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原首相暗殺事件──美濃部達吉遠望(43) [美濃部達吉遠望]

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 1920年(大正9年)2月26日、原敬は衆議院を抜き打ち解散した。
 公債発行による積極財政をとったため物価が上がっている。日本経済は好景気にあるとはいえ、賃金上昇を求めてストライキが多発していた。
 欧州大戦が終わったのだから軍備縮小の動きがでてもいいはずなのだが、実際は逆で、日本の軍備刷新と国民動員強化を求める声が強くなっていた。
 国防費の増強をはからなければならない。鉄道の建設や電信電話の整備、道路改良にも多くの予算が必要になってくる。労働政策や社会政策は後回しになる。
 そんななか、野党の憲政会(党首は加藤高明)と立憲国民党(党首は犬養毅)、新政会は、こぞって男子普通選挙法案を提出した。上野公園や芝公園では普通選挙を求める大集会が開かれ、衆議院での審議がはじまる2月14日には日比谷の帝国議会を群衆が取り囲んだ。
 議会では普通選挙をめぐり、反対、賛成の立場から議論がかわされたが、原は普通選挙の是非を国民に問うとして、衆議院の解散に踏み切った。
 美濃部達吉は4月発行の雑誌『太陽』に「衆議院の解散」と題する一文を掲載し、原敬の姿勢を批判している。

〈今回の解散ほど、何人(なんぴと)も解散を予期していなかった時にあたって、突如としてその大命が下され、しかもそれが何の理由のために下されたのであるか、ほとんどまったく合理的の根拠を求むることのできない場合は、世界の議会歴史においても、まれに見る例であろうと思う。〉

 今回の解散理由がまったく理解できないというのだ。憲法に違反していなくても、それは権力の濫用であり、不当な行為、非立憲的な行為だ、と達吉は断言する。
 原首相は普通選挙について民意の判断を問うことが解散の理由だという。しかし、それはとうてい納得しがたい。選挙法はすでに昨年改正され、納税要件を下げて選挙人を拡大し、小選挙区制を実施することが決まっている。これにたいし、野党はさらに普通選挙の実施を求め、法案を提出したのだが、これに反対する政府は解散して、民意を問うという。それはまったく解散の理由になっていない。

〈何ら民意の代表について疑いを抱くべき根拠のなきにもかかわらず、これを断行し、これがために予算を不成立に終わらしめ、幾多の重要なる法律案を葬るのやむを得ざるに至らしめたことは、その責任軽からずというべきである。〉

 そんなふうに達吉は原首相による突然の解散を批判した。
 いずれ日本も普通選挙を実施せねばならぬことはわかっている。しかし、時期尚早というのが原の考えだった。何よりも、昨年成立した選挙法改正による小選挙区制の選挙が一度もおこなわれていない。しかも、政友会は議会での過半数を確保していない。盛り上がる普通選挙運動を沈静化させることも目的だった。普通選挙は口実にすぎない。原は総選挙の機会をうかがっていた。
 帝国憲法では議会で予算が成立しない場合、政府は前年度の予算を施行すると定められている。解散前に原は加藤海軍大臣と田中陸軍大臣に了解をとった。予算成立を流しても、原が解散を断行したのは大きな賭けにちがいなかったが、勝算はあった。
 枢密院との打ち合わせが不備だったため、けっきょく選挙は5月10日にずれこむが、原の思惑どおり政友会は圧勝し、464議席のうち278議席を得て、絶対安定多数を確保した。
 巨大与党が生まれた。しかし、議会運営が楽になったわけではない。野党の憲政会、国民党が食いついてくる。
 世間では過熱した投機熱が異常な好景気を生んだあと、その反動で株価が暴落し、戦後の恐慌がはじまっていた。3月にはシベリアのニコラエフスクで日本人730人がロシアのパルチザンによって虐殺される事件も起きていた(尼港事件)。
 選挙後に開かれた議会で、大蔵省出身で憲政会の浜口雄幸(おさち)は、政府の財政金融政策を批判した。同じく憲政会の永井柳太郎は「西にレーニン、東に原敬」と演説をぶち、レーニン政権が労働者階級による専制であるとすれば、原政権は資本家階級による専制にほかならぬと揶揄した。
 大蔵大臣の高橋是清をはじめとする3閣僚に、株式売買をめぐる汚職の疑いありとの告発もだされる。政府は即座にその疑惑を打ち消した。
 1921年(大正10年)1月、美濃部達吉は『東方時論』に「一九二一年の問題」(のち「我が憲政の将来」と改題)と題する論説を掲載した。
 この年から東京帝国大学の入学時期は、政府の会計年度にあわせて9月から4月に変更される。その前年9月から達吉は東京帝国大学法学部(法科大学を改称)に新設された憲法第2講座を兼任するようになっていた。
 達吉はいう。議会はいま国民の失望を買っている。立法機関といいながら、法律の知識がある議員は少なく、その実態は政府の立案起草する法案に同意か不同意かを機械的に表明するにすぎない。もっとも重要な予算審議についても、予算の内容を理解している議員は少なく、財政の監督をはたしているとはいいがたい。「議員は予算の正否を監督するよりも、むしろ自分の選挙区の地方的利益のために、少しでも多く国費を支出することに熱心である」
 政党の弊害も甚だしい。議員の議決は自由意思ではなく、党議によって縛られている。その党議も必ずしも公平とはいえず、党派的な思惑にもとづくことが多い。党利が優先され、国益が損なわれる事態もしばしばみられる。
 議会が真に国民の意見を代表することは、事実上不可能である。議会はどちらかといえば資本家階級の代表に偏しやすく、中産階級や無産階級がこれに不満を抱くのは当然のことだ、と達吉はいう。

