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ワイマール憲法をめぐって──美濃部達吉遠望(45) [美濃部達吉遠望]

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 日本に帰国して早々の1923年(大正12年)2月1日に、美濃部達吉は東京帝国大学の法理研究会で「独逸[ドイツ]新憲法に就いて」と題する講演をおこなった。その内容が『国家学会雑誌』の3月号と6月号に掲載されている。
 これを読むと、達吉がワイマール憲法のどのあたりに興味をもっていたかを知ることができる。その内容をかいつまんで紹介しておこう。
 達吉の講話は、憲法公布以来のいくつかの改正点の解説を含むものだったが、そこまで細かくみていく必要はないだろう。
 ただ、次のように述べていることが注目される。

〈日本の憲法の如き制定以来既に34年を経て未だ1回の修正を加えられず、またいつ修正せられる機運に達するかも予期しがたいのに比べると、発布以来、僅々2、3年ならずして、既に一再ならず改正せられたということは、異様に感ぜられるようでありますが、これはドイツ憲法の内容が日本の憲法などよりははるかに詳細であり、ことに多くの経過法を含んでいること、ドイツが戦敗以後、引きつづき未曾有の国難に遭遇し、予期せられない事変や国際関係などが頻発して憲法の改正を余儀なくしたこと、日本におけるような憲法がひとたび制定せられた上は千載不磨の大典のごとくに考え、憲法を極度に固定的のものたらしめようとする感情が欠乏していることなどに原因しているのであって、あえて新憲法が革命の際、軽率に議決せられたがためとか、または国民の輿論が変わったがためとか言うのではありませぬ。〉

 達吉は憲法が時代に応じて改正しうるものであることを認めていたといえるだろう。
 そのうえで、まず達吉が注目したのは、旧ドイツ帝国と新生ドイツ国のちがいである。
 旧ドイツ帝国は君主的連邦国家だった。帝国は25邦から構成されていた。そのうちハンザ自由市の3邦を除いて、22邦はすべて君主国だったと達吉は指摘する。
 だが、それは対等な諸邦の結合体ではなく、あくまでもプロイセンの領主権のもとに服属していた。すなわち、プロイセン国王がドイツ皇帝を兼ね、プロイセンの総理大臣が帝国の宰相を兼ねることが憲法(いわゆるビスマルク憲法)で定められていた。
 新憲法(ワイマール憲法)では、そうした点が改められた。プロイセンの優位性は排除され、ドイツは君主的連邦から民主的連邦に変わった。革命によって、帝国においても、各邦においても君主制は廃止された。
 だが、民主政体がただちに確定したわけではない。革命党のあいだでは、ふたつの相異なる主張があった。達吉の呼び方では「極端社会党」のカール・リープクネヒトは、労農会を設立し、プロレタリア独裁体制をとるべきだと主張した。これにたいし、多数派の穏健派はできるだけ早く国民議会を開いて、民主政体を樹立すべきだという立場をとった。
 最初、ベルリンでは労兵会が設立され、仮政府がつくられたものの、急進派と穏健派の対立は高まる一方だった。しかし、けっきょく急進派の主張は退けられ、1919年1月19日に国民会議の総選挙が行われることになった。選挙の結果、労兵会は解散され、2月6日からワイマールで国民会議が開かれることになり、8月11日に憲法が議決されるにいたった、と達吉は解説している。

〈これを要するに、[1918年]11月9日にドイツの旧君主政が破壊せられたのち、約3ヶ月の間、一時の過渡期として無産者専制主義に基く労兵会制度の共和政が行われていたのが、2月6日に国民会議が開かれて最高の権力を掌握することとなったことによって、民主政体が確定したものと言ってよいのであります。〉

 1月にカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクらの「スパルタクス団」が鎮圧され、ふたりとも殺害されたことには触れていない。
 達吉はワイマール憲法の民主的特徴を列挙している。

(1)連邦議会議員だけでなく大統領をも国民が選挙で直接に選ぶようにしたこと。
(2)立法に関する国民の発案権が認められていること。
(3)場合によっては国民投票の実施が定められていること。
(4)大統領に対する国民のリコール権が認められていること。
(5)国民の代表会議である連邦議会が最高主権者であることが明確にされたこと。そのいっぽう、各邦の代表によって構成される参議院の権限は大幅に弱められたこと。
(6)議院内閣制を基本とすることが定められたこと。
(7)満20歳以上のドイツ人たる男女に選挙権が認められたこと。
(8)プロイセンの優先権、ならびに各邦の特権が廃止されたこと。

