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普通選挙法と治安維持法──美濃部達吉遠望(49) [美濃部達吉遠望]

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 護憲三派(憲政会、政友会、革新倶楽部)の加藤高明内閣は8年にわたる政党政治の幕を開いた。
 だが、三派の結束は1年ほどしかつづかない。今後3、4年はかたく三派の協調を維持し、政界を刷新してもらいたいという美濃部達吉の希望はもろくも崩れていく。その後は政党どうしの争いと、めまぐるしい政権交替がつづいた。日本の民主主義はなぜ定着しなかったのだろうか。
 護憲三派は清浦内閣打倒と政党政治実現ではまとまっていたものの、その政策にはばらつきがあった。普通選挙実現に熱心な憲政会と革新倶楽部にたいし、地主と三井財閥を支持基盤とする政友会は、どちらかといえば消極的だった。政友会が貴族院改革に力を入れていたのにたいし、憲政会はそれにさほど同調しなかった。三菱財閥の支援を受ける憲政会が推し進めようとしていたのは、むしろ綱紀粛正と行財政整理だった。
 そんな呉越同舟の政権ではあったが、ともかくも総選挙で第1党を勝ちとった憲政会の加藤高明は、松方正義が亡くなって最後の元老となった西園寺公望の推挙を受けて、1924年(大正13年)6月11日に護憲三派内閣を組閣した。
 加藤内閣が最初に目指したのは綱紀粛正、行財政整理と普通選挙法案成立である。
 この年、51歳になった達吉は東京帝国大学の法学部長になっている。『帝国大学新聞』に加藤内閣への希望を聞かれて、こんなふうに答えている。

〈新内閣に対する希望としては、第一に望むことは悪い事をしないようにしてもらいたいということである。政府はともかくも国家の権力を握り、ことに国の財政を管理しているのであるから、悪事に対する誘惑が非常に多い。もし悪事を行わない内閣があれば、それだけですでに国民の信頼を得るに充分である。不幸にして歴代の内閣はひとつとしてこの要求を満たすものなく、われわれはいつとはなしに、政治家というものは平気で悪事を為すものであるというような感想を抱かしめらるるに至った。加藤新内閣は綱紀粛正を三大政綱のひとつとして標榜している。願わくは忠実にこの政綱を実行して多年の積弊を一掃せられたいものである。〉

