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吉本隆明『ハイ・イメージ論』 断片(1) [商品世界論ノート]

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 吉本隆明はむずかしい。とても歯がたたない。それをわかっていながら、本が出ると、つい買ってしまうのが習癖になっていた。この本も本棚に眠ったまま、ほぼ30年たつ。
 もう最後のチャンスだ。これを逃すと、読む機会は永久にめぐってこないだろう。そんなふうに意気込んでページをめくりはじめるが、たちまち頭に霞がかかってくる。少し読んだだけで挫折しそうだ。
 メモをとってみることにする。何でもすぐに忘れてしまうからだ。
『ハイ・イメージ論』は、1985年から1990年にかけて雑誌『海燕』に連載された評論をもとに、徐々に単行本化された。全部で3巻で、あわせると900ページ以上ある。
 評論といっても話題は文学にとどまらない。映像、都市、哲学、言語、経済、自然、歴史、身体、思想その他におよぶ。変わりつつある時代を最先端でとらえる。
 章は全部で26。映像都市論とか走行論、拡張論、分散論、モジュラス論といった見出しがついている。
 表層的な言い方をすれば、この評論が書かれた時期は、歴史の転換点だった。日本はバブル絶頂期にあり、ソ連は解体期にある。アメリカは停滞し、中国が台頭しようとしていた。パソコンはまだオフィスに浸透せず、IT化も進んでいない。そんな時期に、ニュースの次元ではなく日常の次元で何がおきているのかを意識化する(表出する)仕事は、困難をきわめたにちがいない。
 混沌は混沌のまま投げ出された。『ハイ・イメージ論』は体系とはほど遠い。体系化されようとしているのにもかかわらず、イメージはあちこちに飛んでいる。そう思うのは、理解していない証拠かもしれないが、少なくとも、ぼくはそんな印象を受ける。
 ぼくは何の専門家でもない。時事的な本にかかわる仕事をしたとはいえ、ごくふつうのサラリーマンとして、すごしてきた。
 だから、この本についても、えらそうなことはいえない。ただ、一本の補助線を引いてみる。もし商品世界論というジャンルが成り立つとすれば、この本がえがいている世界はどんなふうにとらえられるか。
 例によって、つまみ読みに走る。わかりそうなところだけを読むという怠惰な精神が先に立つ。文学、言語、詩、思想、幾何といった苦手な分野はパスさせてもらう。
 読もうとするのは、自然、都市、映像、経済といったあたりか。いずれにせよ、雑な読み方になりそうだ。
 1990年代半ば、吉本の「転向」ということがさかんにいわれた。左翼的思考からの訣別が鮮明になった。しかし、それはみずからが「転向」したというより、吉本が依拠する「大衆」の情況が変化したのである。
 ポストモダンという標語を安易に使うべきではないかもしれないが、たしかに第1次石油ショックのおきた1973年ごろから、日本では何かが変わりはじめていた。ぼくは狭義の「戦後」が終わったと感じていた。それをポストモダンのはじまりととらえる人もいたはずだ。
 左翼はもはやポストモダンの情況に対応しきれなくなっていた。

〈多分、そこが旧来の左翼と僕らの分かれ道になったのです。それは旧来の左翼の「都市資本主義を肯定し始めた」という僕への批判にあらわれました。エコロティシズム[エコロジー主義]、ナチュラリズム、科学技術の単純否定、反都市、反文明、反原発というように、旧来の左翼はこの時期から退化、保守化に入っていきます。つまり僕などの考え方との開きは拡大していったのです。〉(「わが『転向』」)

