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清浦内閣の不人気──美濃部達吉遠望(48) [美濃部達吉遠望]

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 山本権兵衛内閣で震災からの復興を中心になって担ったのは、内務大臣の後藤新平だった。
 後藤は震災直後に帝都復興審議会を立ち上げ、政界、官界、財界を巻きこみながら、壮大な復興計画を打ちだした。9月末には復興計画の実施にあたる帝都復興院もつくられた。
 後藤の計画は焼失地区にかぎらず、東京市全域を対象としたものだった。池袋、新宿、渋谷、目黒のターミナルと都心部を結ぶ幹線道路が計画され、その下に地下鉄を通すことも構想されていた。横浜港を再建するだけでなく、隅田川河口に内港を整備し、そのふたつのあいだに運河を開き、沿岸工業地域を整備することも計画された。
 だが、そのプランは現実的制約を前にして、次第にあやふやで中途半端なものになっていく。
 事態をややこしくしたのは、後藤による政界再編工作が並行して進んだためである。党内が分裂しているとはいえ、衆議院の議席は政友会が多数派を握っている。後藤は犬養らとともに新党を結成し、あわよくば次の選挙で政友会の追い落としをはかろうとしていた。
 後藤の立てた復興計画予算は35億円とも41億円ともいわれていた。現在の感覚でいうと10兆円から12兆円といったあたりだろうか。2年前に東京市長を務めた後藤は、欧米最新の都市計画を採用すると大風呂敷を広げた。そのためには地主の土地所有権にたいしても断固たる措置をとるのをためらわないと広言していた。
 だが、後藤の復興計画には、復興審議会のなかから強い反対意見がでる。とりわけ、後藤の親友、伊東巳代治(みよじ)が反対の急先鋒に立った。伊東は理想に走るより民心の安定をはかるべきだと主張し、負担の大きい予算の削減と地主への手厚い補償を求めた。審議会委員になっていた政友会総裁の高橋是清もこれに同調し、後藤の大風呂敷はとたんにしぼんでいく。復興計画は焼け跡の市街地復興に限定されていくことになる。
 さらに12月11日に開かれた第47臨時国会でも、第1党の政友会が復興院予算の大幅削減と復興院の廃止を求めた。これにより復興計画予算は最終的に政府の要求した5億7000万円からさらに削られてしまう。しかし、山本内閣は衆議院を解散することもできず、政友会の主張をのむしかなかった。後藤の権威は失墜し、内閣でも信用を失い、帝都復興院も廃止されることが決まった。
 そのとき世情を騒然とさせる事件が勃発する。虎ノ門事件である。
 12月27日午前11時前、第48通常国会の開院式に出席するため、摂政の裕仁皇太子(のちの昭和天皇)が御召自動車で虎ノ門外にさしかかったところ、群衆のなかからひとりの青年がおどりだし、ステッキ仕込みの散弾銃を摂政めがけて発砲した。弾丸は自動車の窓ガラスを貫き、同乗していた東宮侍従長の入江為守が軽傷を負ったものの、摂政は無事だった。自動車はスピードを上げ、貴族院玄関前にすべり込み、摂政はそのまま貴族院の開院式に臨んだ。
 犯人の難波(なんば)大助は「革命万歳」と叫んで、走りだしたところ、警察官によって取り押さえられた。難波は25歳で、その父は山口8区選出で庚申倶楽部(こうしんくらぶ)所属の衆議院議員だった。
 難波大助は翌年11月13日に大審院で死刑を宣告され、11月15日に死刑が執行されることになる。
 この事件により、山本権兵衛はただちに辞表を提出した。摂政や元老から慰留されたものの、次の内閣成立を待って、1924年(大正13年)1月7日に山本内閣は総辞職した。
 その過程で誕生したのが清浦奎吾(きようら・けいご)内閣である。当時、清浦は死亡した山県有朋の後を受けて枢密院議長を務めており、明治の遺臣というべき二人の元老、西園寺公望と松方正義の推挙を受けて、首相に就任した。
 このとき清浦は数えの75歳、閣僚の人選を貴族院の会派、研究会にゆだね、貴族院内閣をつくった。とうぜん国民からは不人気で、政党からは猛反発をくらい、さっそく内閣打倒をめざす護憲運動(第二次)が巻き起こる。これにたいし、清浦内閣は1月末にいきなり議会を解散、5月10日に総選挙がおこなわれることになった。
 清浦内閣をどうみるかについて、美濃部達吉は雑誌『改造』から執筆依頼を受け、3月1日発行の3月号に「非立憲極まる解散 政治的良心を疑う」と題する評論を発表している(のちに「清浦内閣の成立と衆議院の解散」と改題)。
 冒頭、こう記している。

〈山本内閣が不慮の事変のために急に辞職せねばならぬことになってから後、今日に至るまでの政界の変動は、一般民心の激昂を招いたこと、ほとんど憲政実施以来未曽有ともいうべきほどで、しかもそれは単に政党政治家の仲間においてのみではなく、平生はほとんど政治に無関心である学者、実業家、一般知識階級の間にも、これを憤慨する声がすこぶる高い。新聞紙の論調は必ずしも常に国民の感情を正確に表現するものではないにしても、今回のごとく全国のほとんどすべての新聞紙がその論調を一にして内閣の存立を根本的に否定していることは、これまで全く例を見ないところで、それだけでもいかに現在の内閣が、国民の間に不人気であるかを推測することができる。〉

