の納める租税によってまかなわれていた。足利氏が盛んだったのは義満の時代だけである。その後、守護の勢いが強くなり、下克上の様相が広がり、ついに戦国の世となった。
 織田信長は天下を平定しようとしたが、その途中で反逆にあい、豊臣秀吉があとを次いで、国内をはじめて統一した。だが、その権力も長くつづかず、天下は徳川氏に帰すことになる。
 そのかん皇室の衰退は極度に達していたが、信長、秀吉は勤王の志あつく、それによって皇室の尊厳はようやく回復した、と達吉は記している。
(4)徳川幕府から明治体制へ
 足利時代末期から江戸幕府成立までのほぼ100年を、達吉は中世から近世に移行する過渡期ととらえている。
 国家統一の機運が高まるなか、徳川氏はきわめて強固な武家政権を築いた。江戸幕府は鎌倉幕府や室町幕府と同じく武家政権だったが、前の二つとは大きく性格を異にしていた。世襲の大名が将軍から封土を授けられ、諸国を領しているという意味では封建的だったが、将軍が最高領主としての権力を保持し、国全体を統轄していたのである。
 それでも将軍は君主ではなかった、と達吉はいう。

〈簡単に当時の国体を説明すれば、まず国家最高の地位としては天皇があった。天皇が国家一切の権力の源泉であるとする信念は、古来から変わることがなかった。とはいえ、天皇は国政をみずからおこなうことなく、すべて将軍に委任していた。将軍は天皇の官吏ではなかった。天皇によって随意任免されるものではなく、世襲職として全国の最高領主であったが、それでも君主ではなかった。その最高領主としての地位は君主の委任にもとづくものとされ、形式上、将軍は宣下の式によって天皇から将軍に任ぜられていた。〉

 江戸時代の制度をさらに詳しく述べる必要はないだろう。いずれにせよ長くつづいた徳川政権は明治維新によって瓦解した。大政奉還がなされ、王政復古の大詔が発せられ、「鎌倉幕府以来武門の手に移りたる政治の実権は、ここにおいて始めて朝廷に復したり」と、達吉は記している。
 明治元年(1968年)、五カ条の御誓文によって、明治政府の施政方針が示された。それは「我が国未曾有の大改革」であって、「立憲政体の基礎を定め」、「欧州文明の粋を採用するの主義」を確立するものだった、と達吉はいう。
 明治維新によって封建制度は覆滅され、階級制度は廃止され、中央官制が整えられ、議事機関が発達する。そして、ついに明治22年(1889年)に憲法が発布され、翌年、帝国議会が召集された。「我が国の立憲政体はかくのごとくにして確立したり」と達吉はいう。
 以上ごく簡単に要約した記述をみると、達吉は万世一系という血統主義そのものよりも、皇室が時代に応じてかたちを変え、日本の統合に大きな役割をはたしてきたことに敬意の念をいだいていたことがわかる。しかし、明治体制のもとで組み立てられた立憲君主制が、はたして激動する世界の荒波を乗り切っていけるのか。しばらくの小康をへて、厳しい時代がはじまろうとしている。

nice!(9)  コメント(0) 

nice! 9

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント