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美濃部と大隈──美濃部達吉遠望(37) [美濃部達吉遠望]

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 美濃部達吉は国家主義者ではない。かといって、自由主義者と言い切るにはどこか違和感がある。
 その考えは、君民同治を唱えイギリス型議会主義を理想とした大隈重信と似ている。大正天皇は個人としていえば、官僚主義者の山県有朋を嫌い、議会主義者の大隈重信や原敬に好意を寄せていた。大隈は在任中、何度も参内し、政務だけではなく世間話もし、唄まで歌って、天皇を喜ばせている。そんな大隈を山県に近い枢密顧問官の三浦梧楼は警戒した。
 思想面において美濃部が大隈とちがうとすれば、大隈が政治家としてはとうぜんのオポチュニストだったのにたいし、達吉があくまでも学者としての原則主義者だったという点かもしれない。
 達吉は国家の権力は無制限ではなく、その支配権には限界があり、統治権は国民の権利、自由を侵害してはならないと主張していた。
『憲法講話』では、こう話している。

〈今日においても、いわゆる義務本位の思想がなおかなり強くおこなわれておりまして、ややもすれば国民は絶対に国家に服従する義務があるということを申す者がありますけれども、それは大いなる誤りであります。絶対の服従は奴隷である。〉

 国民の権利、自由を重視する達吉にとって、とりわけ警察権の濫用はあってはならないことだった。警察権の行使にはとうぜん一定の限界がある。1913年(大正2年)に『法学協会雑誌』に発表した論文「警察権の限界を論ず」では、しばしば自由裁量権を認められがちな警察権に、その濫用を防止すべき原則を設けなければならないと主張していた。
 大正のはじめ、達吉は東京帝国大学で行政法の講座を受け持っていた。その講義内容は1909年(明治42年)から1916年(大正5年)にかけて公刊された4巻の『日本行政法』となって結実する。いずれ、その全体像を示してみたいと思うが、家永三郎は「警察権だけにかぎらず、総じて行政作用には限界があって、行政機関がこれを越えてその権限を行使することは許されない、というのが美濃部法学の一般命題であった」と論じている。
 さらに、美濃部が重視したのが、議会の権限強化だったことはいうまでもない。
『憲法講話』では、こう述べている。

〈国会のない国は全く立憲国ではないのであります。もし一口に立憲政体とは何であるかと言うならば、国会の設けてある政体といってよいのであります。しからば国会とはいかなるものをいうのであるかと言えば、国会は二つの性質を備えたものでなければならぬ。第一には国会は国民の代表者たるもので、これが国会の最も著しい性質であります。第二に国会は立法権に参与しおよび行政を監督することを主たる任務としているもので、これが第二の著しい性質であります。この二つの性質を備えているのでなければ、立憲国の意味においての国会ということはできないのであります。〉

 しかし、達吉のどちらかといえば自由主義的な考え方は官閥の反発を招き、それが明治末年から大正はじめにかけての上杉慎吉との激しい論争に発展したことは前にも記した。
 この論争は達吉の評価を高め、このころから達吉は学術誌だけではなく、多くの新聞や雑誌から時事についての論評を求められるようになった。
そうした論評をまとめたのが、1921年(大正10年)に法制時報社から出版される『時事憲法問題批判』である。ここには山本権兵衛から原敬にいたる歴代内閣にたいするさまざまな批評が収録されている。
 大正時代は15年のあいだに11代(再任を含む)の内閣がめまぐるしく入れ替わった。これをみても、日本ではイギリスのような民主政治がなかなか定着しなかったことがわかる。
厳しい時代でもあった。世界では戦争と革命の嵐が吹き荒れはじめていた。そうしたなか、日本の脆弱な議会主義ははたしてもちこたえられるかという課題をかかえていた。
 前回記したように、1915年(大正4年)11月に大隈重信は無事、大正の大礼を終えることができた。だが、前年4月の内閣発足以来、大隈内閣には多くの難題がふりかかり、政治運営はそのときすでに困難をきわめるようになっていたのである。
 最初の試練は「大戦」(第1次世界大戦)への参加だった。日本はそのころまだイギリスとのあいだで日英同盟を維持していた。
 サラエヴォ事件をきっかけに、ヨーロッパでは1914年7月末からドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国などの同盟国と、イギリス、フランス、ロシアの連合国(協商国)のあいだで、大戦争がはじまっていた。
 日本は8月8日に参戦を決定し、8月23日にドイツに宣戦を布告した。
 10月に日本海軍は赤道以北のドイツ領南洋諸島を押さえ、11月に陸軍が中国山東省のドイツ軍拠点、青島(チンタオ)を占領した。第1次世界大戦での日本軍の実質的戦闘はこれで終わる。
 大隈人気はいやおうなく高まった。
 12月の議会解散を受け、1915年(大正4年)3月には、総選挙がおこなわれ、大隈は圧勝する。それまで第1党だった反対党の政友会は一気に議席を減らし、大隈内閣を支える立憲同志会と中正会が議会で多数派を握った。これによって、議会の運営は安定するかに思えた。
 総選挙前の1月18日に大隈政権は中国の袁世凱政権にいわゆる21カ条要求をつきつけ、総選挙勝利後の5月9日に、その主要な項目を認めさせていた。これが次第に大問題になっていく。
 選挙の結果を受け、5月20日から6月9日まで特別議会(第36議会)が開かれた。
 この議会について、達吉は雑誌『太陽』で、こんな感想を述べている。