 こうして、新生ドイツ国が世界でも最も民主的な国家へと変貌したことを達吉は強調している。
 しかし、達吉はワイマール憲法のもう一つの特徴が、統一主義、中央集権主義の強化にある点を指摘するのを忘れてはいない。
 旧帝国時代は、帝国だけではなく帝国を構成する各邦も一定の立法権をもっていた。これにたいし、新憲法のもとでは、国の立法権の範囲が拡張された。
 対外関係に対する立法権は国だけが占有することになり、バイエルン王国がもっていたような各邦の外交権は失われた。
 兵役制度や外交権、郵便制度なども、国のもとに一元化されることになった。さらに国の法律が各邦の法律よりも強い効力を有することが定められた。租税権もその一つで、それによって国の財政的独立性が保証されるようになった。福祉の増進や安寧秩序の保護についても、国に権限があることが認められた。
 国における立法権の強化は行政権の範囲拡張にもつながっている。
たとえば、従来、軍政は各邦にそれぞれ陸軍省が設けられていたものが、各邦の陸軍は消滅して、国の陸軍だけが存在し、大統領が全陸軍に対する最高命令権を有するようになった(海軍は以前から国の指揮下にあった)。
 財政の権限は著しく拡張された。従来、国は関税と消費税だけしか徴収できず、直接税はもっぱら各邦に委ねられていた。それが新憲法のもとでは、租税の徴収と管理はすべて国がおこなうことになり、それまでのような各邦の分担納付金は廃止されることになった。
 交通行政についても、各邦のおこなっていた郵便、電信、電話事業は国の専属となった。外交業務が国に一元化されたこともいうまでもない。
 各邦の自治権が縮小され、各邦に対する国の監督権が拡張された。それと同時に各邦は自主的立法権を抑えられ、国の憲法にしたがって、民主的共和政体をとるべきことが定められ、連邦議会ならびに地方議会の選出は、比例制にもとづき男女平等の普通選挙の形態をとることとなった。
 各邦にたいする政府の監督権が強化された事例として、達吉は次のようなケースを挙げている。かつては、帝国政府とプロイセン政府の首脳が同じであったため、プロイセンに対しては帝国政府の監督権が及ばなかった。ところが、新憲法のもとでは、プロイセンに対しても他邦に対するのと同じように、政府の監督権が及ぶようになったというのである。
 連邦政府の行政権が強化されたということは、大統領の権限が強まったことを意味する。大統領は皇帝と同様の権限をもっていた。首相の任免権、国会の解散権、憲法停止の非常大権(緊急事態条項)、国軍の統帥権などである。のちにこれがヒトラーとナチ党の進出につながることを予測する人はほとんどいなかっただろう。その経緯については、あらためて述べなければならない。
 1923年の時点で、むしろ達吉が注目したのは、ワイマール憲法下での選挙法だった。
新憲法のもと、ドイツでは大統領と連邦議会議員が選挙によって選ばれることになった。
 当時の大統領は社会民主党出身のフリードリヒ・エーベルトで、国民の投票で大統領が選ばれるのは次期大統領からだった。
 20歳以上の男女が選挙権をもつ総選挙は、1919年以降、1922年までにすでに2回行われていた。選挙権が男子と女子とにあまねく認められた結果、全人口に対する有権者の割合は6割以上に達し、1919年の投票率は84.2%だったという。
 新生ドイツの選挙は比例選挙法をとっていた。1919年の選挙では、ドイツ全国を36の選挙区に分かち、少ない区では6人、多い区では17人が選出された。比例選挙はいわゆる拘束名簿式をとり、ドント方式で票を割り当てた。その欠点についても達吉は指摘しているが、比例代表制が完全な制度であるかどうかは別として、ドイツの選挙法は十分検討に値するものだと述べている。
 比例代表制の長所は死票が少なく、民意が正確に議会に反映されることである。いっぽうその欠点は小党分立を生じやすく、議会運営がむずかしくなることだった。それでも、達吉は日本でも比例代表制による普通選挙をめざすべきだと主張しており、ワイマール憲法下の選挙法には強い関心をもっていたことがうかがえる。
 しかし、その後10年のあいだにドイツはファシズムの扉を開け、日本は大陸侵攻に舵をきっていくことになるのである。

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