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シベリア出兵と米騒動──美濃部達吉遠望(39) [美濃部達吉遠望]

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 寺内正毅内閣で知られるのは、何といってもシベリア出兵と米騒動である。
 1917年3月(ロシア暦では2月)にロシア革命が発生し、ロマノフ王朝が崩壊した。その半年後の11月(ロシア暦では10月)、レーニンが武装蜂起し、ケレンスキーの臨時政府を倒して、政権を奪取した。
 帝国主義列強によるボリシェヴィキ政権への干渉がはじまる。日本もその動きに乗じて、シベリアに出兵した。
 ボリシェヴィキに反対するロシアの軍人たちにバイカル湖以東のシベリアを占領させ、かれらがそこに自治国をつくるのを日本が支援する。陸軍参謀本部は、そうした甘い夢と計画を描いた。あわよくば傀儡(かいらい)国家をつくり、シベリアの豊かな資源を手にいれることが目的だった。だが、それが表だってあきらかにされることはなかった。
 1918年(大正7年)8月、日本はシベリアに軍を送った。第12師団がウラジオストクに上陸、満鉄沿線駐屯の第7師団、第3師団は内モンゴルの満洲里(マンチュリ)からバイカル湖方面に向かった。その兵力は7万3000にのぼった。
 だが、ボリシェヴィキ政権はもちこたえ、ロシアにいつづける日本はイギリスやアメリカなどからも非難を受けることになった。そのため、日本軍はついに1922年(大正11年)10月にシベリアから撤兵することになる。
 米騒動が発生したのはシベリア出兵の直前である。景気が悪かったわけではない。むしろ、世界大戦のにわか景気が、製薬や染料、製鉄、製紙、造船、鉱山などの会社をもうけさせ、多くの成金を生み、株価も上昇していた。だが、そうしたなか、インフレが進行し、貧富の格差が拡大していたのである。
 米騒動は、富山の漁師の女房たちが、米価のあまりの高さに堪忍袋の緒が切れ、県外に米が搬出されようとするのを阻止するため、資産家や米屋に押し寄せたことからはじまる。
 この事件は、新聞にも「越中女一揆」として紹介された。米はさらに上がりつづける。すると8月半ばに京都や名古屋、大阪、神戸などでも、米価引き下げを求める暴動が発生した。騒乱の渦は、秋風が吹きはじめるころまで収まることがなく、一部では軍隊が出動する状況となった。
 米騒動は50日におよび、一説によると街頭の騒動に加わった者は100万人におよんだとされる。
 寺内内閣は米騒動にからむ記事をいっさい掲載しないよう全国の新聞社に通告した。これにたいし新聞各社は反発し、こぞって政府に掲載禁止処分の取り消しを求めた。寺内内閣退陣要求の動きが強まる。
 政界では、寺内は万難を排して留任し、事態の収拾にあたるべきだという意見もみられた。しかし、引きつづく体調不良もあって、寺内は辞任を決意し、在任中、自分を支えてくれた政友会の原敬に政権を引き継ぐ意向を示した。問題は元老、山県有朋がはたしてそれに同意するかどうかだった。
 山県は政党内閣を毛嫌いしていた。口が達者なだけで、ろくに行政を知らない政党人が政権を握るのは、想像しただけでむしずが走った。しかし、山県のもとには、すでに手駒がなくなっていた。
 清水唯一朗は原敬の評伝で、こう書いている。

〈頼みの西園寺公望は病身であり、後進に道を譲るべきという美辞を重ねて断ってくる。山県が目をかけてきた平田東助[元内務大臣]はこの難局を担う気がなく、清浦奎吾[枢密院副議長]にいたっては、この事態を乗り切れるのは、衆議院のみならず、貴族院、枢密院、陸軍にも良好な関係を築いた原しかいないと強く勧めてくる。それは山県もわかっていた。〉

 たしかに、現在のシベリア出兵と米騒動という難局を乗り越えられるのは政友会総裁の原敬おいてほかになかった。こうして、原に組閣の大命が下り、日本初の本格的政党内閣が誕生する。
 その後、原はことあるごとに山県と密接な関係を築き、山県の信頼を勝ちとっていく。また原は以前から官僚出身者を党に取りこむことで、政党の質を改善し、政党内閣が機能するための条件を整えていた。
 新聞は原を「平民宰相」とほめそやした。これまでの藩閥政治から脱した、新しい政治が生まれると期待したのである。
 1918年(大正7年)10月1日に原は総理大臣に就任した。だが、このとき原がかつて親しくことばを交わした大正天皇は、認知症が進み、言語もはっきりしなくなっていた。
 そのころ美濃部達吉は相変わらず学務に追われる生活を送っていた。東京帝国大学で行政法の講義を受け持つほか、米国憲法についての研究も進めていた。それでも、雑誌などから憲政をめぐるテーマで執筆を依頼されると、こころよく引き受けている。
 米騒動がおこるひと月ほど前、雑誌『太陽』に、達吉の「近代政治の民主的傾向」というエッセイが掲載された。
 そこには、こんな一節があった。

〈政治上における民主主義は、近代の世界諸国に共通の趨勢である。その実現せらるる程度の大小傾向には、国により甚大なる差異があるけれども、いずれの国といえども全くその趨勢に影響せられないものはない。その趨勢の殊(こと〉に著しくなったのは、十九世紀の中葉以後であって、世界大戦の勃発以後は、国民一致の努力と犠牲とを要求することが極めて痛切であるがために、その傾向はますます顕著となった。その趨勢はいかなる勢力をもっても、これは抑制することの出来ないもので、しいてこれを抑制せんとするは、かえって革命を醸成するの危険がある。聡明なる政治家は、よろしく大勢にしたがってこれを善導すべく、いたずらに大勢に逆行してこれを抑制すべきではない。〉

