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関東大震災──美濃部達吉遠望(47) [美濃部達吉遠望]

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 1923年(大正12年)9月1日正午2分前に関東地方南部を激しい地震が襲った。震源は相模湾北西部、マグニチュードは7.9だった。
 ちょうど昼時にあたったため、炊事の火が燃え移ったりして、多くの火災が発生した。東京市は浅草区、本所区、深川区、京橋区、要するに皇居(宮城)の東側がほぼ全焼した。市内の43.5%が焼けたというから被害は深刻である。横浜も市内中心部がほぼ全焼した。
 関東一円の死者・行方不明者は約10万5000人で、被災者は340万人にのぼった。住宅は全壊が約10万9000戸、半壊が約10万2000戸、消失が約21万1000戸という数字が残されている。
 小石川区竹早町(現文京区小石川)にあった美濃部達吉の自宅は無事だったが、東京帝国大学では赤門近くの医学部の教室から火の手があがり、図書館や法学部の教室、講堂が焼け落ちた。なかでも深刻だったのは図書館の全焼である。旧幕時代の図書、海外からの寄贈本を含め、75万冊の書物が灰燼に帰した。
 地震発生の1週間前に加藤友三郎首相が病死したため、後任に推された薩摩閥の山本権兵衛は、地震直後まだ組閣を終えていなかった。臨時首相を務めていたのは外相の内田康哉(こうさい)である。
 市内には流言蜚語(ひご)が飛び交っていた。富士山が大爆発したとか、大津波がくるといったうわさも流れたが、なかでも深刻だったのは「不逞鮮人(ふていせんじん)来襲」という流言だった。日本に不満をもつ朝鮮人がやってきて、井戸に毒を投げ入れたり、放火や強盗をしたりするという、でたらめな情報が広がった。民衆のあいだで自警団が結成され、警察と一体となった朝鮮人の取り締まりがはじまろうとしていた。数知れぬ多くの朝鮮人が虐殺された。政府の記録では、死者の数は600人ほどだが、吉野作造の調査によると虐殺された者の数は2600人あまりにのぼる。
 9月2日、内田臨時首相のもと、枢密院の審議をへることなく、政府の責任で東京市と府下5郡に戒厳令が布かれた。その夕刻、10年ぶりの第2次山本権兵衛内閣が発足する。内相には後藤新平、逓信相に犬養毅が任命された。
 このときの戒厳令について、達吉は詳細な記録を残している。
 最初に達吉が、大震災にあたって戒厳令が大きな効果を果たしたと述べている点に注目すべきだろう。長くなるが、引用しておく。

〈震災に際する応急の手段として、非常徴発令、流言浮説取締令、支払延期令、暴利取締令、輸入税免除低減令、府県議員任期延長令、租税減免猶予令、行政処分による権利利益の存続期間延長令、臨時物資供給令、臨時物資供給特別会計令など幾多の重要な緊急勅令が発せられたが、中にも一般人心の鎮静に最も偉大な効果を収め、歴史上未曾有な大変災に際して、人心恟々(きょうきょう)、所によってはほとんど無警察無秩序の状態にも陥ろうとする虞(おそ)れのあった場合に、何よりも大きな安心を与うることのできたのは、言うまでもなく、戒厳令の施行であった。軍隊のありがたみの一般の民心に痛感せられたのは、おそらくこの時ほど著しかったことはなかろう。〉

 戒厳令にもとづく軍による秩序維持は大きな効果を発揮した。一般の民心にとって、このときほど「軍隊のありがたみ」が感じられたことはないと記している。
 問題がなかったわけではない。

〈ただ戒厳の任にあたった将校軍人の中に思いがけない犯罪事件が起って、これがために突如として戒厳司令官の更迭をまで見るに至ったのは、千秋の遺憾であるが、この変事および国際上に起った多少の恨事を除いては、戒厳令の施行によりよく治安維持、民心鎮静の目的を達し得たことは何人も認めるところで、今回のごときは戒厳令の最も有効に適用せられた実例となすべきであろう。〉

