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『憲法講話』をめぐる論戦──美濃部達吉遠望(30) [美濃部達吉遠望]

220px-Shinkichi_Uesugi,_Assistant_Professor_of_Public_Law_in_the_Imp._University_of_Tokyo.jpg200px-Tatsukichi_Minobe,_Professor_of_Comparative_History_of_Legal_Institutions_in_the_Tokyo_Imp._University.jpg
 1912年(明治45年)3月、美濃部達吉は有斐閣書房から『憲法講話』を出版した。前年夏に文部省の委嘱を受け、中等学校教員向けの講習会で10回にわたり憲法について講義した速記に加筆して単行本としてまとめたものだった。
 さらに6年後の1918年(大正7年)10月には、その改訂・縮刷版が出版された。現在、岩波文庫に収められている達吉の『憲法講話』(高見勝利解説)は、この改訂・縮刷版を底本にしている。
 1912年版は626ページの大冊だったが、1918年版は縮刷版とはいえ560ページもある。達吉は「これを縮刷するについては、なおその以後に行われた法令の改正を追補し、その他前版の誤りはなるべくこれを訂正することに努めた」と記している。
 縮刷といっても分量も内容もほとんど変わらない。ただ、「前版の誤り」と称される部分には、論争や言いがかりを招きかねない表現が含まれており、それはカットされた。
 そのかんに何があったのだろう。
 じつは、1912年版から1918年版とのあいだに、第1次天皇機関説論争と称される、同じ東大教授の上杉慎吉(1878〜1929)との激しい論争がくり広げられていたのだ。時代も大きく変わっていた。第1次世界大戦(当時、日本では欧州大戦と呼ばれていた)からとロシア革命へと時代は激しく動いていたのだ。
 ある意味、大日本帝国憲法自体が近代性と伝統主義の妥協のうえに構築されていたといえなくもない。達吉はこの憲法をできるだけ近代の脈絡に沿って読みこむことで、近代国家としての日本の発達を促そうとしていた。ところが、それとは逆に伝統主義のしばりに憲法を押しこめようとする人びともいたのである。
『憲法講話』は次の10講から成っていた。

第1講 国家および政体
第2講 帝国の政体/天皇(その1)
第3講 天皇(その2)/国務大臣および枢密顧問
第4講 帝国議会(その1)
第5講 帝国議会(その2)
第6講 行政組織
第7講 行政作用
第8講 司法/法
第9講 制定法の各種/国民の権利義務
第10講 帝国殖民地(植民地)

 1912年の初版序文には、口語に直すと、およそ次のようなことが記されていた。

〈考えてみると、わが国に憲政が施行されてからすでに二十数年が経過しているのに、憲政の知識はいまだに思いのほか、一般に普及していない。専門の学者で憲法のことを論ずる者のあいだですら、国体なるものを持ちだして、ひたすら専制的な思想を鼓吹し、国民の権利を抑えて、国家への絶対服従を要求し、立憲政治の想定のもと、実際には専制政治をおこなおうとする主張を聞くことが少なくない。
 私は憲法の研究にしたがう者の一人として、長年、このありさまを嘆き、もし機会があれば国民教育のために平易に憲法の要領を講じた一書を著したいと思っていたが、公務繁忙のため、遺憾ながら、その時間をとることができなかった。たまたま文部省の委嘱により、師範学校の中学校校長と教員諸氏の前で憲法の大意を論ずる機会を得たのは、平生の希望の幾分かを満たしうるものだった。
 私は与えられた時間をできるかぎりもっとも有効に利用しようとつとめ、ほぼ予定どおり講演を終えることができた。もとよりわずか十回の講演にすぎないため、法律的な議論の専門にわたるものはなるべく避けたが、それでも憲法上の重要な諸問題はほぼもれなく論ずることができ、それだけでなく、行政組織、行政作用の大略、植民地制度などについても多少論及することができた。なかでも憲法の根本精神を明らかにし、一部の人のあいだに流布する変装的専制政治の主張を排することは、私のもっとも努めたところであった。〉

