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原敬内閣の課題──美濃部達吉遠望(41) [美濃部達吉遠望]

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 原敬内閣はそれまでの寄り合い所帯とは異なる本格的な政党内閣をつくりあげた。
 原は藩閥の出身ではない。それどころか維新のさい朝敵となった盛岡出身で、それまでの総理大臣とちがい何の爵位ももっていなかった。そのため新聞などからは平民宰相と呼ばれたが、もともとは盛岡藩家老の家柄である。
 原は外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣を除き、内閣をすべて政友会のメンバーで固めることにこだわった。そのため、行政経験のある有能な官僚を党に引き入れ、代議士の質の向上をはかることを以前から怠らなかった。
 こうして原内閣では、内務大臣に床次竹二郎、大蔵大臣に高橋是清、農商務大臣に山本達雄、文部大臣に中橋徳五郎、逓信大臣に野田卯太郎、鉄道大臣に元田肇といった顔ぶれが並ぶ。
 外務大臣には当初、大久保利通の次男、牧野伸顕をあてる予定だったが、本人が辞退したため、前駐露大使の内田康哉に役目が回ってきた。陸軍大臣には山県有朋の推薦で田中義一、海軍大臣には寺内内閣からの留任で加藤友三郎が就任した。
 原内閣の課題はいくつもあった。
 ひとつは米騒動の後始末である。米の値段を下げるとともに、外米を輸入して米の安定供給をはかる努力がなされた。いったん上がった米価はなかなか下がらない。しかし、賃金が上昇したので、ふたたび米騒動がおこることはなくなった。
 もうひとつの課題が選挙法の改正だった。1890年(明治23年)に選挙法が制定されて以来、選挙の区割りは10年ごとに見直されることになっていた。1900年(明治33年)からは大選挙区制が導入されたが、小政党が乱立し、金持ちの地元ボスが数多く当選する結果を招いた。
 そこで、原は議会に小選挙区制を基本とする衆議院議員選挙法改正案を提出し、通過させる。選挙権の納税要件は国税10円から3円に引き下げられた。だが、選挙法をめぐっては、その後、野党の憲政会、国民党からも新たな法案が出されて、議会が紛糾することになる。
 外政面ではシベリア撤兵を実現しなければならなかった。陸軍大臣の田中義一は、それまでの意見を変え、原と協力し、シベリアの軍を引き揚げる方向に舵を切った。
 1919年3月には日本のシベリア駐留軍は7万5000から半減された。だが、翌年3月から5月にかけ、アムール川(黒竜江)河口のニコラエフスク(尼港)で赤軍パルチザンによる日本人虐殺事件が発生する。そのため、日本軍が沿海州からほぼ撤退するのは1922年10月までずれこむことになる。
 さらに原内閣にとって重要な課題があった。それは、第1次世界大戦後の新たな国際秩序に日本がどうかかわっていくかということにほかならなかった。
 1914年7月にはじまった第1次世界大戦はようやく1918年11月に終結した。原内閣が発足してから2カ月後のことである。大戦中、1917年にロシアで、1918年にドイツで革命が発生し、両国の皇帝が退位した。敗戦国となったオーストリア・ハンガリー帝国、オスマン帝国でも皇帝が退位する。
 1919年1月には、パリのヴェルサイユで講和会議が開かれることになった。原はヴェルサイユ会議に首席全権として西園寺公望、実質的な責任者として牧野伸顕を送りこんだ。
 その講和会議が開かれているさなか、朝鮮では三・一独立運動、中国では五・四運動が発生する。
 時代が動いている。美濃部達吉もそんな時代と無関係ではありえない。
 達吉は東京帝国大学法科大学で行政法を担当しながら、1920年(大正9年)からは上杉慎吉と並んで憲法第二講座を受け持つようになる。民主主義と議会主義を擁護する姿勢は、かれの信念となっていた。
 その信念は1918年12月の『法学新報』に掲載された「罰則を定むる命令」という論考にも、はっきりと現れている。
 やや専門にわたるが、ここで達吉が批判するのは、1889年(明治22年)の帝国憲法発布から1年半後に出された一つの例外法だった。
 帝国憲法23条には「日本臣民は法律に依るにあらずして逮捕監禁審問処罰を受くることなし」と定められれている。ところが最初の議会が開かれる前の1890年9月に「命令の条項違反に依る罰則の件」という法令(法律第84号)が出されていた。それは行政機関の命令の条項に違反する者にたいしては、200円以内の罰金もしくは1年以内の禁錮に処すというものだった。
 行政機関の命令権を強化しようとした法令にほかならない。達吉は、勝手に罰則を定めるのは行政権の濫用にほかならず、議会を経ずに定められた法令は憲法の精神に反するもので、ただちに改定されるべきものだと主張した。
「行政機関にかくの如き広い範囲の刑罰権を与えていることは、世界の諸立憲国に全く例をみないところで、ひとり我が憲政上の一大暗黒点と言わねばならぬ」
 議会での審議を経ない例外法によって行政権を拡大できるとすれば、いったい何がおこるか。それは事実上、行政が法律によることなく命令を発することができるということである。しかし、近代の法治国家は「法律なければ刑罰なし」が原則であり、その法律も立法権をもつ議会において定められなければならない。
 達吉はいう。