〈今期の議会はその会期のはなはだ短かったにもかかわらず、種々の事件が起こって、かつて見ざるほどの騒がしき議会であった。その論議に上った重要な問題は、対支外交問題をはじめ、責任支出問題、航路補助問題、予算問題など数々あるが、中にも憲法問題に関して最も論争の目的となったのは、言うまでもなく責任支出の問題である。〉

 責任支出とは、政府の責任による予算外の支出をいう。大隈内閣はその金額として、大正3年度分として5300万円、大正4年度の4月1日から5月16日までの分として1250万円余を計上し、議会での承認を求めた。これにたいし、野党の政友会から、これはいままでにない巨額であり、予算制度の蹂躙(じゅうりん)だ、憲法を無視したものだという非難が巻き起こった。
 一般論として、国庫剰余金の支出は、はたして憲法違反なのかどうかを、達吉は微に入り細に入り論じている。ここで、それを紹介するのはあまりにわずらわしい。結論だけいうと、憲法の条文に照らして、達吉は剰余金の支出は憲法の禁止するところではないと論じ、政府の主張を支持した。予算外支出はその性質上、あらかじめ見積もることのできない費用で、いかなる必要があっても予算外の支出を許さないとするのは、予算の性質上、無理がある。
 とはいえ、政府の責任でおこなわれる剰余金の支出にはおのずから制限があってしかるべきだ。国家の歳出はできる限り予算に準拠しなくてはならず、予算によらない支出はやむを得ない場合にのみ認められる。剰余金の支出が認められるのは、避けられない緊急の場合であること、しかも予備費ではその必要を満たせない場合にかぎられる。
 今回の剰余金支出は、主として戦争の突発にもとづくもので、加えて府県への土木費補助、米価調節費、蚕糸会社補助金が含まれていた。これを剰余金で賄うことができたのは、幸いだった。剰余金の支出は法律上では金額に制限がなく、剰余金があるかぎり支出できるが、それが巨額に達する場合は臨時議会を開いて協賛を得るか、議会が開かれていないときは勅令をへなければならない。議会の協賛も得ず、枢密院にも諮詢(しじゅん)せず、たとえ戦争のためとはいえ、政府の独断で支出したのは穏当ではない、と達吉はいう。剰余金支出については、いかなるものであっても論議されるべきものであり、政府もその正当性をはっきりと説明しなければならない。
 達吉がこんなふうに剰余金支出の原則を論じたのは、予算を扱う議会の原則を確立しておきたかったからである。日本では議会は政争の場となりやすく、予算問題ひとつをとっても議会制度はまだ確固たるものになっているとは言いがたかった。揺るぎない議会制度をつくることは、近代的な国家を建設するうえで、避けては通れない課題であって、公法学者として、達吉はできる限りそれに寄与したいと考えていた。そのことが達吉が長く憲政評論をつづけた理由だったといえるだろう。
 だが、議会が終わったとたんに、またやっかいな問題がもちあがる。
 7月下旬、内務大臣の大浦兼武が選挙前の第35議会で、二個師団増設問題にからんで、野党議員を買収したという贈賄問題が暴露されたのである。大浦は元警視総監で、桂内閣でも閣僚となり、立憲同志会の幹部として大隈内閣でも農商務大臣、内務大臣を務めた。
 前年、大隈政権は大戦の勃発を契機として、これまで懸案だった陸軍二個師団増設を議会に求めた。だが、多数派の政友会と国民党がこれを否決した。そのとき農商務大臣だった大浦が、野党議員を買収していたことが、いまになって暴露されたのである。
 二個師団増設議案が否決されたため、議会は解散され、総選挙となった。大隈は大勝し、大浦は内務大臣となるが、このとき大浦には前年の議員買収だけではなく、選挙違反の嫌疑も加わる。
 こうして7月30日に大浦は辞任する。同日、大隈も監督責任から辞表を提出した。大浦の辞任はやむを得なかった。しかし、大熊自身は大正天皇から辞表を却下されることを期待していた。元老の山県や井上も慰留する側に回った。
 こうして大隈は辞表を撤回し、内閣改造に踏み切る。辞任に固執した加藤高明外相に代わって、外相は当面大隈が兼任し、新内相には達吉の恩師、一木喜徳郎が就任した。
 このあたり、大隈の政治の腹芸である。ところが、達吉はこうした政治のドタバタ劇をきびしく批判した。
 野党議員買収の一件は、大浦内相個人の責任として片づけるわけにはいかない。大浦が議会操縦の役割をはたしていたのは事実であって、それが内閣全体の意向、少なくとも暗黙の承認によるものだったのは間違いない。さらに、首相が監督責任を認め、いったん辞表を提出しながら、それを撤回し、その理由として聖旨にもとづくことを挙げたのも、けっして許されることではない。

〈真に去るの意思なくして辞表を捧呈し、もしくはひとたび去らんと決して、たちまち留任をあえてするがごときは、あまりに国務大臣の進退を軽視するものである。……もしその留任が国家のために必要であると思惟(しい)するならば、初めより辞表を捧呈せざるが至当であり、もしその辞任が自己の責任上当然であるとするならば、聖恩優渥(ゆうあく)にして、たとえその罪を宥したもうとしても、その辞意を翻すのは、志尊を輔翼し奉るの職責を全うするものではない。いわんやその留任の理由として、もっぱら聖旨に基づくことをもって弁明の辞となしたに至っては、責を志尊に嫁し奉るもので、恐懼(きょうく)この上もない次第である。〉

 こうした一文を読むと、達吉が自由主義的な議会主義者であると同時に、熱烈な尊皇主義者であったことが伝わってくる。
 そして、大隈にとっては、自らの手でなんとしても3カ月後に迫る大正の大礼を成し遂げたいと思う気持ちが、辞任をおしとどめたのである。

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