 奥歯にもののはさまったような言い方をしているが、ここでいう「思いがけない犯罪事件」とは、著名なアナキスト大杉栄の殺害事件を指している。これについては、あとで触れることにしょう。またそれにともない「国際上に起った多少の恨事」が発生した。
 達吉は大杉栄殺害事件に具体的には触れていない。朝鮮人虐殺事件には沈黙している。
 戒厳令の緊急勅令は9月2日に摂政名で発布された。達吉によれば、枢密院の諮詢を経ていないが、交通機関も途絶するなかではやむを得ない措置だった。官報の発行もできず、謄写版で印刷されたものが官庁や警察署に配られた。
 震災戒厳令公布直後の責を担ったのは東京衛戍(えいじゅ)司令官で、その適用範囲は東京市をはじめとする府内5郡(荏原[えばら]、豊多摩、北豊島、南足立、南葛飾)だった。
このときの東京衛戍司令官は近衛師団長の森山守成(もりしげ)である。
 同日夕刻、山本内閣が組織される。翌3日には関東戒厳司令部がつくられ、司令官に福田雅太郎大将が任命された。
 戒厳令の施行区域は神奈川県にも拡大された。4日には埼玉県、千葉県にも戒厳令が布かれた。こうして、東京府、神奈川県、埼玉県、千葉県に戒厳令が施行されることになった。
 今回の戒厳令は軍事行動の必要にもとづくものではなく、「もっぱら治安維持の必要のために警察だけでは力が足りないために軍隊の力を借りたのであって、行政的戒厳である」と達吉はいう。行政的戒厳であるために、緊急勅令のかたちがとられた。
 戒厳令のもとでは、戒厳司令官は行政機関にだけではなく、直接人民にたいしても命令する権利をもっていた。
 関東戒厳司令部は9月14日におよそ次のように発表した。
 福田雅太郎関東戒厳司令官は、名古屋以東の師団から工兵隊の出動を命じるとともに、歩兵21連隊、騎兵6連隊、工兵17大隊、鉄道、電信各2連隊、航空機、衛生機関、および救護班など3万5000人を動員し、各方面に配置した。これらの部隊は警察官、憲兵と協力して、治安維持にあたるとともに、鉄道、電線、道路、橋梁などの修理を行い、役所による食料分配や避難民の救護にも協力した。それにより当初の流言蜚語も収まり、平穏な状態が確保された。
 これにたいし、達吉はこう記している。

〈右(関東戒厳司令部)の発表に見えている通り、戒厳軍の主として活動したのは警備、救護、営造物の修理などであって、人民の自由を拘束する権力は法律上には与えられていても、その権力を実際に活用することは、むしろ稀であった。戒厳司令官から一般人民に対して命令を発したのも、自警団の行動を戒めた9月4日の命令だけであったと思う。これは軍事戒厳ではなく行政戒厳であることから生じた当然の結果であるけれども、戒厳令の施行に対し、一般人民が等しく満足感謝の意を表しているのは、主としてこれがためである。〉

 不逞鮮人来襲の流言を信じて、朝鮮人を迫害、殺害した自警団は、戒厳軍により9月4日に解散を命じられたが、朝鮮人の殺傷は7日ごろまでつづいた。
 その後は警察や軍によって、朝鮮人は保護の名目で拘束された。その数は10月末までに全国30府県で2万3715人にのぼったとされる。
 亀戸事件が発生したのは9月3日から4日にかけてである。亀戸警察署では数十人の朝鮮人が殺害されたが、同時に川合義虎、平澤計七ら10人の社会主義者や組合活動家が、習志野騎兵第13連隊の兵士によって刺殺された。
 社会主義者にたいする検束が相次いだ。朴烈と金子文子は9月3日に逮捕された。近藤憲二、福田狂二、浅沼稲次郎、稲村順三、麻生久なども9月5日以降、つぎつぎと検束されている。
 そんななか9月16日、大杉栄は妻の伊藤野枝、6歳の甥、橘宗一とともに憲兵隊によって連行され、麹町の憲兵司令部で殺害された。宗一は米国籍だったため、アメリカ大使館からは日本政府への抗議と事態究明要求が突きつけられ、国際問題化した。
 甘粕(正彦)憲兵大尉、大杉栄ほか2名を殺害との記事が『時事新報』や『読売新聞』などで大きく報じられたのは9月20日のことである。
 この事件により関東戒厳司令官の福田雅太郎は更迭され、山梨半造大将に代わった。
 戒厳令は11月15日までつづく。

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