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憲法撮要──美濃部達吉遠望(46) [美濃部達吉遠望]

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 1923年(大正12年)4月末、美濃部達吉は有斐閣から『憲法撮要』を刊行した。そのいきさつを序文でこう記している。

〈本書は、著者が今年四月から再び東京帝国大学及び東京商科大学において憲法の講座を担任することとなったので、その教科書に充(あ)てるために編述したるものである。著者は一昨年から比較的浩瀚(こうかん)な「日本憲法」の著述に着手しており、第一巻だけは既に公にし、第二巻以下は目下起稿中であって、教科書を書くのはその研究が全部まとまってから後にするのが至当であるが、それはまだ数年の後を待たねばならず、一方には大学での講義の時間がはなはだ乏しいため、教科書の助けをからねば、その講義は極めて簡単なものに終らねばならぬ憾(うら)みがあるので、今年一月欧州から帰朝して後、急にこの書を著すことに決心し、二月中旬から起稿に着手し、昼夜兼行、三月末日をもってようやく全部を書き上げることができたのである。もとより充分の推敲の暇もなく、急速力をもって書き上げたのであるから、往々詳略宜(よろ)しきを得ないところがあるけれども、それは他日版を新たにする機会に譲るのほかはない。〉

 欧州出張から帰国早々、4月から東京帝国大学で憲法学講座が再開され、あわせて東京商科大学(現一橋大学)でも憲法学の講義をすることになったので、にわかに憲法解説の教科書をつくらなければならなくなった。2年ほど前から『日本憲法』という大著に取り組んでいるのだが、ひとまずそれをさておいて教科書執筆に専念した。わずかひと月半ほどで全速力で執筆したから、よく練りあげたものとはいえないが、改版のときに訂正を期したいというのである。
 ちなみに『日本憲法』は第1巻が出版されただけで、完成することはなかった。それにしても『憲法撮要』は600ページ近くあるから、その原稿をひと月半ほどで仕上げたとはにわかに信じがたい。欧州から帰国中の船のなかでも執筆が進んでいたのではないだろうか。
 1912年(明治45年)に出版された『憲法講話』につづき、1923年(大正12年)の『憲法撮要』は美濃部憲法学の代表作となり、1932年(昭和7年)まで5版の改訂を重ねている。そのかん改正箇所はごくわずかだった。
 家永三郎はこの『憲法撮要』と、1927年(昭和2年)の『逐条憲法精義』、1934年(昭和9年)の『日本憲法の基本主義』の3冊を美濃部憲法学の集大成としている。そして、1935年の天皇機関説事件のあと、まさしくこの3冊が発禁処分を受ける。1923年から1935年にかけ、時代は急転換したのである。
 明治末の『憲法講話』と大正末の『憲法撮要』とのあいだに大きな変化があったとすれば、日本における民主主義の進展がからんでいる。
『憲法講話』と『憲法撮要』とのちがいは、その目次からもうかがうことができる。「講話」では国家と政体につづいて、まず天皇が論じられていたが、「撮要」では国家と政体の説明につづいて、憲法の歴史的由来が説明され、日本国民、国民の権利義務の項目が天皇より先に論じられている。帝国議会と立法権、予算についても、多くのページが割かれている。また「講話」では論じられなかった軍の問題が「撮要」では大胆に取りあげられている。
 大日本帝国憲法自体は一度も改正されることはなかったが、達吉のなかでは、その解釈は議会を中心とする民主主義的な方向に深化していたといえるだろう。おそらく1922年(大正11年)の欧州体験が、達吉に国家制度のあり方を再考する機会と刺激をもたらしていたのである。
『憲法撮要』において、達吉は日本の政体を中央集権的な立憲君主制だとしなたがら、しかも君主主義の色彩が強いことが特徴だと論じている。問題は天皇自体の権力ではない。天皇の名の下で政治をおこなう機関の権力が強すぎることが問題だった。
 帝国憲法では権力分立を建前とするものの、政府と議会は完全に分離せず、立法にあたっても法律の裁可権を君主が留保している。議院内閣制はとられず、国務大臣はもっぱら天皇の輔弼(ほひつ)にあたることを任としている。軍の統帥権が天皇のもとに独立していることも特徴的だ、と達吉はいう。
 憲法では自由平等主義が認められているものの、それはけっして保障されているとはいえず、国民は法律の範囲内において自由を享受しうるとされているにすぎない。政治は中央集権的な色彩が強く、地方自治制度は地方的利益に関する行政においてしか認められていない。
 こうした記述は、まるで明治憲法体制の問題性を指摘したかのように思えてくる。大上段に振りかぶったわけではないが、『憲法撮要』で達吉が明治憲法体制の内的刷新を図ろうとしているのを読み取ることは可能だった。
 達吉が最初に述べようとするのは、国家における国民の地位についてである。
 兵役や納税の義務などからみても、国民が国家の統治権に服従すべきことはいうまでもない。だが、国民は服従するだけではない。一定の範囲において、国家の支配に服従しなくてもよい自由権を有している。さらに国民は国家にたいする一定の受益権、すなわち国家から利益を得る権利、また、国家を構成する一員として、国家の統治権に参与する権利をも有しているのだ。民事訴訟権、行政訴訟権や請願権、参政権などがそれにあたる。
「国民は国家に対し義務の主体たると共に、また権利主体たる地位を有す」ることを達吉は強調する。
 いっぽう国家は国民に対し無制限の命令強制権をもっているわけではない。それは制限されなければならない。国家の権利、逆にいえば国民の義務は法律によって定められることを原則とする。
「国民が国家の権力によりても侵害せられざる自由権を有せざるべからずとする思想は近代の立憲制度の最も重要なる根本思想」だと達吉はいう。
 国民は元来、国家によって侵害されることのない自由権を有している。その自由権には「居住移転の自由」、「逮捕、監禁、審問、処罰を受けざる自由」、「裁判官の裁判によるにあらざれば刑罰を受けざる自由」、「住所を侵されざる自由」、「信書の秘密を侵されざる自由」、「財産権を侵されざる自由」、「信教の自由」、「言論、出版、集会、結社の自由」が含まれている。国家は原則として、こうした国民の自由権を保障しなければならない、と達吉は断言する。
 国民の権利義務につづいて論じられるのが天皇についてである。
 帝国憲法ではさまざまな天皇の大権が定められている。なかでも重要なのは、天皇が国の元首として統治権を総覧するという国務上の大権である。この国務上の大権は、国務大臣の輔弼(ほひつ)をへて発揮される。その意味で、天皇は国の最高機関である、と達吉はいう。その大権は立法、行政、司法におよんでいる。
 だが、大権事項に議会が参与することは許されないとするのは、なんら根拠のない謬説だ、と達吉は明言してはばからない。議会の協賛によらず天皇が親裁するというのは、近代的な立憲政治とはいえない。議会は予算を審議し、立法をおこなうだけでなく、行政を監視するなど、広く一般の国務に参与する権能を有しているのだ。
 達吉は国政を運営するにあたって、議会の役割を強化することを求めていた。天皇の大権をかざして、政府が政治を壟断(ろうだん)することは認められない。
 天皇には陸海軍を統帥する大権がある。この大権は憲法によって定められているといっても、慣習と実際の必要にもとづき、国務上の大権とは区別されるものだ。統帥大権が存在するのは、軍の行動の自由と作戦の秘密にたいして、局外者の関与が許されないからだとされている。
 しかし、達吉は統帥大権の範囲は、軍隊の指揮と作戦に限定すべきだと主張した。宣戦や講和はもちろん、戒厳令の布告、陸海軍の編成、軍事予算などはすべて国務に関する事項で、統帥大権とは切り離されるべきだと主張している。この主張は本の最終章で軍隊を論じるときにもくり返されるだろう。
 達吉が天皇の代表機関のひとつとして達吉が摂政とその役割を取り上げるのは、当時、大正天皇が発病し、政務を取ることが不可能になり、皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)が摂政の地位に就いていたからである。
 いうまでもなく帝国憲法では、天皇(場合によってはその代理としての摂政)が国務大臣を輔弼機関とし、枢密院を顧問機関として、国家を統治するかたちをとっていた。皇室の一切の事務を処理するための宮内省と宮内大臣、天皇の常侍輔弼にあたる内大臣も天皇の機関だった。さらに法律外の慣習としては、元老制度があり、内閣が総辞職した場合は、天皇の重臣である元老が後任の総理大臣を推薦する決まりになっていた。
 天皇の名の下に国家を統治する天皇の機関は強大な要塞となっていた。これにたいし、できうるかぎり帝国議会が国政への関与の度合いを高めていく方向を模索したのが、達吉の姿勢だったといえるだろう。
「帝国議会は国民の名において国務に参与し政府を監視する国家機関なり」というのが、達吉による議会の規定である。

