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欧州出張とワイマール憲法──美濃部達吉遠望(44) [美濃部達吉遠望]

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 宮先一勝氏の『評伝 美濃部達吉』にはこう書かれている。

〈達吉は、大正11年[1922年]3月から12月まで欧州へ出張している。旅先(ドレスデン、デュッセルドルフ、ロンドン、ブダペスト等)から民子夫人宛に絵はがきで、当時の第一次世界大戦直後のヨーロッパの混乱や街の状況を具(つぶさ)に報告している。そして翌年、「欧州諸国戦後の新憲法」や「憲法撮要(初版)」を刊行し、大正13年には東京帝国大学法学部長(九州帝国大学法学部長兼任)に任命された。〉

 宮先一勝、田中由美子編『美濃部達吉博士関係書簡等目録』によると、達吉から民子夫人に宛てた絵はがきは22通残されており、そのうち1通は地名、日付が不明とはいえ、これをたどれば達吉がどこを訪れたかがわかってくる。
 残念ながら、目録にははがきの中身まで収録されていないので、達吉が「第一次世界大戦直後のヨーロッパの混乱や街の状況」をどんなふうに伝えていたかは、詳しいことがわからない。そのうち、いなかに帰った折にでも、現物をみせてもらい、その中身を紹介することができればと考えている。
 それはともかく目録に沿って列記すると、下関(3月24日)、上海(3月28日、29日)、香港(4月2日)、シンガポール(4月10日)、プラハ(6月3日)、ドレスデン(6月29日)、ブランデンブルク(8月10日)、デュッセルドルフ(8月20日、30日)、パリ(9月10日)、ヴェルサイユ(9月11日)、ロンドン(9月26日、10月2日)、ブダペスト(10月20日、30日)、リヨン(11月18日)といった地名が記されている。国でいえば、チェコスロヴァキア、ドイツ、フランス、イギリス、ハンガリー。日本に帰国したのは1923年(大正12年)1月である。
 第一次世界大戦の帰結はヨーロッパに大きな近く変動をもたらした。
 ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマンの3帝国は敗戦国である。ロシア帝国では革命が発生した。その結果、4つの帝国は解体され、皇帝が退位し、ヨーロッパでは、そのなかから多くの独立国が生まれた。
 ポーランド、オーストリア、ハンガリー、チェコスロヴァキア、セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国(のちユーゴスラヴィア)、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、フィンランドである。
 帝国が解体されたあとは、とうぜんのように民主化が進むものと期待された。ところが、そう簡単に、ことは進まない。
 第1次世界大戦の終結から第2次世界大戦の開始までの1918年11月11日から1939年9月1日までの期間は一般に戦間期と呼ばれるが、その時期はけっして平穏ではなく、つねに戦争の影がつきまとっていた。
 この時期について、歴史家のノーマン・デイヴィスはこう書いている。

〈戦間期の政治力学を支配したのは、自由民主主義が独裁主義の餌食になるという光景の繰り返しである。西側列強は自分たちの勝利によって、みずからの姿をモデルとした時代が始まることを期待していた。大戦開始時にヨーロッパ大陸には、19の君主国と3つの共和国があったが、終戦時にはそれが14の君主国と16の共和国になっていた。ところが「民主的改革」は錯覚にすぎなかったことがすぐに明らかになる。民主国家がいろいろなタイプの独裁者に踏みにじられなかった年は1年もないくらい。……ありとあらゆる種類の独裁者が現われた。共産主義者、ファシスト、急進派、反動主義者、左翼権威主義者、右翼軍国主義者……。かれらの唯一の共通点は、西欧民主主義は自分たちのためにはならないという確信だった。〉

 歴史は同時代的に動いていく。日本の大正デモクラシーにも暗雲がただよいはじめる。
 ここで事実関係についていうと、達吉が『欧洲諸国戦後の新憲法』を有斐閣から上梓したのは、帰国後の1923年(大正12年)1月ではなく、訪欧直前の1922年(大正11年)1月だった。つまり、達吉は欧州視察に出向く前に、世界大戦後、敗戦によって生まれた新生国の憲法を訳出していた。具体的には、ドイツ憲法、プロイセン憲法、チェコスロヴァキア憲法、ポーランド憲法、オーストリア憲法である。それらを予備知識として、達吉は欧州歴訪の旅にでたといってよい。
『欧洲諸国戦後の新憲法』には何の解説も施されていない。新憲法の条文が淡々と訳出されていた。しかし、帝国が崩壊し、皇帝がいなくなった国の新憲法については、少なくとも法学者なら強い関心を寄せるところだったにちがいない。
 なかでもドイツ憲法、通称ワイマール憲法には、大きな興味がいだかれてしかるべきだった。皇帝なきあと、はたして国家の運営はうまくやっていけるものなのだろうか。そのころは、まだワイマール体制のなかからヒトラーのような独裁者が浮上してくるなどとは、だれも夢にも思っていなかった。
 1919年8月に制定されたワイマール憲法の前文を、達吉はこう訳している。

〈ドイツ国民はその各民族相共同し、かつ自由と正義とによりて国家を改造し、これを強固にし、国内および国外の平和を保持し、および社会の進歩を促さんことを欲し、ここにこの憲法を制定す。〉

 第1条は「ドイツ国は共和政体とす。国権は国民より発す」という宣言である。
 達吉の訳によれば、ワイマール憲法は全181条の詳細な規定からなる。その大きな内訳は次の通り。

第1篇 ドイツ国の構成および権限
 第1章 ドイツ国および各邦
 第2章 国議会(ライヒスターグ)
 第3章 国大統領および国政府
 第4章 国参議院(ライヒスラート)
 第5章 国の立法
 第6章 国の行政
 第7章 国の司法
第2篇 ドイツ人民の基本権および基本義務
 第1章 個人
 第2章 共同生活
 第3章 宗教および宗教団体
 第4章 教育および学校
 第5章 経済生活
経過規定および附則

 達吉は実質半年足らずのヨーロッパ滞在中、3カ月近くをドイツですごした。敗戦後のドイツが苛酷な状況に置かれていることを痛感したのではないだろうか。
 ヴェルサイユ講和条約は、誇り高いドイツ人の多くに屈辱感を覚えさせていた。ドイツにたいする懲罰と賠償はあまりに露骨だった。
 敗戦によりドイツは東部の農業地域、工業地域を中心に13%の国土を失った。重要な港ダンツィヒ(グダニスク)はポーランドに包摂され、石炭と鉄鉱石を埋蔵するザールラントは実質上フランスの管理下に置かれた。非軍事化が進められ、徴兵制は廃止され、陸軍と海軍は極端にまで削減され、空軍は禁止された。これに加え、1320億金マルクという気の遠くなるような賠償金が課されることになった。
 ワイマール憲法下で発足したドイツの民主主義体制は当初から大きな危機にさらされていた。
ヒトラーが国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の指導者になったのは1921年のことである。その勢力は南部のバイエルン州を中心として急速に拡大していくが、達吉がドイツを訪れたころ、ナチ党のメンバーはまだ2万人ほどだった。
 左翼は議会制民主主義を支持する多数派(社会民主党)と徹底したソヴィエト型革命を求める少数派(ドイツ共産党)に分裂し、鋭く対立していた。
 1920年3月には、ヒトラーとは別の武闘派右翼の過激派が政府転覆を企てるが、失敗に終わっている(カップ一揆)。
 ザクセン、チューリンゲン両州、ルール地方などでは、労働者の「赤軍」と政府軍が激しく衝突した。
右翼テロが横行した。経済人でヴィルト政権の外務大臣を務めていたユダヤ人、ヴァルター・ラーテナウは、1922年6月にベルリン郊外で極右テログループによって暗殺されている。
 それでも、1922年の時点では、社会民主党とカトリック中央党を中心に、ドイツの民主主義体制はかろうじて維持されていた。
 達吉はそんなドイツを見たのである。

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