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寺内正毅内閣──美濃部達吉遠望(38) [美濃部達吉遠望]

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 ありていにいえば、第2次大隈重信内閣(1914年4月〜1916年10月)の実績は、第1次世界大戦に参戦し、中国、太平洋のドイツ利権を奪ったこと、さらにその勢いで中国の袁世凱政権に21カ条要求をつきつけ、中国での利権を確保したことだったといえるだろう。
 それにより、大隈内閣への評価はいやが応にも高まり、総選挙でも大勝を収めた。だが、そうした対外行動は、いずれも禍根を残し、その後、日本の孤立化をもたらすことになる。そのとき戦争の勝利に有頂天になっている日本は気づいていなかった。
 このとき日本の国際戦略を中心になって主導したのは、立憲同志会総裁として大隈内閣の外務大臣の責を担っている加藤高明(1860〜1926)だった。
 加藤は三菱の岩崎弥太郎の女婿で、三菱本社の副支配人を務めたあと、政界に転じ、大隈の秘書官や駐英公使を歴任し、西園寺内閣、桂内閣でも外務大臣を務め、桂の結成した立憲同志会を継承した。山県有朋や井上馨などの元老の意向を無視し、独自の判断で政策を推し進める傾向が強かった。
 加藤は大浦内務大臣のおこしたスキャンダルと21カ条問題の紛糾によって、大隈が内閣を改造した1915年(大正4年)8月に内閣を離れるが、それでも大隈は加藤をみずからの後継者と目していた。
 大正の大礼を無事、成し遂げたあと、大隈は満洲の勢力範囲分割をめぐってロシアとのあいだで第4次日露協約を結んだ。これが、大隈退陣の花道となる。
 山県の意向をくんだ貴族院の妨害などにより議会運営がむずかしくなり、いよいよ引き際だと感じた大隈は、参内して大正天皇に加藤高明を次期首相に推薦するという異例の行動をとった。だが、大隈の画策は山県有朋によって阻止される。そして、紆余曲折の末、元老会議により次期首相には元帥で朝鮮総督の寺内正毅(まさたけ)が選ばれることになった。
 首相の座を得られなかった加藤は、中正会の尾崎行雄などにも働きかけ、みずからの立憲同志会と合同して、憲政会を結成した。このとき憲政会は198議席を有する衆議院第1党になった。
 美濃部達吉は大隈政権時代の大浦内務大臣による議員買収や選挙干渉について厳しく批判したものの、21カ条問題などの外交問題については、いっさい論及を避けている。憲法や行政にからむ問題以外は専門外なので、論評を避けたのだろうか。それとも達吉もまた、日本が獲得した山東半島、南洋諸島、南満洲、内モンゴル東部、その他の利権確保に喜びを隠せなかったのだろうか(山東半島はのち中国に返還、南洋諸島は日本の委任統治領となる)。
 こうした日本の海外進出ぶりに、イギリスやアメリカは次第に警戒感をいだくようになる。加えて、中国や朝鮮の内部から巻き起こったナショナリズムが、日本への抵抗意識を高めていくことを懸念する日本人は少なかった。帝国主義の時代がつづいている。
 寺内正毅(まさたけ、1852〜1919)は長州の下級武士の家に生まれ、戊辰戦争や西南戦争に従軍したあと、軍事畑を歩み、陸軍大臣、朝鮮総督などを歴任した。元帥となり、山県有朋を中心とする元老会議の推薦により、大命を受けて、総理大臣に就任する。
 寺内内閣は政党の基盤をもたない長州閥の内閣で、超然内閣、あるいは非立憲内閣と呼ばれることが多かった。
 衆議院からの支持はほとんどなく、憲政会を結成した加藤高明は、さっそく1917年(大正6年)正月に開かれた議会で、犬養毅の国民党に賛同して寺内内閣への不信任案を提出した。だが、犬養自身はこれまでの政治的いきさつや大隈内閣の対華政策への批判もあって、加藤高明の憲政会には、けっして好意をいだいていなかった。
 内閣不信任案が可決されると総選挙になった。国民党は議会第1党の憲政会に同調することはなく、むしろ憲政会を批判する側に回った。原敬の率いる政友会は、寺内政権に是々非々の方針をとっていたが、政府の選挙干渉を警戒しながらも、今回の総選挙を党勢回復のチャンスととらえていた。
 4月20日の総選挙の結果、政友会は議席を54増やし、165の議席を獲得する。いっぽう憲政会は78減らして121となった。憲政党は第2党に転落した。だが、政友会の議席は過半数に達しなかった。そのため35の議席を確保した国民党がキャスティングボートを握ることになった。
 総選挙の結果を受け、6月23日から7月14日まで、第39回議会(特別議会)が開かれる。
 この議会について、達吉は『法学協会雑誌』で論評している。
 このころ総選挙後に開かれる国会を「特別会」と呼ぶのがすでに通例になっていたが、達吉は帝国憲法には特別会の規定はなく、通常会と臨時会の規定しかないので、あえて特別会としなくても臨時会と呼べばいいのではないかと主張している。
 しかし、その後も総選挙後に開かれる国会は特別会(ないし特別国会)と呼ばれ、達吉の提案が受け入れられることはなかった。これは現在もそうである(日本国憲法では総選挙後の国会を「特別会」とすると定められている)。
 さらに、達吉は前国会で提出された内閣不信任案についても触れている。寺内首相は不信任案は議会の権限を逸脱し、大権を干犯するものだと発言していた。帝国憲法には議会が不信任案を決議しうることは明記されておらず、そもそも議会が不信任案決議によって大臣の罷免を求めること自体、天皇の大権を犯すものだというのである。
 この発言に達吉は論駁を加えた。たとえ憲法に明記されていなくとも、議院に不信任案を提出する権限があるのは当然のことだ。そもそも、立憲制度における議会のもっとも重要な役割は、内閣を監視し、その実績を評価することにあるのだ。また不信任案決議が天皇の大権を犯すものだという批判についても、内閣の失政を弾劾して、その免職を求めるのは、議会に与えられた権限であり、決して天皇の大権を犯すものではないと主張した。

