SSブログ

吉本隆明『ハイ・イメージ論』断片(3) [商品世界論ノート]

Image_20220810_0001.jpg
 消費社会論。
 まず、吉本はマルクスの『経済学哲学草稿』から、人間と自然とのかかわりを考えるところからはじめている。

〈マルクスはヘーゲルの[無機物・植物・動物という]段階化の概念のうえに人間(ヒト)をかんがえた。順序でいえば動物的の上位に人間的をおいたといってもいい。そして人間とそれ以外の自然との関わりは部分的ではなく全面的で普遍的な関係をつくるものとかんがえようとした。これは逆にいってもいい。じぶん以外の自然にたいして、全面的な普遍な関係をもちうるものを人間(ヒト)と定義した。〉

 これはどういうことか。
 マルクスは無機物が単に自然によってつくられ、植物や動物が周囲の自然に対応するだけの存在であるのにたいして、人間だけは自然と全面的で普遍的な関係をもちうる存在だと考えたというわけだ。
 人間は自然を対象化し、それを自己の身体に全面的かつ普遍的に取り込もうとした。そのことは人間が頭脳と身体を用いて、外部の自然を人間的自然に変換しようとしたことを意味している。その前提となるのが自然を認識することだった。「言語は感性的自然である」とマルクスはいう。
 さらに吉本は書く。

〈マルクスにとって、すぐにもうひとつの問題があらわれる。人間がまわりの自然とのあいだにこの〈組み込み〉の関係にはいったとき、べつの言葉でいえば自然にたいして行動にうつったとき、この非有機的な肉体である自然と、有機的な自然である自分の肉体との〈組み込み〉の領域から価値化されていくということだ。〉

 自然を人間的自然に転換する、いいかえれば価値化するにあたって、人間は身体を道具化することからはじまり、発明された道具や機械、装置を用いるようになる。
 自然の人間的自然への転換は、よきもの、すなわちグッズへの無限の可能性を秘めているようにみえた。採集や狩猟、漁撈を軸として、住居や着物が整えられ、集落が形成されていく。さらに、マルクス流にいえば、宗教、家族、国家、法、道徳、科学、芸術などが「生産」される。この段階では、すでに生産の専門化と生産物の贈与や貢納、交換がはじまっている。
 生産のための生産はありえない。生産するのは消費するためである。
「人間とそのほかのぜんぶの自然との普遍的な関係は、人間の働きかけの面からは生産といっていいように、働きかけによって有機的な自然となった肉体(筋力)という面からいえば、消費にほかならない」と、吉本は書く。
「生産は同時に消費の行為であり、また逆に消費があるときかならず生産をモチーフとしていて、人間の行為はそれ以外のあらわれ方はしない」とも書いている。
 原理的にいえば、生産と消費は一致する。しかし、それが分離しているようにみえるのは、人間的自然の領域が拡大するにつれ、商品がかぎりなく増え、その交換をうながすために貨幣が導入されることによってである。貨幣による媒介が日常化、ルール化されることで、生産は商品の生産となり、消費は商品の消費へと二極化されることになる。
 商品は次々と新たな商品を分化していく。商品を得るには商品によるほかないからだ。商品による商品の淘汰もおこなわれる。そして商品化の波は、みずからの労働力にもおよぶだろう。人は働かないかぎり、賃金を得ることができない。労働力が商品になる。
 こうして貨幣を媒介として、商品を中心とする人間的自然の拡充が進み、商品世界が形成されていく。その過程は、外的自然による限界が露呈しないかぎり、拡大方向をたどり不可逆的だ。吉本もそうみているように思える。
 しかし、商品世界の拡大につれて、「生産の局面とそれに対応する消費の局面とが時間的にか空間的に」隔たる」ようになる。そのことは、「生産と消費の高度化にとって避けることができない」という。
 ここから「生産にたいする消費または消費にたいする生産の時空的な遅延」が生まれてくる。つまり、需要と供給のギャップが生じる。
 そうしたギャップが生じるとしても、しかし、そのことによって商品世界の拡大が停止するわけではない。商品世界が高度化するにつれて、消費はかならず多様化していく。
「消費支出は高度(産業)化社会になるにつれて、必要的(必需的)支出と選択的支出に分岐してゆき、その分岐の度合はますます開いていく」
 現代の消費は必需的支出と選択的支出に分かれる。
 この分類は必ずしも厳密ではないが、総務庁の家計調査は、必需的支出には外食を除く食料費、家賃・地代、光熱・水道費、保険医療費、通勤・通学費、塾や補習教材などを除く教育費が含まれるとしている。
 いっぽう、非必需的支出が選択的支出である。統計では選択的支出は、選択的サービス支出と選択的商品支出に分類される。選択的サービス支出には、旅行、塾、習い事、外食などが含まれ、選択的商品支出には家電製品、乗用車、衣料品などが含まれる。
 1980年代をとおして、消費支出の総額は増えている。しかし、相対的にみれば、必需的支出の割合は50%を切りつつあり、選択的支出の割合は50%を超えつつある。そのなかでも選択的サービス支出の割合が増えつつあるのが特徴的だ。
 吉本はこう書いている。
「ここでは生産が同時に消費だというばあいの消費は必需的消費だけをさすことになり、選択的消費は生産にたいして大なり小なり時空的な遅延作用をうけることになるといえよう」
 またむずかしいことを書いているが、選択的消費は、それを遅らせても、何とか人がくらしていける消費だということだ。たしかに車やパソコン、食器洗いがなければ、多少不自由かもしれないが、生活に大きな支障があるわけではない。
 だが、「高次の価値領域の成立はすなわち高次の生産業の成立を意味している」。つまり、人類は高次の商品世界の領域に達したということだ。
 産業の高度化は、末端のところで、「消費にひとりでにスイッチされている」という構図を吉本はえがいている。
 産業の高度化は想像以上に進んでいる。高度付加価値化、生産工程の改善、技術開発、多角化、ネットワーク化、情報産業の発達。そうした産業が生みだそうとしている段階が「高次の自然(人工)と高次の人間(情報機械化)」であることを、吉本はかならずしも否定していない。
 もう少し話はつづく。

nice!(10)  コメント(0) 

nice! 10

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント