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吉本隆明『ハイ・イメージ論』断片(4) [商品世界論ノート]

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 吉本は消費社会を「必需的な支出(または必需的な生産)が50%以下になった社会」と定義している。これは必需的な消費支出が50%を切ると同時に、国内総生産に占める第3次産業の比率が50%を超える社会に対応している。この定義からすれば、1980年代後半の日本はすでに消費社会にはいっていた。
 そして、吉本にいわせれば、こうした消費社会の実現は、産業の高度化を反映したものだ。
 その例として、吉本は多くの下請けをかかえる自動車産業を取りあげて、そのイメージを次のように説明する。

〈一台の自動車はそのあらゆる小さな部品毎(ごと)に一企業の高度な専門的な製造工程が対応しているという画像をいだかせることになる。これはたとえば自動車産業を産業としての高次化という概念にぴたりと適合せずにはおかないとおもえる。消費者がこのようにシステム細胞化された産業の集大成として、自動車にたいして、選択的な商品として消費支出したとき、かれは部品企業の幾何級数的な増殖によってもたらされた空間的な遅延と時間的な遅延の細胞のように微細な網状の価値物を購買しているのだといってよい。〉

 消費社会はかならず産業の高次化に対応している。高次化とは、いってみれば迂回生産である。一台の自動車は高度な部品の集積から成り立っているが、その部品は無数の部品企業によってつくられている。それは空間的・時間的な遅延、すなわち製造工程の切り離しや専門化、特異化によってもたらされる。
 動物と人間の消費のちがいはどこにあるか。消費すること自体にちがいはない。問題は動物がほとんど意図的な生産をおこなわないのにたいし、人間が意図的で高度な生産をおこなうことにある、と吉本はいう。

〈[人間と動物との]相違はわたしたちのなかにメタフィジック[形而上学。ここでは創造力というべきか]が存在するということだけだ。このメタフィジックによれば消費は遅延された生産そのものであり、生産と消費とは区別されえないということになる。〉

 ここで、吉本はボードリヤールの『消費社会の神話と構造』を取りあげ、それを強く批判している。「そこには大胆な踏みこみといっしょに、ひどい判断停止があり、哲学と経済学の死に急ぎがつきまとっている」という。
 ボードリヤールは消費社会を神話の世界としてとらえ、ものが氾濫する消費社会を産業社会の崩壊のはじまりとみている、と吉本は批判する。
 ボードリヤールは消費社会で消費されているのは記号だという言い方をする。消費社会は「脅かされ包囲されたエルサレム」だともいう。
 ここには、知的エリートによる大衆への侮蔑が感じられる、と吉本はいう。

〈ボードリヤールは消費社会を誇張した象徴記号の世界で変形することで、資本主義社会の歴史的終焉のようにあつかっている。実質的にいえば産業の高次化をやりきれない不毛と不安の社会のように否定するスターリニズム知識人とすこしもちがった貌をしていないとおもえる。〉

 吉本にいわせれば、消費社会とは選択的なサービス消費が主体となり、日常必需品の消費支出、また選択的な商品を購買するための消費支出は二義的なものとなった社会を指す。それは生産の高次化にともなうもので、資本主義社会の歴史的終焉をあらわすものでもなんでもない。
 ボードリヤールは教育格差の存在を指摘する。しかし、現在では「格差は縮まって相対的な平等に近づいている」と、吉本は反論する。
 またボードリヤールは消費社会で格差が縮まっているのは、うわべだけで、社会的矛盾や不平等は隠されているという。だが、吉本にいわせれば、格差は明らかに縮まっており、こういう言い方をするのは「左翼インテリ特有の根拠のない感傷と大衆侮蔑的な言辞にすぎない」と言い切る。
 ボードリヤールは肉体労働者と上級管理職のあいだの賃金格差は大きく、休暇がとれる期間についても格差があるという。
「ボードリヤールは消費社会を、所得の平等が実現した共産主義社会でなくてはならないとおもっているのだろうか」と吉本は反論する。吉本にいわせれば、むしろ、現代の特徴は、かつてに比べて格段と平等が進んできたことにあるのだ。
 さらに、ボードリヤールは現在の消費社会で、健康や空間や美や休暇や知識や文化が求められているのは、そもそもそれらが奪われたことを示しており、そのうえでそれらが商品として資本主義システムに組みこまれようとしているにすぎないという。だが、何であれ、それが「社会の進歩」であることはちがいない、と吉本は反論する。
「わたしにはボードリヤールの理念は、誰がどうなればいい社会なのか、まったく画像を失っているのに、なお不平のつぶやきが口をついて出るので、それをつぶやいている常同症の病像にみえてくる」
 こういうきっぱりした言い方に、かつてのぼくは拍手を送ったものだ。
 ボードリヤールは、狩猟採集民が絶対的な貧しさのなかでも真の豊かさを知っていたのにたいし、現代人は市場経済のもとで競争を強いられ、つくりだされた欲求を満たすために四苦八苦しているという。だが、こうした言説は信じられない、と吉本はいう。

〈ボードリヤールの見解と反対に、消費行動の選択に豊かさや多様さ、格差の縮まりが生じていること。そこに核心があるように思える。……わたしたちの倫理は社会的、政治的な集団機能としていえば、すべて欠如に由来し、それに対応する歴史をたどってきたが、過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない。ここから消費社会における内在的な不安はやってくるとおもえる。〉

 ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』は1968年のパリ五月革命のさなかに発表され、吉本の『ハイ・イメージ論』は1880年代後半、日本のバブル絶頂期に執筆されている。
 そのことがふたりの論点に影響をおよぼしていることは否定できない。いまからみれば、どっちもどっちである。

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