 達吉の期待に代表されるように、加藤内閣にたいする期待は大きかったといえるだろう。
 加藤内閣は対外的には幣原外交の名で知られるように、アメリカの対日移民政策を静観し、中国の内戦には不干渉を貫き(とはいえ、軍部は独自行動をとったが)、ソ連とは国交樹立の方向を探った。
 行財政整理については、とりわけ財政の立て直しが大きな課題となっていた。原内閣以来、財政は大きく膨張し、それに震災復興費が加わったため、公債依存の体質が強まっていた。
 そのため、政府は緊縮財政方針を打ち出し、行政の整理に取り組んだ。陸海軍の改革や、郵便貯金を原資とする大蔵省預金部の運用明確化、農商務省の分割(農林省と商工省の分離)などに踏みこむが、新たな予算要求への圧力も大きく、思ったほどの緊縮財政は実現できなかった。
 いっぽう、内閣最大の綱領だった普通選挙法案は、枢密院と貴族院からの干渉を受け、その成立に至るまで、もめにもめる。
 11月には内閣で普通選挙法案の原案がまとまっていた。しかし、翌月、それが枢密院の審議にかけられると、さっそく修正が加えられることになる。25歳以上の男子に選挙権・被選挙権を与えるとしていた政府原案は、被選挙権に関しては30歳以上の男子とすると修正された。
 また選挙権の欠格者の範囲が拡大された。「公私の救恤(きゅうじゅつ[助け、めぐみ])を受くる者」と「一定の住居を有せざる者」には選挙権を与えない。学生には選挙権を与えないという姿勢が露わだった。
 さらに「教育の普及と思想の善導、国内行政の取締を充分にし、普選実施後の対策に遺憾ならしむこと」という付帯決議もつけられた。
 1925年(大正14年)2月20日に修正可決された普通選挙法案は、翌日衆議院に上程され、野党の政友本党の反対を振りきって、3月2日に可決された。しかし、貴族院では反対が強く、欠格事項を拡大するさまざまな文言が加えられた末、妥協がはかられ、会期を延長した3月29日にようやく普通選挙法が成立した。
 原内閣のときに実施された小選挙区制はこのとき中選挙区制にあらためられている。より公正な選挙運動への歩みはみられたものの、官憲による選挙干渉の可能性はつきまとっていた。だが、いずれにせよ、この普選法によって、有権者が330万人から1250万人に拡大するのはたしかだった。
 そのとき、普通選挙の承認にあたって、枢密院がおこなった付帯決議がきいてくる。普通選挙法成立の10日前に、さほど大きな論議もなく、一つの法律が国会で成立した。治安維持法である。
 治安維持法は普通選挙法に対応するためだけに制定されたわけではなかった。この年1月、日ソ基本条約が調印され、日本とソ連との国交が樹立されていた。その交渉過程において、加藤首相はソ連側に日本での宣伝活動をおこなわないことを求めたが、ソ連側は拒否した。そのために、日本としては国内に共産主義が広がらないよう法的措置をとる必要があったのだ。
 いずれにせよ、加藤内閣成立以前から司法省や内務省で検討されていた治安維持法が普通選挙法と抱き合わせるかたちで、導入されたのは事実である。その第1条は「国体を変革し、または私有財産制度を否認することを目的として結社を組織し、または情を知りてこれに加入したる者」に10年以下の懲役または禁固を課すとなっていた。あきらかに共産党や無政府党の結成とそれへの参加を禁止したものである。
 政府は上程にあたって、この法律は自由主義や穏健な社会運動を抑圧するものではないと説明し、難なく衆貴両院で法案を成立させた。だが、のちに治安維持法は1928年(昭和3年)、1941年(昭和16年)と二度改正され、死刑も加えられて厳罰化されたばかりか、言論、思想信条の取り締まりにまで、適用範囲が広げられていくことになる。
 護憲三派内閣のもうひとつの課題である貴族院改革は、政友会の急進案がしりぞけられ、憲政会の意向をくむ穏健なものにとどまった。有爵議員年齢の引き上げ、有爵互選議員(伯爵、子爵、男爵)定数の削減、多額納税議員有権者の拡大、帝国学士院互選議員の新設などが決められた。ちなみに、達吉はこれらとは別枠の勅選議員として、1932年(昭和7年)に貴族院議員に選ばれることになる。
 しかし、護憲三派内閣が機能したのは、このあたりまでだった。普通選挙法が成立したあと、4月3日に政友会総裁の高橋是清は総裁を辞任すると加藤高明首相に伝え、農商務省が農務省と商務省に分割されたために兼任していた農相と商務相もやめたいと表明した。
 満70歳になっていた高橋はそろそろ政界を引退する潮時だと考えていた。これまで自分を支えていた司法相の横田千之助が2月に54歳で急死したことも、党の運営に自信をなくす要因になっていた。
 4月10日、田中義一が新たに政友会総裁の座に就いた。原内閣の陸相を務めた田中は、陸軍を退役して、政界への転身をはかっていた。
その田中は、加藤首相からの入閣要請をことわる。みずからが首相になる野望を秘めていたからである。
 5月14日には革新倶楽部と中正倶楽部が政友会と合同し、これによって政友会は議席を139に増やし、政友本党を抜いて、憲政会に次ぐ衆議院第2党となった。革新倶楽部代表の犬養毅は、いつのまにか合同工作が進んでいて、足元をすくわれるかたちとなった。犬養は、27日に政界引退を表明、逓相を辞任した(その後、政友会に復帰する)。
 加藤内閣は激震に見舞われた。7月にはいり、浜口蔵相が税制整理案を閣議に提出すると、政友会出身の閣僚はこれに反対し、内閣不統一により、加藤内閣は総辞職に追いこまれた。
 政友会総裁の田中義一は、いよいよチャンスがめぐってきたとばかりに、政友本党との連携をはかり、大命が降下するのを待った。しかし、元老の西園寺公望が田中の画策を嫌い、加藤高明をふたたび首相に推薦した。
 こうして憲政会単独の第2次加藤内閣が発足する。憲政会の議席は衆議院の3分の1ほどである。憲政会、政友会、政友本党の三派が鼎立(ていりつ)し、政局は不安定になった。かといって、加藤は総選挙に踏み切れない。憲政会は政友本党と提携し、衆議院の過半数を確保し、政局の打開をはかろうとした。
 1926年(大正15年)1月22日、第51議会が再開されて2日目、加藤首相は貴族院の議場で倒れ、6日後の28日に亡くなった。死因は心臓麻痺、満66歳になったばかりだった。
 内相の若槻礼次郎が首相代理となり、そのまま内閣を引き継いで、1月30日に若槻内閣(第1次)が組閣された。
 美濃部達吉は護憲三派以来の政党政治のあやうさをじっと見つめていた。憲法・行政法の専門家としては、政治に無関心ではいられない。日本の政党政治はなぜ脆弱なのか、日本に政党政治が定着するには、どのような制度改革が必要なのか。そのことを考えつづけている。

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