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吉本隆明『ハイ・イメージ論』断片(2) [商品世界論ノート]

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 エコノミー論。
 たとえば、生産と消費を規定しようとする。しかし、規定すると同時に否定性があふれでてくる、と吉本はいう。
 生産とは、労働力、生産手段(装置・道具)、原料(資源)の「消費」にほかならない。いっぽう、食事をするなどの消費が、身体や人間関係の「生産」につながっていることはいうまでもない。
「生産を規定することは、裏面についた生産の否定としての消費を規定することとおなじだ」。消費についても、同じことがいえる。「生産と消費はつきまとってどこまでいっても分離できないことになるとおもえる」
 それでも生産と消費は分離される。その分離基準となるのは、商品かどうかという区別だといってよい。生産とは商品を生産することであり、消費とは商品を消費することである。「この分離はどうして起り、どんな意味があるのだろうか」
 生産と消費が分離されると、「交換とか分配とか流通とかがエコノミー世界の中間に介在することになる」。
 こうした隔離が「自然な過程」となった理由は、生産が高度かつ大量になったために生産の場所を特別につくらねばならなくなったためだが、それによって、他方、消費する人間を集める場所もつくらねばならなくなった。

〈この場所的な隔離は、生産と消費のあいだの否定性を、どんなふうに何にむかって変化させるだろうか? すぐにいえることは、凝集は分散に転化し、反復は方向性に変化するということだ。〉

 凝集によって生まれた大量の商品は分散されなければならない。それは一回切りではなく反復される。そして、反復は方向性をつくる。方向性とはすなわち成長性にほかならない。
 消費の側からみれば、分散とは分配や交換であり、その反復は同じく消費における成長性を内在している。とりわけ成長の方向性に関係するのはは、「消費の場面の内面にある生産についての願望や要求や欲望の刺激のイメージ」だ。
 こうして市場をはさんで、生産と消費が構造的に対応することになる。ただし、それは機械的な分配という対応関係だけではおさまらない。生産と消費それ自体がもつ本来の否定性をはじめとして、そこには対立関係(等量と等価の否定態)が潜んでいて、それがエコノミーを活性化させることになる。言い換えれば、「生産と消費、あるいは総供給と総需要は、過剰と過少のあいだで波立っている」。
 もちろん、「エコノミーの活性化や膨張がなくてより低い水準であっても、平等と充足がえられて、静謐な生が保てる保証がえられるならば、理想の社会像にあたっているとかんがえる」こともできる。
 しかし、そうした社会像のこころみは、「現在までとられた方法[つまり社会主義計画経済]では、ほとんど完全に失敗し、現在もとの黙阿弥に当面していて、あらためてそれをつくづくと眺めまわしている状態にあるといっていい」。

 ここで吉本が取りあげるのが、シュンペーターの静態的ではありえない「創造的破壊」をともなう資本主義過程である。
「資本主義のエンジンを起動せしめ、その運動を継続せしめる基本的衝動は、資本主義的企業の創造にかかる新消費財、新生産方法ないし新輸送方法、新市場、新産業組織形態からもたらされるものである」とシュンペーターはいう。
 吉本は、シュンペーターのこうした資本主義像を評価するところから、みずからのエコノミー論をくり広げようとしている。
 いわく。

〈この画像がなぜ見事かは誰の眼にもはっきりしている。わたしたちが確かにそうだと実感できる社会像が、生産と消費、総供給と総需要の跛行してはまた傷をいやし、傷を回復しては跛行する反復のイメージとして、とても根本的な、枝葉には足をとられない画像で記述されているからだ。〉