 達吉がこの一文を記したときは、まだ寺内内閣がつづいていたが、民主主義を求める声は次第に強くなっていた。吉野作造も2年前の『中央公論』に「憲政の本義を説いて其(その)有終の美を済(な)すの途(みち)を論ず」という論文を発表し、「民本主義」という遠慮がちな概念を使って、デモクラシーの意義を説いていた。
 達吉はここからさらに踏み込んで、民主主義は世界の趨勢となっており、もはやこれを抑制することはできない、あえて抑制しようとすれば、かえって革命を招く恐れさえある、と論じている。ロシア革命によるロマノフ王朝崩壊が、日本の支配層をも震撼させていた。
 それでは民主主義が世界の趨勢だとするなら、民主主義とはそもそも何なのか。それは、けっして恐ろしいものではない、と達吉はいう。
 民主主義とは、ひとつに代議制度が設置されていることを指す。
 次に選挙権があること。20世紀に入ると、欧米諸国では広く普通選挙がおこなわれ、イギリスなどでは女性にも選挙権が認められるようになった。
「民主主義の大勢のおもむくところ、ことに労働階級の地位の上進した結果は、もはや政権を資産階級の独占たらしむることを不可能ならしめたのである」。日本でも普通選挙権の確立が求められている。
 そして、議会の存在。イギリスの慣例にならい、ほとんどの国は二院制の議会をもつようになり、さらに議院内閣制をとる国も生まれている。これは権力の一体性を志向するためで、イギリスなどでは貴族院の権限が制限され、議会はほとんど一院制に近いものになっている、と達吉はいう。
 次に国民的政府を実現すること。
「民主主義は立法府について民選議会を要求するすると同時に、行政府についても、また国民的の政府を要求する」
「国民的政府の要求はますます緊切となり、今日においてはまさに近代的民主主義の中心思想をなすものということができる」
 それを可能にするには議院内閣制をとる以外にない、と達吉はいう。
 民主主義を支えるのは国民の自由である。言論、出版その他、思想発表の自由が認められなくてはならない。さらに結社の自由も認められなければならない。いっぽう国家は治安を維持するだけではなく、進んで社会の福利を増進し、文化を開発する任務を有する。
 民主主義は政治の公開を要求する。かつて政治は為政者の独断によっておこなわれていた。だが、近代の民主主義は「政治が国民の批判のもとに行われることを要求するものであって、秘密政治を排斥する」。
 民主主義がめざすのは、国民参加による政治の実現である。総選挙は実際には国民投票とほぼ同じ効果を有しており、「議員選挙の結果は、すなわち時の政治問題についての国民の意見の発表たる実際上の効果を有する」。
 達吉はこんなふうに民主主義とは何かを述べ、日本ではまだ実現途上にある民主主義を定着させていくことこそが、これからの政治課題だと主張している。
 民主主義が国体と両立しない思想だとする考え方は根強かった。これにたいし達吉は反論する。
 日本という国が、古来、皇室中心主義を基礎としていることはいうまでもないことだ。しかし、民主主義が明治維新以来、日本の国是であることは、五箇条の御誓文に「広く会議を興し万機公論に決すべし」とあるのをみても明らかだという。その国是を無視して、民主主義を抑圧するのは極めて無謀である。
 さらにこう述べている。長くなるが、漢文調の文体からは、当時の緊張感が伝わってくるので、そのまま引用しておこう。

〈今や我が帝国は、東においては旧来の民主国たる米国と相対し、西においては支那およびロシアは相次いで民主政体をとるに至り、四隣ことごとく民主国に囲繞(いにょう)せらるるのありさまにある。もとより我が国体の基礎は盤石の堅き泰山の安きに比すべく、隣国にいかなる政体の変動があるとしても、我が国体はこれによって微塵(みじん)の影響を受くべきではないが、安きが上に安きを加え、鞏(かた)きが上になおいっそう鞏からしめんがためには、維新以来の国是を逐(お)うて、宜(よろ)しきに随(したがい)て近代的民政主義の精神を徹底せしめ、全国民の一致の努力をもって国家の重きに任ぜしむるに如(し)くはない。〉

 清朝が倒れ、大戦によってロマノフ王朝が倒れ、太平洋の向こうにはアメリカがあって、日本はすでに周囲を民主国に取り囲まれている。そのなかで、日本がびくともしない政治体制を保っていくには、天皇のもとで、明治以来の国是である民主主義を発展させていかなければならない、と達吉は思っていた。
 このエッセイが発表されたのは、米騒動がおこる直前だった。そして、米騒動の全国的な広がりは、むしろ達吉に自分の考え方が正しいことを確信させたのではないだろうか。
 なお余分なことを付け加えると、達吉が民主主義を論じるにあたって社会契約説、あるいは天賦人権説をとっていないことにも注目すべきだろう。生まれつき人権を与えられた個人は、国家と契約を結ぶことで、国家に自らの保護を委ねるという社会契約説の考え方は、いわば国家と個人を対等とみなす思想にほかならなかった。
 これにたいし、達吉はあくまでも国家を求めるのは人類の必然の要求であって、国家を離れて人類の生活はないと思っていた。民主主義を民政主義と言い換えるのもその考え方を反映している。
 人は国家のもとに生まれる。その意味で、国家は個人に先行している。だからこそ、近代国家は民主的な制度をもたなければならない、と達吉は考えていた。

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