〈今や世界の体制は一日は一日とますます民衆的の傾向に進み停止するところを知らざるの有様にある。我が国、ひとりこの大勢に逆行せば、その危険測るべからざるものがある。この危険を防ぎ、我が光栄ある国体を擁護するには、この大勢に順応して、我が国体と民衆的傾向との調和を計るのほかはない。〉

 達吉は行政機関の強い命令権を定めた「例外法」を改正し、その範囲を狭いものにするべきだと主張している。そして、その改正をまもなく開かれる原内閣初の通常国会に期待したのだといってよいだろう。
 だが、それは実現しない。実際、この法律が廃止されるのは、第二次大戦後の1947年(昭和22年)になってからだった。その間、国体が民衆を縛る傾向はますます強まっていった。
 ところで、原内閣の最初の通常議会で最大課題として取り上げられたのが選挙法の改正問題だったことは前に述べた。
 達吉も1919年2月の雑誌『太陽』でこれに言及している。
選挙法の改正では、選挙権の拡張と選挙区の改正がテーマになることはいうまでもない。
 まず、選挙権の拡張に関しては、納税資格、学歴で制限を課するか、あるいは普通選挙まで進むのかという議論がなされてしかるべきだった。だが、国会ではそこまで進まない。
 納税資格を現在の10円から3円に引き下げるか、それとも2円にするかというのが国会の議論である。
そうした議論は姑息なもので、納税資格を下げたところで、それは従来選挙権を与えられなかった小地主に選挙権を与えるものにすぎない、と達吉は批判する。現在、選挙権を求めているのは、都市の人民、ことに知識階級と工業労働者階級であって、これを無視するのは望ましい選挙法改正とはいえない。
 選挙権を中流以上の資産ある階級に限ろうとする考えはもはや時代遅れになりつつある、と達吉はいう。

〈普通選挙がほとんど普遍的の制度となるに至ったのは、なぜであるかといえば、それは一つに社会事情の変遷に基づくのであって、ことに政治知識の普及に伴う国民の自覚と大工業の勃興に伴う労働者の向上とによって、もはや政権を資産階級に独占することを不可能ならしめたのである。ひとたび旧時代の専制政治が破れて立憲政治となり、人民が専制時代の圧迫から解放せらるるに至った上は、早晩遂に普通選挙にまで進むべきことは、避くべからざる趨勢である。〉

 こうして達吉は納税資格を条件とする制限選挙ではなく、普通選挙をめざすべきだと主張する。とはいえ、いきなり普通選挙を導入するのは早計のきらいがある。そこで、当面は現在の人口6000万のうち1000万人前後に選挙権を与えるものとし、その基準としては、満25歳以上の男子で、尋常小学校程度の教育を受け、独立の生計を営み、かつ6カ月以上その選挙区に居住する居住する者に選挙権を与えるようにすべきだと提言する。
 せめてこの程度に選挙権を拡張すべき理由は、金権政治を矯正し、労働者階級の意見を政策に反映させることによって、国体の基礎を強固に保つためであり、また世界の大勢に応じるためでもある、と達吉はいう。
 選挙区制度の問題もあった。達吉は現行の大選挙区単記投票が、同一政党の同士討ちを招くばかりか、選挙費用を過大にし、民意を反映しないと批判し、それに代わるべき方法として、小選挙区制もしくは大選挙区比例代表制を提案する。
 小選挙区制はどちらかといえば大政党に有利で、政友会は長年、この制度を主張し、ほかの政党はこれに反対してきた。これにたいし、もし今回の改正で、両院の意見がまとまらないのであれば、大選挙区比例代表制を検討する余地があるのではないか、と達吉は述べている。比例代表制に名簿方式を加えるなら、選挙人に党を選ばせることで、死票を減らすこともできる。比例代表制のメリットは、選挙競争の激しさを緩和し、選挙の費用を少なくできることである。
 こうして達吉は、今回の選挙法改正について、条件付きの普通選挙、小選挙区制もしくは大選挙区比例代表制を提案した。
 第41議会で実際に可決されたのは、政友会が提出した選挙法改正案である。国税3円以上を選挙権の納税条件とし、大選挙区制に代わって小選挙区制を採用することが決まった。
 個々の議員にとって最大の関心は、選挙区の区割りにほかならなかったが、原は内務省案をもとに、ごく限られた担当者のみで区割りを調整し、個々の議員の容喙を許さなかったという。これにより、全国で295の1人区、68の2人区、11の3人区が生まれ、衆議院の議席数は381から464に増えることになった。政友会が安定多数を確保することが見込まれていた。

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