 国民は清浦内閣の何に怒っていたのだろうか。
 元老の推薦による首相任命という経緯はこれまでどおりの慣例であって、特に人心の激昂を招く理由はない。二大政党があって、内閣が総辞職した場合は反対党の党首に内閣組閣の命が下ることが常識となれば元老の裁定など必要としない。だが、現在の政党政治のていたらくをみれば、そうした理想にはほど遠いといってよい。
 実際、衆議院第1党で、原敬の後を継いだ高橋是清の政友会は分裂しかかっていたし、第2党の加藤高明の憲政会は議席の3分の1に満たなかった。けっして良いこととは言えないが、今回も元老による首相推挙という方式はやむを得なかった。天皇の顧問としての内大臣(平田東助)が首相推挙に関与したことも、当然の職責で非難すべき理由はないと達吉はいう。
 問題は清浦が政治家としてふさわしい態度を取らなかったことだ。いったんは辞退すると言いながら、数時間のうちにその決心を翻したのも問題だが、内閣の組閣にあたって、貴族院の親しい会派の幹部に内閣の人選を委ねたのも前代未聞の事態だ。「これだけでも国民の軽侮と憤懣を招くに充分である」。しかも、それによってできあがったのは純然たる貴族院内閣だった。これでは国民の共感が得られるはずがない、と達吉は明言する。
 さらに、そうした不人気に輪をかけて、清浦は1月31日に衆議院解散の暴挙に出た。今回の解散はその理由においても、その時期においても、はなはだ不当なものである。倒閣の動きが始まり、衆議院で内閣不信任案が出されそうだということをかぎつけ、議場の秩序が乱れたという理由で政府は解散に踏み切った。「ここに至っては、ただ逆上の沙汰と評するのほかはない」
 清浦内閣はしきりと国民の思想の善導を唱えていた。思想の善導が政府の果たすべき職分であるかどうかはわからない。しかし、「今の内閣ははたして自ら思想を悪化する原因を作りつつあるものであるという非難を免れうるであろうか」。痛烈な皮肉とともに、『改造』の一文は締めくくられている。
 1月末に議会が解散される前に、政友会はまっぷたつに分裂した。政友会は政府に反対する高橋是清の総裁派と、政府を支持する反総裁派に分かれて争っていた。しかし、1月15日に高橋が党全体として反政府の姿勢を固めることを鮮明にすると、それに反発する反総裁派の山本達雄、中橋徳五郎、元田肇、床次竹二郎らが新党、政友本党を結成した。
 政友本党は148人の大所帯に膨れ上がり、議会第1党として清浦内閣を支えることになった。清浦が解散に踏み切ったのも、政友会の分裂に乗じて、政局を転換できると考えたためでもある。
 しかし、考えが甘かった。政府の暴挙にたいし、政友会(総裁高橋是清)は憲政会(総裁加藤高明)、革新倶楽部(代表犬養毅)と結束して、護憲三派をつくり、反政府の護憲運動に立ち上がった。
 5月30日の総選挙の結果は、憲政会151、政友本党116、政友会100、革新倶楽部30、中正倶楽部42などとなり、政府の思惑ははずれた。とりわけ憲政会が躍進、護憲三派が大勝して、議会の絶対多数を握った。
 これにより、清浦内閣は退陣し、憲政会総裁の加藤高明に組閣が命じられることになる。6月11日、護憲三派の内閣が発足する。高橋是清が農商務相、犬養毅が逓信相、憲政会からは若槻礼次郎が内相、浜口雄幸が蔵相に就任、駐米大使の幣原喜重郎が外相に就任した。
 このとき、達吉は7月1日発行の『改造』で、加藤内閣への期待を述べている。

〈清浦内閣がやめて加藤内閣がこれに代ったのは、長い間の梅雨がようよう晴れて、かすかながらも日光を望むを得たのと、同じような快い感じがする。数年前に寺内内閣が倒れて、原内閣が代ったときと同じような感じだ。ことに今度の内閣において高橋政友会総裁および犬養氏が相携えて、おのれを空しうして無条件に入閣したことは、国民に大なる快感を与えた。ただそれだけでも、前の内閣が(中略)牽強付会の強弁をもって無理に自己の非を掩(おお)わんとした態度と比較して、雲泥の相違と言わねばならぬ。閣員の顔ぶれから言っても前内閣とは比較にならぬほどに国民の信頼を継ぐに足りる。願わくは少なくとも今後三四年の間は堅く三派の協調を維持して、大いに政界の刷新を断行してもらいたい。もしこの内閣にして失敗するようなことがあれば、今後わが国の政治は当分の間は暗黒時代におちいるほかはない。〉

 残念ながら不安は的中する。暗黒時代が近づいていた。軍靴の音とともに。

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