 生産と消費は対立しながらも同じだという二重性をもっている。商品という項を排除すれば、この二重性はあらわれることなく、過剰なら過剰なりに、過少なら過少なりに、生産と消費は一致するだろう。しかし、生産と消費が二重性をもつということは、そこに商品世界と市場とが展開していることを意味している。
 吉本は市場を、物と物とが交換され、生産と消費の対立が解消される場としてとらえない。「生産と消費との場面の距たりそのものが市場だという規定を、あくまでも固執しなければならない」という。
 ワルラスならば、「市場とは商品が交換される場所のことをいう」とシンプルに示すことで、それでよしとするだろう。たとえば労働力市場においては、労働力の買い手である資本家と労働力の所有者である労働者が出会って、賃金契約によって労働力を買うことが決まる。
 だが、そうスッキリとはいかない。労働力の売りは、労働力の生産によって支えられている。その労働力の生産を支えるのは、飲んだり食べたり遊んだりする別の消費市場である。いっぽう労働者の買い手である経営者も、同じく自らを生産するための消費市場を有している。
 労働市場における労働力の売買は、そこで完結するわけではない。それはさらに別の市場での作用を引き起こす。
 労働者と経営者のあいだに大きな差があるわけではない、と吉本は書いている。経営者になればなるほど給付される貨幣の量が逓増する傾向があるだけのことだという。そのあたり、資本家と労働者が労働市場において労働力を売買するという古典的な階級図式を、すでに非現実的なものと吉本がとらえていることがわかる。
 にもかかわらず、吉本はワルラスのように労働価値説を否定しない。ワルラスは「交換価値という現象は市場において生ずるもの」とし、その根拠を労働でもなく、効用でもなく、稀少性においた。労働力を含め、財が交換価値を有するのは、それが稀少だからだというわけだ(空気は効用があっても、交換価値をもたない)。
 しかし、吉本に言わせれば、これはマルクスの労働価値説をまるでわかっていないということになる。

〈労働価値説の源泉は、とくにマルクスの『資本論』のような完成された論理の配慮があるところでは、労働者の(人間の)身体が、労働力の表出者(生産者)として、無際限の反復に耐えるような底無しの価値体であるだけではなく、機能的な定常量の表出者ではなく主体的な状態によっては、どこまでも定常量を超えても気づかない存在だというところに根拠をおいている。〉

 交換価値をつくりだすのは、あくまでも人間の労働である(たとえ機械に媒介されていたとしても)。しかも、場合によっては、喜んで給料以上に働いてしまうのが人間なのだ。ここには吉本の大衆像をみてとれるといってもよいだろう。それは搾取され抑圧される大衆とはまた異なる一面をもつ大衆像である。
 そして、そこからは階級対立の激化というより、1950年代にシュンペーターが描いたような世界像に近づくことになる。
 シュンペーターはいう。富者と貧者とのあいだで分配率は変わらなくても、経済のパイが大きくなれば、現在での水準における貧乏はなくなる。経済の技術水準の上昇に伴い、労働者はかつての王侯も得られなかったレベルの豊かさを手にすることができる。社会保障もかつてないほど充実したものとなるだろう。
 吉本もまたシュンペーターのビジョンを共有しながら、古典的な階級社会イメージからの脱却をはかろうとしているようにみえる。
 それは、はたしてどういうものなのだろうか。

 ここでまず吉本は、労働者でもなく、経営者(資本家)でもない、貨幣資本の所有者である資本家を経済人の一つの像として描いている。かれらははたして経済人の理想像といえるのだろうか。おそらく、そうではない、と吉本はいう。かれらは「大なり小なり意図と実現の断層」をかかえていて、いつも「どこかで浮かない貌を見せている存在」として登場する。
 貨幣を所有する資本家は経営者たる資本家に対し、貨幣を貸し出すことによって、確実に利子を得ることができる。吉本に言わせれば「誰だってそんな手品みたいな境遇は経済的に理想像として願望するにちがいないとおもえる」。ところが、そう甘くはないのはなぜか。
 吉本はこう書いている。

〈利子は質としてみれば生産(商業)過程の外部にあってただ貨幣を所有しているだけでもたらされる剰余価値である。また量的には貨幣資本に対応して利潤のうちから利子になる部分は、利潤の大きさによって、ひとつの利子率によってきまったものになる。ここまできまってくれば〈借りだし〉た資本を運営する資本家と自己資本を運営する資本家とのちがいは、企業者所得だけをうる資本家と企業者所得と自己資金にたいする利子をじぶんで増殖分として元金といっしょにうけとる資本家との違いに還元されてしまう。〉