〈専制君主政においては国家の一切の統治権が君主に専属するに反して、立憲君主政においては君主の外に国民の代表機関として議会を置き、これをして国政に参与するの権を有せしむ。立憲君主政は君民同治の政体なり、君主独り統治権を専行することなく、国民が共にこれに与(あずか)るの権を有することが、その専制政と分るる所以(ゆえん)なり。〉

 帝国議会は全国民の総代であって、天皇の統治機関ではない。あくまでも天皇の外にある独立機関である。議会の権能は直接憲法によって与えられ、何人(なんぴと)の指揮に服することなく、自由な意見にもとづいて独立した議決をなすものだ、と達吉はいう。
 求められているのは、選挙制度を拡充し、議会の権能を高めていくことである。国務上の大権に属する事項は国務大臣の責任の範囲に属するが、国務大臣の責任に属する事項は議会もまた当然これに参与する権利を持っているというのが達吉の考え方だった。言い換えれば、国家の統治行為にたいし、議会は協賛ないし承諾を示す(逆に示さない)権利を持っているのだった。
 それは緊急命令(勅令)についても言えることだった。緊急命令は議会の閉会時に、枢密院での諮詢(しじゅん)を経て発令することができるとされていた。だが、それは次期の議会で、必ず承認を求めることを要し、承認が得られなかった場合は取り消されねばならなかった。
軍についてはふつう言及を避けるものとされていた。ところが『憲法撮要』の最終章に記されている以下のようなごくあたりまえの文言が、のちに軍事体制が敷かれるにつれて、軍部の憤激を呼ぶことになる。
 達吉はこう書いていた。

〈軍隊は国家の設くるところにして軍の編成を定むることは国家の行為なること言を俟(ま)たず。軍隊の行動を指揮し、その戦闘力を発揮することは、軍令権の作用に属し、内閣の職務の外にありといえども、軍の編成は内閣の職務に属すること他の一般国務に同じ。ただ従来の我が実際の慣習は必ずしもこの原則に従わず、軍の編成に関しても内閣の議を経ざるもの多し。〉

 達吉は軍政と軍令を区別し、軍の暴走に歯止めをかけようとしていた。軍が統帥権の範囲をほしいままに拡大し、天皇の名の下に内閣さらには議会の関与を拒否しようとすることは、けっして認められない。
『憲法撮要』の撮要とは、摘要、すなわち要点だけを書き記したものを意味する。だが、そこには憲法解釈を刷新しようとする気配が濃厚にただよっていた。

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