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深まる憲法思想──美濃部達吉遠望(34) [美濃部達吉遠望]

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 第3次桂太郎内閣が発足し、護憲運動がはじまるなか、美濃部達吉は1913年(大正2年)2月11日に、慶應義塾で開かれた憲法擁護会主催の憲法紀念演説会で講演している。大日本帝国憲法は、ちょうど24年前のこの日、紀元節に発布されたのだった。
 演説会で熱弁をふるったのは達吉のほか、尾崎行雄、犬養毅、浮田和民(早稲田大学教授、雑誌『太陽』主幹)、阪谷芳郎(東京市長)である。その前日、桂内閣を糾弾する暴動が議会のある日比谷付近で発生した。政府支持の新聞社が焼き討ちにあい、街は緊張に包まれていた。
 達吉は憲法の意義を諄々と説いた。そして、この日、桂首相は総辞職するのである。
 前年に『太陽』でくり広げられた上杉慎吉との憲法論争を通じて、達吉の評価は大いに高まり、「憲政の神様」尾崎行雄らと並んで、達吉の学説も広く知られるようになっていた。
 このころ、達吉は東京帝国大学で担当していた比較法制史の講座を俊英の中田薫に譲って、みずからは師の一木喜徳郎(いっき・きとくろう)のあとを次いで、行政法の講座を専任で受け持つようになっている。
 美濃部といえば憲法の印象がつよいが、じつは専門としたのは行政法だった。憲法の講座を正式に受け持つようになるのは1920年(大正9年)からである。しかも、上杉慎吉が憲法の第1講座を担当しているのにたいし、達吉はあくまでも第2講座の担当にとどまっていた。
 ここで、少し後戻りになるが、家永三郎の『美濃部達吉の思想史的研究』にもとづいて、達吉の憲法思想をふり返っておきたい。そのとらえ方は、大正時代の進展とともに少しずつ変わっていき、ついに1935年(昭和10年)の「天皇機関説事件」にいたることになるのだが、いまはとりあえず1912年(明治45年)の『憲法講話』あたりまでの考え方をまとめておこうというわけである。
 達吉の憲法把握が、穂積八束(ほづみ・やつか)との対決と、一木喜徳郎の継承を通じて鍛えられてきたことはくり返すまでもない。だが、家永三郎によると、達吉のとらえ方は、師の一木とそっくり同じではなかったという。
 家永はいう。
「彼[美濃部]は、一方において一木学説を継承して穂積を攻撃すると当時に、他方では一木学説を批判していわゆる機関説憲法学の理論的前進を企てたのであった」
 達吉は一木から、次のような学説を継承した。
 立憲君主国においては、君主は統治権の主体ではなく、統治権の主体は国家である。君主は国家の機関として存在する。
 国家の統治権は無制限ではない。統治権には制限があり、国家は国民の権利・自由を侵害してはならない。
 天皇の大権は絶対無制限ではない。天皇は統治権の総攬(そうらん)者として統治権を行使するにしても、それは憲法によって制約されている。
 憲法は天皇の単独の意思によって自由に改廃することはできない。
 天皇には大権があるにせよ、それは帝国議会の関与を認めないというわけではない。
 明治憲法9条には、天皇は「公共の安寧秩序を保持し、および臣民の幸福を増進するために必要なる命令を発し、または発せしむ」と定められているが、これはあくまでも内政の目的に関してのみの例外措置である。
 国会閉会中にやむを得ない措置として出される緊急勅令については、事後に議会の承諾を必要とする。それは緊急勅令の効力を継続するためではなく、政府の行為が正当であるかないかの追認を求めなくてはならないためである。
 帝国議会の権限は幅広く解釈すべきであって、それは国家の政務全般におよぶものとみなされるべきである。
 予算は議会の議決のみによって成立する。天皇の大権によって、これを裁可したり、裁可しなかったりするわけではない。
 そのほかにも、一木の憲法解釈を達吉が引き継いだ点はいくつかある。そのほとんどが、議会の権限を拡大し、国民の権利を強化し、政府の独裁に歯止めをかける方向を示していた。

 だが、達吉は一木の説を祖述するにとどまらなかった。むしろ、一木を乗り越えて、新しい思想的立場を表明しようとしていた、と家永はいう。
 達吉は立憲君主国においては、国権は君主のひとり総攬するところではないとする。とりわけ立法は君主と議会との共同行為であって、「君主と国民と共同して国家の権力をおこなっていくというのが立憲君主政体の本質」だとした。すなわち君民共治の考え方である。
 達吉は憲法の成文を金科玉条とせず、権力による一方的支配を容認しなかった。法が効力を発揮するのは国民の同意があるからこそで、法人たる国家は「全国民の共同団体」であるとらえていた。立憲国家における統治権の行使は国民の同意にもとづかなければならないという立場である。
 また議会の閉会中、天皇の名によって出される緊急勅令についても、達吉は議会が不承諾の場合は、その効力は失われるとした。またその緊急勅令が法律を廃止変更するものであった場合は、議会の不承諾により、廃止変更された法律はその効力を復活すると主張した。すなわち緊急勅令を停止する権限を議会に与えたのである。
 憲法第2章には「臣民の権利義務」が規定されているが、達吉は臣民の権利を重視した。憲法に規定されていない臣民の権利も数多いと主張する。たとえば婚姻の自由、契約の自由、教育を受ける自由、営業の自由などである。憲法に明記されていないとしても、これらもとうぜん認められるべきである。臣民の権利はフランスの「人権宣言」に由来するもので、「臣民は法規にもとづかずして、その自由を侵さるることなし」というのが法治国の原則だとした。
 さらに達吉は「議会は国民の代表機関なり」と論じた。これは現在ではあたりまえの考え方のようにみえるが、明治時代においては、議会はしばしば天皇や政府の補助機関と考えられていた。それにたいし、達吉は議会を国民の代表機関ととらえることによって、民主主義の方向を指し示した。
 国務大臣が責任を負うのは国民の代表機関である議会にたいしてであり、君主にたいしてではないというのも、達吉の近代的な考え方だといえるだろう。
 さらに『憲法講話』で、達吉はこう述べていた。

〈内閣が政党の外に超然たるということは、立憲政治の下においては、とうてい長く維持すべからざるところで、次第に政党内閣、議院内閣に近くということは避くべからざる自然の趨勢であります。……人によっては、日本の憲法の下においては政党内閣、議院内閣は許すべからざるものであるというようなことを言う者があるようでありますが、これは固陋(ころう)なる無稽(むけい)の言にすぎぬもので、何の理由もないことであります。〉

 明治憲法は議院内閣制を採用していない。しかし、達吉は内閣の任免権は君主にあるという、いわば元老や藩閥に都合のよい考え方を否定して、内閣が議会で多数を占める党派によって組織されるのは自然の勢いだという考えを示した。
 以上のような点から、家永は達吉の憲法解釈を次のように評価する。

〈一木にかぎらず初期のアカデミズム憲法学のほとんどすべてが藩閥官僚の超然内閣を正当化するための理論であったのに対し、美濃部においてようやく議院内閣主義の理論的基礎づけとしての憲法学、巨視的にいって上からの官僚憲法学に対する下からの国民の憲法学が形成されたわけである。〉

 達吉はアカデミズムの世界にはいったときから、公法を専門にしたいと考えていた。封建国家から脱して、憲法にもとづく近代国家をつくることがかれの目標だった。その国家はけっして空想ではなく、国民を包括する現実の法人としてそこに存在していた。だれもが国家の一員として、法人たる国家に参加している。だとすれば、それは単に存続するだけではなく、よりよき方向に発展していくものとして、組織され、運営されなくてはならなかった。
 1913年(大正2年)の憲法紀念演説会で、達吉がどんな話をしたかは伝わっていない。憲法にもとづく運動が、これまでの藩閥政治、元老政治を変えていくと説いたであろうことは、おそらくまちがいない。だが、歴史は思わぬ方向に流れていく。

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