 なんだかややこしい言い方をしているが、しょせん利子生活者となった資本家は、産業(商業)資本家に付着するみじめな存在になってしまうというわけだ。浮かない顔にもなろうというものである。
 次に吉本は、経済人としては貨幣資本家に次ぐ理想といえる経営者についても触れる。「産業(商業)資本家は労働力の買い手としては労働者に貌をむけ、利子の支払い手としては貨幣資本の所有者に貌をむけている」。そのふたつの深淵に飲み込まれることなく、そのふたつをいかに手玉に取るかが、経営者の課題となるだろう。それはそれなりに苦労をともなうものだ。
 しかし、何といっても経済にとって理想的な情況は、貨幣が世の中にあふれて、いつの間にかそれが増大していることだ、と吉本はみている。そして、経済人だけではなく、一般大衆がこうした状態をつかんだときこそが「究極の理想状態」だという。
 これは本書が執筆されたまさにバブルさなかならではの発言と言えるかもしれない。そこでは具体である商品世界がまるで貨幣の抽象であるかのようにみえてくる。

〈近似的にだけいうとすれば、たくさんの産業は、そのレプリカのなかに抽象の面影を宿し、たくさんの産業のたくさんの生産物(商品)は、その機能的な形態のなかに抽象の似姿をもっているかのようにおもわれてきた。貨幣がたくさんの産業やそれらの産業の抽象なのではなく、たくさんの産業やその生産物(商品)が、貨幣の抽象であるようにおもわれてきたのだ。わたしたちは不思議な抽象の二重性を、貨幣とたくさんの産業や産業の生産物のあいだで体験している。〉

 商品の何もかもが、財やサービスの何もかもが、それ自体ではなく、値札をつけた抽象のなかでとらえられるようになるというのが、当代バブル時代のエコノミーの特徴である。

 吉本は万人、すなわち一般大衆が貨幣を資本として運営し、いながらにして利子を得るようになる状況を経済の理想形として描こうとしている。そのとき流通場面では純粋信用だけが行き来し、貨幣はすっかり姿を消している。
 日本の産業構造の人口割合は、この本が執筆された1987年時点で、第1次産業が9.3%、第2次産業が33.1%、第3次産業が57.3%となっていた。こうした条件においては一般大衆が貨幣資本の所有者であると同時に経済人として並外れた意欲を持っているというイメージは可能だ、と吉本はいう。
 だが、万人が貨幣の所有者になるというイメージには、どこか「浮かない」感じが伴う。こうした方向性を引き延ばしていけば、はたして大衆的富裕は可能で、しかも永続的に維持できるものとなるのだろうか。
 吉本はいう。

〈いくらか滑稽化していえばこの状態からでの貨幣資本の所有者は、たえず投資を繰返し、たえず経済の場面を移動させ、たえず「順応」を拒否し、たえず産業の高次化にむかってエコノミーの思考を沸騰させていなくてはならないことになる。……それとともにこの状態は、不安定な流動と沸騰の状態がじつは安定性の基盤であるという背理をうみだす。〉

 万人が貨幣資本の所有者に近づいているかどうかを測る指標として、吉本があげるのは、(1)週休が3日を超えること、(2)貯蓄の年間利子額が年間の生活費用を超えること、(3)エンゲル係数がゼロに近づくこと、である。
 これが吉本のイメージする、大衆にとってのエコノミーの最終形態だとみてよい。
 バブル時代の幻影をみているのだろうか。現在の労働者の理想は、プロレタリアートとして資本家と対立することではない。それはみずからが貨幣資本の所有者になることだ、つまり何千万もの貯蓄をもつようになることだ、と吉本は言ってのけた。
 だが、吉本はそういう時代を、いささか滑稽だともとらえていたようにみえる。

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