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80年代の土地バブル──『バブルの経済理論』つまみ読み(4) [経済学]

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 1980年代の日本の土地バブルをふり返ってみる。
 戦後の急速な経済成長のなかで、日本の地価は上がりつづけ、地価は下落しないという「土地神話」が生まれた
 土地バブル以前に地価が上昇したのは昭和30年代前半(1955〜60年)と昭和40年代後半(1968〜73年)ごろだったという。前半期は工業地の地価上昇が目立ち、後半期は住宅地の地価上昇が目立った。銀行は土地を担保に盛んな融資をおこなっていた。
 1980年代にはいると産業の中心は製造業からサービス業に移り、とりわけ大都市の商業地の地価が上昇しはじめる。

〈1980年代になると銀行間の貸し出し競争が激化して、融資額は土地の評価額のせいぜい7割程度とする慣行は次第になし崩しとなった。銀行は、評価額の8割や9割まで貸し出すようになり、さらには、来年には地価が30%ほど上昇するだろうという見込みをもとに、評価額の10割を超えた貸し出しが横行するようになった。そして貸し出しのターゲットとなったのが不動産業である。〉

 1980年代後半の巨大バブルはどのように発生したか。著者の櫻川昌哉はいくつかの要因を挙げている。
 このころ銀行は預金過剰におちいっていた。製造業を中心とする優良企業はそれまでの借金体質をあらため、銀行からの借り入れを圧縮していた。そのため銀行は新たな融資先として不動産業と不動産購入を手がける金融・保険業への貸し出しを増やすことになる。
 このころの日本人は自信過剰におちいっていた。「アメリカに追いつくことを目標に堅実に努力を続けてきたら、気がついたら世界のトップランナーに躍り出ていた」という気分になっていた、と著者は記している。
 日米貿易摩擦が生じていて、アメリカは不況にあえいでいた。そんななか1985年にプラザ合意が成立し、それによりほぼ1年のあいだに、日本円の対ドルレートは250円から150円へと大幅に切り上がった。日本国内での景気失速を恐れた日銀は1986年から公定歩合の引き下げに踏み切った。日本経済を輸出主導型から内需主導型に転換すべきだという前川レポートが出された。
 国内の不動産ブームに火がつきはじめる。大都市では政府保有の跡地に高層ビルやマンションが林立するようになり、地方ではリゾート開発が進んだ。
 1987年になると、株価と地価の上昇が目立つようになった。日米間の貿易不均衡はさほど是正されていない。2月にパリで開かれた先進国首脳会議G7に先立ち、日銀はアメリカと協調するためさらに公定歩合を引き下げた。
 日銀は物価には敏感だったが、バブル経済への理解力が乏しかった、と著者は書いている。「誰が見ても、金融引き締めのタイミングの誤りが、バブルに拍車をかけたことは疑いようもない事実である」
 1985年末に1万3000円台だった日経平均株価は1989年末に3万9000台をつけた。1985年から1990年にかけ、地価の全国平均は117%高騰した(倍以上になった)。なかでも東京や大阪などの商業地の地価は5〜6倍となった。
 1986年から90年にかけてのバブルの大きさを、著者はGDPの2.4倍とみている。1990年のGDPは427兆円だったから、バブルの規模は実に1025兆円だったということになる。未曾有の大きさだった。その巨大なバブルがやがて破れ、日本経済は最悪のシナリオを迎えることになった。
 日銀は1989年からようやくバブル対策に乗りだし、5回にわたって公定歩合を引き上げ、1990年に6%とした。金融引き締めと並行して、不動産融資の総量規制も実施された。こうして1991年から地価は徐々に下がりはじめた。
 1992年には実質経済成長率がほぼゼロ・パーセントに下落した。地価の下落は巨額の不良債権を生みはじめていたが、積極的な不良債権処理はおこなわれなかった。景気の後退を受けて、日銀は金融緩和に転じた。
 だが、地価も株価も反転することはなかった。1995年には住専(住宅金融専門会社)が破綻し、6850億円の公的資金が投入された。1997年にアジア金融危機が発生すると、国内でも金融危機が生じ、三洋証券、山一証券、北海道拓殖銀行の3つの金融機関が破綻した。
 1998年には日本長期信用銀行(長銀)の経営不安が表面化し、金融再生法にもとづいて、長銀と日債銀(日本債券信用銀行)が一時、国有化されることになった。
 日本では1991年から地価が底打ちするまで13年かかった、と著者は指摘している。これはリーマン危機のときのアメリカが2年後にほぼ地価が底を打ったのと対称的だという。
 それだけ、地価の調整に時間がかかった理由として、著者は不良債権の処理が先送りされたことを挙げている。大蔵省は不良債権の処理に積極的ではなく、銀行や企業も不良債権を隠そうとしていた。
 だが、それも隠しきれなくなる。2002年には「金融再生プログラム」が出され、不良債権の処理が加速化された。2003年にはりそな銀行、足利銀行が国有化された。しかし、2005年には主要銀行に関しては不良債権の処理が山を越し、それとともに地価の調整もほぼ終了した。
 バブル崩壊によって、日本経済が失ったものは想像以上に大きかった、と著者はいう。企業と銀行とのあいだに構築された長期的な融資関係は、土地神話に支えられた「砂上の楼閣」にすぎなかった。
いまも預金は増えつづけているが、企業向けの貸し出しはむしろ縮小している。金融の劣化が進んでいる、と著者はいう。技術進歩に金融がついていけず、投資は低迷している。
 日本経済はバブル崩壊以後、30年間にわたり1%程度の成長率に甘んじるようになった。最初の10年ほどは、過剰債務の調整と投資の低迷がつづいた。1990年以降は生産性の上昇率が低下した。不良債権の処理を先送りしたことがゾンビ企業を温存してしまったという指摘もある。
 2005年になって、不良債権の処理が見通しがたったあとも、日本経済に活気は戻ってこなかった。
 バブル崩壊で楽観主義が失せ、企業家精神が萎縮してしまったのではないか、と著者は危惧している。それとともに「会社」の居心地のよさが、労働力の流動性をはばみ、転職市場を未発達のままにしているともいう。
 企業が内部留保を増やしているのも、そうした保守性のあらわれだ。
 さらに著者は「無形資本経済」への対応の遅れを指摘している。つまり、日本型システムは新たな時代に対応できなくなったために失速したのではないかというわけだ。
 無形資本とは目に見えない知識資本だ。特許や著作権、デザインなどの知的所有権、研究開発、マーケティング、組織資本、データベースやソフトウェアなどをいう。日本はIT化の波に乗り遅れているし、保守的な金融システムが無形資本への投資を阻み、企業の成長を阻害しているという。
 日本企業の閉鎖性も問題だという。
 日本の金融システムの問題点を、著者は次のように指摘する。

〈まずは、銀行が物的資産を担保とした貸し出しから脱却できないことであり、次に、企業が情報開示の重要性を理解しないことであり、そして、預金保険制度が資金の流れを堰き止めていることである。〉

 人間関係のもたれあいのうえに成り立つ日本社会の不透明性が成長の足を引っぱっているのだ、と著者はみている。
 だが、はたしてそうなのだろうか。いま欠けているのは、むしろ未来へのヴィジョンだというような気がする。社会主義が惨状に苦しみ、資本主義がバブルでついえるなか、商品世界の次の光がみえてこないことが、現在の停滞と破壊をもたらしているととらえるのは、ぼくのように無知な老人の妄想なのだろうか。

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