〈議会制度はかくの如き弱点を有するものであるから、世人の多くが議会に対して絶望の念を抱き、議会を廃止してこれに代うるに他の適当の手段をもってしようとするに至ったのは、あえて怪しむに足らぬ。しかしながら議会制度を廃止して、ほかにこれに代わるべきいかなる手段があるかと言えば、不幸にして適当なる何らの制度をも見いだすことができぬ。〉

 議会制度には多くの欠点があるが、残念ながらこれに代わるものはない、と達吉は断言している。官僚政治はまったく問題外だ。
 大政治家が起こって、国家の重責を担い、国民を満足させるような独裁政治をおこなうのなら、それは理想に近いかもしれないが、そんな政治家の出現は望みがたいし、制度として維持できるものでもない。
 国民が政治的に自覚した近代においては、いかなる哲人であっても、いかなる聖雄であっても、国民はこれにたいし永く服従に甘んずるものではない。いっぽう、直接民衆政治、たとえば国民投票による政治、労働者による直接支配も国家や社会の混乱を招くだけだろう、と達吉はいう。
 議会制度はけっして理想的なものではない。しかし、多くの欠点があるにせよ、これに代わるべき制度が見当たらないとすれば、当面、これを維持するほかない、と達吉は断言する。
 実は議会の最大の役割は、政党の勢力にもとづいて内閣を組織すること、そのいっぽうで内閣を監視すること、質問その他によって、内閣の施政を批評し輿論の喚起をはかること、場合によっては内閣に不信任を突きつけることにある。何よりもおおやけの場で議論がおこなわれ、いま政治の場で何が起こっているかを知らしめ、国民の自治的精神に寄与することこそが、議会の価値なのだ、と達吉はいう。
 それでも現在の議会制度には大きな欠点があり、多くの改善の余地がある、と達吉は指摘する。問題はいまの議会が資産家階級の利益を代表し、無産者階級の利益を反映していないことだ。それを改善するには、普通選挙制を採用するほかない。選挙の費用を考えれば、比例代表制を採用すべきである。
 政府が警察権によって選挙に干渉することを防ぐこと、府県知事を公選とし地方自治を促進すること、議員の発言表決の自由を認めること、政党資金の規制を図ること、議会の調査権を確立すること、貴族院や枢密院のあり方を検討することもだいじだと述べている。
 第44議会は1920年(大正9年)12月27日に開会し、翌年3月26日に閉会した。前年度から16%増の積極予算が可決され、臨時軍事予算追加も認められ、郡制廃止法案、国有財産法案、米穀法案、航空法案が議会を通過した。
 しかし、議会運営がスムーズに進んだわけではない。議会は大荒れに荒れた。野党からはまたも普通選挙法案が出されたが、ただちに否決された。それでも野党はひるまない。13の政府反対建議案が出され、かずかずの暴露合戦がくり広げられた。満鉄からの選挙資金提供や関東庁のアヘン取引疑惑、東京市のガス料金値上げをめぐる贈収賄なども取りあげられた。
 達吉は裁判制度に陪審制を取り入れる法案が提出されることを期待していたが、この法案は枢密院で止まり、議会で審議されなかった。
 そのころ、世上では、皇太子妃候補に色覚異常の遺伝があるのではないかという疑惑が取り沙汰されていた。あげくのはてに原首相の女性問題もうわさされるほどだった。
 数のうえでは原政権は安定しているはずだった。だが、世界大戦後の政情は波乱に満ちていた。大正天皇の病状も思わしくなく、摂政を立てねば国政に支障をきたすほどになっていた。
 摂政になるのは裕仁皇太子(のちの昭和天皇)以外に考えられないが、原には摂政就任前に皇太子に広く世界を見ておいてもらいたいとの思いがあった。その願いがかなって、1921年(大正10年)3月から半年間、皇太子は訪欧の旅に出ることになった。日程の都合上、アメリカには立ち寄れない。
 11月からはワシントン会議がはじまる。アメリカが国際連盟に加入しなかったため、極東における国際秩序の枠組みを定めるためにも、日本とアメリカの協議は欠くことができなかった。
 原は首席全権に加藤友三郎(海軍大臣)、幣原(しではら)喜重郎(駐米大使)、徳川家達(貴族院議長)を任命し、10月に外交代表団をアメリカに送りこんだ。原自身が行くべきだという声もあったが、課題が山積しているため原は国内にとどまった。
 その矢先、11月4日に事件はおこった。
 午後7時すぎ、夜行列車で政友会近畿大会に向かおうとしていた原は、東京駅の乗車口手前で、群衆のなかから飛び出してきた18歳の青年に刺され、死亡した。享年65歳。
 犯人の青年の名は中岡艮一(こんいち、1903〜80)。山手線大塚駅で転轍手(てんてつしゅ)をしていた。新聞や雑誌を読んだり、駅の上役の話を聞いたりして、原の財閥寄りの政策、尼港事件への対応、さまざまな汚職事件に憤りを感じていたという。
 9月28日に発生した朝日平吾による安田善次郎(安田財閥の総帥)暗殺事件に刺激され、原首相の暗殺をくわだてたと伝えられる。
 議会政治否定のロマン的衝動が、思わぬところから噴きだしはじめていた。

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