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重田園江『ホモ・エコノミクス』を読む (1) [商品世界論ノート]

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 タイトルにひかれて買ったが、難解な本だった。むずかしい話はわからない。それにもう時代についていけなくなっている。
 そこで、理解できた部分だけについて(ほんとうは理解していないのかもしれないが)まとめることにする。
 最初に著者は純粋な「ホモ・エコノミクス」などはいないと書いている。それでも現代人は生きているかぎり、日々何らかの経済行動をとらなければならない。
 ホモ・エコノミクスとは合理的な経済人のことだ。「自分の経済的・金銭的な利益や利得を考えて行動する人」のことだという。そうした経済人が登場するのは近代になってからだ。
 著者は18世紀から20世紀までの経済学を典拠として、ホモ・エコノミクスの思想史をえがこうとしている。
 いまの時代はだれもが多かれ少なかれホモ・エコノミクスで、その頂点にいるのが金持ちである。だが、金儲けをよしとする考え方は、キリスト教的道徳が支配的な時代には、そうすんなりとは受け入れられなかった(日本もおなじ)。
 経済第一の時代がはじまるのは、近代になってからである。それまで貨殖や蓄財はいやしまれ、質素や節制、清貧、魂の救済こそが尊ばれていた(単純にそうとは言い切れないかもしれないが、そういうことにしておこう)。
「近代以前の多くの社会で、富の追求は禁圧され、あるいは危険とみなされ、注意深く取り囲まれ、野放図にならないように規制されてきた」
 しかし、13世紀ごろになると、商業や利子が次第に認められていく。さらに15世紀になると、自分たちは社会のために有益な仕事をしていると胸を張る商人もでてくるようになった。実際、交易や商業活動、都市化が進み、商人の役割がだんだん大きくなっていった。
 さらには、経済競争に勝ち抜いた者は正しく、貧困から抜け出せない者はどこか劣っているという見方すらでてきた。
 マンデヴィルの『蜂の寓話』(1714年)は、人びとの利己的な欲望の追求が全体の利益につながると主張したことで知られる。
 ハチソンはこれにたいし、信仰心に支えられた節度の欲求を守ることでこそ、人びとは徳を保ちながら、繁栄する社会をつくることができると論じた。
 この富と徳をめぐる論争は、その後もつづいた。
 ハリントンは『オシアナ』(1656年)のなかで、土地の均等所有と財産の平等を基本とする農本主義的な共和制を擁護していた。そこでは奢侈と商業は危険なものとみなされていた。金銭と富は武勇の徳を奪う危険な媚薬にほかならなかった。
 だが、けっきょく勝利したのは「富」派である。
 ここに登場するのがヒュームだ。
 ヒュームにとって、徳は快楽や効用、利益と結びついている。中世ではそれらはむしろ悪徳ととらえられていた。
 それをヒュームは逆転する。快楽や効用、利益は、だれにとっても徳(善きこと)なのだという。この発想は共感をもって受け止められる。
 ヒュームは商業社会においては、商業の発展が個人と国家の発展をもたらすという。これにたいし、軍事的な農業共同体であるスパルタでは、徳は武勇に求められ、人びとには富を追求する余地が与えられなかった。
 ヒュームはさらに豊かさが洗練と礼儀作法をもたらし、人の情念を穏やかにするという。
奢侈を恐れる必要はない。多少、豊かになったからといって、社会は腐敗するわけでも人間性が毀損されるわけでもない。むしろ、その逆だ。
 だが、ヒュームにはブルジョア趣味がある。それはミニ宮廷へのあこがれに似たようなものだ。スミスはヒュームを受け継いだが、ある意味、ヒュームを批判している、と著者はいう。
「それでもスミスがヒュームと異なるのは、富裕は徳とは相容れないものだと考えるようになり、それが立派さを僭称するのは危険だと、かなり真剣に受け止めていたことだ」
 スミスは、人びとが富者や権力者をあがめ、貧者を蔑視するのはまちがいだという。富者の傲慢は道徳的頽廃以外の何ものでもない。スミスはむしろ慎ましい生活を送る庶民にこそ徳を認めた。
 庶民の徳を体現するのが、時は金なりのベンジャミン・フランクリンだ。フランクリンはその『自伝』(1771〜90)で13の徳を掲げる。すなわち、節制、沈黙、規律、勤勉、誠実、正義、中庸、清潔、平静、純潔、謙譲。懸命にこつこつと働き、富を得るべしとした。
 しかし、時代はブルジョアの世紀に向かっていた。ゾンバルトの記述を参照しながら、著者はこう書いている。

〈近代の経済人たちは、子どものように何であれ大きな金額を喜び、大きいものに価値を与える。比較はすべて質を量に還元することで成り立つ。なぜだか分からないが、とにかっく新しければ何でもいいものと見なされる。こうした価値が、人々を投資や投機に向かわせる。売るためのものの生産にのみ関心が持たれるようになり、大衆は買わせるために動員される。商売人は買う気がない人もその気にさせようと躍起になり、新しい需要が実需に反して無理やりにでも喚起される。〉

 ホモ・エコノミクスが躍進しようとしている。
 つづきはまた。

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