 世界が変わってしまったのに、左翼は相変わらず昔ながらの世界観で現状をとらえているという吉本の左翼批判を、あのころぼくは複雑な思いで受け止めていた。吉本の指摘はもっともだが、ぼく自身は相変わらずの心情左翼だった。ポストモダン情況の展開を素直に肯定する気にはなれなかった。
 2020年代の現在、老化とあいまって、吉本にいわせれば、ぼくの「退化」「保守化」の度合いはいちじるしい。いまは世も末だ、ポストモダンどころか、近代の終わりだ、アフターモダンだと嘆いているのが、憐れなぼくの末路である。
『ハイ・イメージ論』はさっぱりわからない。せめて、わかりそうなところだけでも理解したいと、いくつかの章を断片的に読んでみることにした。
 最初に取りあげるのは「エコノミー論」だ。
 こんな記述からはじまっている。

〈わたしたちが思いおこすあのふるい自由の規定は、現実が心身の行動を制約したり疎外したりする閾値のたかい環境のイメージといっしょに成りたっていた。……わたしたちが現に実感している自由の規定は、現実は心身の行動をうすめ埋没させてしまうという環境のイメージといっしょに成りたっているものだ。ふるい自由のように制約や疎外を実感できないので、まったく恣意的に振舞っていいはずなのに、と惑っているのだ。ほんとはちいさく部分的な疎外でしかないものを、誇大に拡張して、いやまだ深刻で人類の運命にかかわる制約や疎外はあるとみなして、虫めがねをたずさえて探しあるき、世界苦のたねを発見しなくてはならなくなっている。発見できなかったら、でっち上げなければならないのだ。だがふるい自由のこの振舞い方は、現在から遠ざかっていくほかない。〉

 その冒頭を引用してみたが、この熱い情念に導かれたような文体から浮かび上がってくる構図は、意外と単純なものだと思える。
 ふるい自由というときに、吉本はたとえば奴隷を思いうかべている。心身の自由を奪われた奴隷だ。そうした奴隷は、みずからを制約する身分からの解放を切実に願うだろう。制約や疎外からの解放こそが自由だ。
 これにたいし、現代のサラリーマンやOLは奴隷といえるか。会社から与えられた業務をわりあい好きなようにこなしているようにみえる。それもまた制約や疎外かもしれないが、それがいやなら別の方向を求めればよい。
 それなのに左翼は相変わらず奴隷のイメージにこだわる。何とか、抑圧、従属、虐待の事態をみつけて、それを告発することに執着する。そうしたことは、いまでもあるかもしれない。だが、そればかり取りあげるのはもう時代遅れなのだ、と吉本は言い切っている。
 こういう言い方をすれば、とうぜん吉本は右翼反動に成り下がったのかと、反発する向きもでてくるだろう。だが、おそらくそうではない。吉本はいまも「あたらしい自由」は現代の課題でありつづけていると考えているからだ。
 バーチャルとリアルが区別をなくし、ほとんど同じになってしまった時代。人びとは一日の多くを、テレビをみたり、本を読んだり、パソコンをいじったりしながらすごすようになっている。

〈制約と疎外をのみこんで、ひとりでに増殖する生物のように、ありあまる恣意性(自由)を先き占めしてしまった現実に、あたらしい自由の規定が戸惑っているとすれば、いちばん要めにあるのは、映像と、その対象になった現実とが、区別をなくし、同じになってしまったからだとおもえる。わたしたちはほんとをいえば制約や疎外をのみこまれてしまっているかどうかさえ把めていない。にもかかわらず、制約や疎外の画像がたしかにのみこまれ、うしなわれているのは、映像と現実との区別が無意味になってしまっているからだ。〉

 映像のような現実と、現実のような映像がごっちゃになっている現在、人はどう生きていけばよいのか。そうした現在においては、人のおかれた制約や疎外すらも幻想のなかにのみこまれてしまっているようにみえる。
 正直いうと、吉本のことばはむずかしくて、ぼくなどにはほとんど理解しがたい。左翼の人間解放論などはもう信用できないぜというメッセージが、こだまするだけである。
 経済にしても、昔ながらの「マルクス主義」経済学はすでに通用しなくなっている、と吉本は考えている。
 エコノミー論、はじまったばかりだ。これだけでも読み切れるかどうか、心もとない。

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