 この序文には、はっきりと達吉のスタンスが読み取れる。「国体なるものを持ちだして、ひたすら専制的な思想を鼓吹し、国民の権利を抑えて、国家への絶対服従を要求し、立憲政治の想定のもと、実際には専制政治をおこなおうとする主張」に対抗して、帝国憲法の真意が中学校の教育現場を通じて、国民のあいだに伝わっていくことを達吉は望んでいた。
「変装的専制政治」の主張と対決することは、最初から覚悟のうえだった。
 この初版序文は1918年に改訂・縮刷版が出されたときには、完全に取り除かれている。憲法を論ずる「専門の学者」から強い異議が出されたためである。
 1918年の再版では、初版の序文に代えて、本論の前に、次のような言い訳めいた一文が置かれた(表記を除きほぼ原文どおり)。

〈顧みれば、初めて本書を公にした当時には、一部の人々から、本書があたかもわが国体の基礎を揺るがさんとする危険思想を含むもののごとくに攻撃せられ、一時大いに世の視聴を惹(ひ)いた。今ここにこれを再版に付するのは、本書にいかなる欠点があるにもせよ、少なくともかくのごとき危険思想は寸毫(すんごう)だもこれを包含せず、かえって健全なる立憲思想に終始するものたることを確信するからである。〉

 再版のまえがきをみると、『憲法講話』の初版があたかも「我が国体の基礎を揺るがさんとする危険思想を含むもの」であるかのように批判されていたことがわかる。これにたいし、美濃部は本書は「健全なる立憲思想に終始する」ものだと反論している。
 この反論はとうぜんであって、当時の政府当局もこれを認め、また国民の多くも美濃部を支持した。だからこそ、『憲法講話』の改訂・縮刷版が大々的に刊行される運びとなったのだろう。
 国体明徴運動がくり広げられた昭和10年ごろにくらべて、大正の半ばはまだ思想の自由が確保されていた。それにしても、このころからすでに「国体」、すなわち国家の主権者たる天皇の尊厳が思想の踏み絵になっていたことがみてとれる。
 美濃部・上杉による第1次天皇機関説論争はどのようにしてはじまったのだろうか。
 1911年(明治44年)夏に、達吉が師範学校の教員に憲法の講義をしていたのと同じころ、東大で憲法講座を担任する助教授(1912年から教授)の上杉慎吉は、ある県の教育会から依頼されて、6回にわたり帝国憲法についての講演をおこなっていた。そして、そのときの講演速記録をもとに、その年の12月に有斐閣書房から『国民教育帝国憲法講義』を発行したのだった。
 上杉慎吉は1878年(明治11年)、石川県に生まれ、金沢の四高(しこう)を出て、東京帝国大学法科大学に入学し、憲法学教授の穂積八束(ほづみ・やつか)に師事し、政治学科卒業後、ただちに助教授に任命されたという秀才である。
1906年から1909年まで上杉はドイツに留学し、ゲオルク・イェリネックのもとで学び、帰国してから東大の憲法学講座を担当するようになった(1912年に教授)。はじめは国家法人説をとっていたが、次第に天皇即国家を唱えるようになる。
 昭和のはじめに51歳でなくなるが、憲法思想のうえで、日本の右翼思想の源流をかたちづくったといえる。戦後、首相となった岸信介は上杉の教え子の一人だった。
 立花隆はこう書いている。

〈上杉は学者であるにとどまらず、政治的アクティビストでもあった。現実政治を動かすために、政治家、官僚、軍人などと組んでさまざまに動く策謀家であると同時に、志を同じくする者を糾合して、政治活動体を作ろうとするオルガナイザーでもあった。〉

 この上杉の『国民教育帝国憲法講義』を、達吉は1912年(明治45年)5月の『国家学会雑誌』で、こう批評した。

〈本書は国民教育の目的のために編述せられたとのことである。国民教育の書はつとめて穏健なるものでなければならぬ。しかしてこの点において本書は国民教育のために、はなはだしく不適当なものであると信ずる。評者[美濃部]は重ねてこの書を世に推奨することのできぬのを悲しむものである。〉

 これによって論争に火がつく。
 論争は専門誌ではなく、幅広い読者がいる博友社発行の総合雑誌『太陽』の誌上でくり広げられた。
 上杉は「国体に関する異説」と題して、達吉がまるで不逞(ふてい)思想の持ち主であるかのように、その考え方を激しく批判した。
 もちろん達吉はそれに猛反論した。

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