〈もしこれをしも否定せば、これ実にほとんど立憲制度そのものを否定するにことならぬ。吾輩は政府当局者がなお少しく憲法の真義を理解し、我が帝国をしてひとり世界文明国の一般思潮に背戻(はいれい)するの歎なからしめんことを切に希望するものである。〉

 古風な言い回しながら、あくまでも議会主義を擁護しようとする息遣いが伝わってくるだろう。
 議会主義のもと、日本は決して専制国家、封建国家に逆戻りしてはならない、と達吉は主張した。そのためには議会のルールが国民全体の常識になることが求められた。
達吉は不信任決議案の提出がはたして妥当かどうかを問うてはいない。しかし、議会に内閣不信任案を出す権限はないという考えを時代遅れもはなはだしいと、寺内の考え方をただしたのである。
 さらに、達吉は寺内が天皇直属の「臨時外交調査会」なるものを設けるとした提案にも触れている。ていよくいえば、これは議会から遊離する寺内内閣が各党指導者をみずからの陣営に取り込もうとした苦肉の策だったといえる。
 寺内は政友会の原敬、憲政会の加藤高明、国民党の犬養毅に働きかけ、いまだにつづく大戦下の国防政策を定めるため、天皇直属の臨時外交調査会に加わるよう求めたのである。これにたいし、原と犬養は応じたが、加藤は天皇を輔弼(ほひつ)する調査会を設置すること自体が憲法違反だとして、これに加わらなかった。
 達吉自身は、法律上からいえば、外交調査会の設置は決して憲法に違反するものではないとの見解を示した。

〈吾輩は、単純なる法律論としては、政府の弁明のごとく外交調査会の設置があえて憲法に違反するものにあらざるを信ずるとともに、政治上の問題としては少なくとも大臣責任制度の精神に背反するものなることを信ずるものである。しかしながら、政治上の問題はこと憲政の運用の範囲に属し、しかして憲政の運用は時の必要に応じて進化し変遷すべきものであって、いやしくも直接に憲法に違反するものでない以上は、あえて理論に拘泥してその可否を論ずべきものではない。〉

 なかなか理解するのがむずかしい。
 憲法が大臣責任制度という建前をとる以上、委員会の決議が大臣の行動に影響を与えるかもしれないという点で、それは大臣の自由輔弼制度を妨げるかもしれない。しかし、すでに教育調査会や産業調査会、国防会議などの委員会が存在することからみても、外交調査会の設置が憲法に違反するものとは思えないと論じた。達吉は憲法の文言解釈よりも、あくまでも政治的実効性に重点を置いた。
 憲法にからむ問題は、現実政治とあいまって、次から次にわいてでた。このころ達吉は、それらに目配りをおこたらず、新聞や雑誌にみずからの考えを示すようになっていた。注目すべきは、その見解が立憲制度の促進をめざしていても、特定の政党や勢力に傾いていなかったことである。
 寺内内閣は軍事強化の色彩が強い内閣だった。総力戦体制の構築という点から、教育改革にも熱心に取り組んだ。傷病兵や戦死者遺族の困窮を救うための軍事救護令、軍事力の近代化(自動車・飛行機の本格導入)、大艦建造計画、理化学研究所の設立、重工業の育成などである。言論統制には積極的で、そのいっぽう経済政策にはさほど力点を置かなかった。
 袁世凱が21カ条要求の一部をのんだことにより、日本はまもなく期限を迎えようとしていた遼東半島(旅順・大連)の租借権、南満洲鉄道(満鉄)の経営権を99年間認められることになった。ロシアとの協約も加えると、これは日本がほぼ半永久的に南満洲を支配できることを意味する。これにより、旅順、大連を中心とする関東省(その軍が関東軍)が実質上、日本の植民地となった。
 余分なことかもしれないが、この関東省をめぐっては、1917年(大正6年)の通常国会で、帝国憲法は関東省でも実施されるかという論議がたたかわされている。
 達吉の見解は明白だった。関東州には直接、帝国憲法の効力は及ばないと言い切っている。

〈すべて法は社会生活の法則であり、したがいて特定の法は特定の社会に伴うて存在するもので、憲法もまた憲法制定の際における日本の社会を律するがために制定せられたものであるから、憲法制定後に新たに帝国の統治の下に属した新たなる社会に対しては、憲法は当然にはその効力を及ぼすものではない。もし憲法を新社会に施行せんとならば、特にこれを施行すべきことを定むることを要するのである。憲法が関東州に効力を及ばさないのは、ただこの理由によるものであって、しかして同一の理由は朝鮮および台湾にも等しく適用せられるべきものである。〉

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