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明治憲法の特色──美濃部達吉遠望(50) [美濃部達吉遠望]

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 九州帝国大学が京都帝国大学福岡医科大学を母体として、福岡の地に発足したのは1911年(明治44年)のことである。その後、1924年(大正13年)に法文学部がつくられた。このとき東京帝国大学法学部長の美濃部達吉は、九州帝国大学の法文学部法科の教授を兼任することとなった。
 ちなみに九州帝国大学といえば、夢野久作の『ドグラ・マグラ』、さらには『神聖喜劇』を書いた大西巨人が法文学部を中退したことなどを思いだすが、それは以下の話とはなんら関係がない。
 1925年(大正14年)8月に達吉は九大で学生を前に3回にわたり「日本憲法の特色」と題する講演をおこなっている。その内容はまとめられて、翌年1月から『国家学会雑誌』に6回掲載された。
 さらにいうと、この論考は大幅に書き改められて、達吉の東大退官後の1934年(昭和9年)に、『日本憲法の基本主義』というタイトルで日本評論社から刊行された。天皇機関説事件のあと、発行禁止となる3冊の本の1冊である。
『国家学会雑誌』にこの連載がはじまったころ、日本でもようやく政党政治が定着するのではないかとの期待が高まっていた。
 加藤高明首相が貴族院の議場で倒れ、死亡したあと、元老の西園寺公望はその後継として、加藤内閣で内相を務めていた同じ憲政会の若槻礼次郎を次の総理大臣に推挙した。憲政の常道が実施されたのである。達吉もまた、これによって二大政党による立憲政治が定着することを願っていた。
 だが、すでに護憲三派体制は崩壊し、憲政会は衆議院の3分の1ほどの議席しかない。野党政友会の総裁となった退役陸軍大将の田中義一は、虎視眈々と次期総理の座をねらい、若槻内閣攻撃の材料を集めていた。
 ここで「日本憲法の特色」という論考を取りあげるのは、大正末年当時、達吉が憲法にもとづく日本の国家体制をどのようにみていたかを知るためである。それは、のちに時局を警戒しながら書き改められる『日本憲法の基本主義』とも、いささか異なる雰囲気をただよわせている。
 達吉は、最初にその講義の目的を、法律的にみて日本の立憲政治の特色がどこにあるかを明らかにすることだと話している。あまりにも簡約すぎる憲法条文にこだわらず、世界からみた日本の立憲政治の特色を示してみたいとまで踏みこんでいるのは、明治憲法の積極解釈をこころみたものと理解できるだろう。
 達吉は聴講する学生に、明治憲法の特色が(1)君主主権主義、(2)二院制代議主義、(3)権力調和主義、(4)兵政分離主義、(5)中央集権主義、(6)成文憲法主義の6点にあると指摘している。以下、順にそれをなぞってみよう。

(1)君主主権主義
 国家の主権にたいする考え方には君主主権主義と国民主権主義とがある。日本は君主主義をとっているが、君主主権といっても、君主に万能無制限の権力があるわけではなく、その権力にはおのずから憲法による制限が課されている。
 また国家最高の意思は、君主の単独の意思によって決定されるわけでもない。立憲君主制のもとでは、そこにとうぜん議会の意思が反映される。
 君主主権の主権とは「最高」という意味で、君主主権とは、国家の政治組織において君主が最高の地位にあることを意味する。しかし、立憲政治のもとでは、その権力の範囲はおのずから定められている。
 君主と大統領が異なるのは、大統領が国民のなかから選挙によって選ばれるのにたいし、君主が自身固有の権利を有していることである。その固有の権利は、他のいかなる権力によっても掣肘されない。
 日本では、天皇の大権はほかの国の君主よりもはるかに強い色彩を帯び、はるかに広範なものとなっている。それはこれまでの歴史にもとづくもので、「将来憲法がいかに改正せらるることありとするも、少なくとも一系の皇統を戴く君主主権の政体は永遠にこれを変更すべからざるものとしている」。
 この点からすれば、達吉はあくまでも尊皇主義者だった。
 皇室に関する法律は、皇室典範によって定められている。皇室典範が憲法と切り離されて、独自の規範となっているのは、日本特有の歴史的国情によるものだ。これにより皇位の継承は、皇室の自治にゆだねられていることになる。こうした皇室の自治権は侵犯することができない。
 とはいえ、皇室典範は皇室内部だけに効力を有するものではなく、同時に国家法としての効力を有している。憲法と皇室典範は対等の地位を有する国家の二大基本法だといってよい。
 皇室典範により皇室には自治権が認められているから、皇室はいわば治外法権の地位に置かれている。皇族には兵役義務も納税義務もなく、戸籍法も適用されない。その戸籍は皇統譜に記載される。
 明治憲法は欽定憲法主義をとっている。すなわち天皇の大権にもとづいて制定されたものである。
 君主主権主義は、けっして君主独裁主義を意味するものではないが、天皇の大権と議会の権限との関係は大権が主であって、議会は副と定められている。その点において、明治憲法は大権中心主義をとっている。
 天皇はその大権にもとづいて、国民にたいする統治権を行使する。議会の決議は直接には国家意思とはならず、天皇の裁可によってはじめて国家意思となる。
 議会の議決が得られない場合でも、政府は大権にもとづいて、緊急勅令や予算外支出、予算超過支出、財政上の緊急処分をおこなうことができる。
 とはいえ、議会が国家意思に参与できないというのは誤りである。天皇は一般国務に関しては国務大臣の責任により、これをおこなうとされており、議会はとうぜん国政に関与することができる。法案の審議はいうまでもない。加えて、上奏、建議、質問、予算および決算の審議などを通じて、議会は国政に関与する。
 大権は神聖不可侵だという考え方も誤っている。神聖不可侵なのは天皇の御一身であり、国務上の大権はけっして神聖不可侵ではなく、天皇の名において国務大臣がその責にあたる。
 さらに大権そのものも憲法や条約、法律によって制限されていることはいうまでもない。

(2)二院制代議主義
 明治憲法は君主主権主義を基礎とするとともに立憲政治をもとにしている。立憲政治とは民衆政治である。君主が国民の心をもって心とすることが立憲君主制の要点である。
 立憲政治は政府による議会にたいする責任政治でもあり、各個人の人格を尊重する人格解放の政治でもあり、人民の権利を保証する法治政治でもある。
 国政において肝要なのは総理大臣の任命である。それが君主の大権であることはまちがいないが、「君主はその個人的の信任に基づいて総理大臣を任命せらるべきではなく、国民の信頼に基づいてこれを任命せらるべきものである」。元老による総理大臣の推挙は、あくまでも国民の意向にもとづかなければならない。
 日本の立憲政治では、国民はただ選挙をおこなうにとどまり、みずからは直接国政に参加するのではなく、議員が国民を代表して国会に参与するかたちをとっている。そこで、国会の議決が法律上国民の意思の発表と認められ、すなわち民意が国会によって表明されることになる。
 議会が国民代表の機関ならば、理論上はむしろ一院制度のほうがその性質に適合するはずだが、世界では二院制がふつうの制度になっている。 その理由は選挙と多数決主義のもつ欠点を是正するためである。
 さらに、日本では議会の権限が諸外国にくらべ制限されている。議会は国政の参与機関であるにすぎない。議会の役割は立法と国政の監視にあるはずだが、日本ではその立法権はいちじるしく制限され、議会の査問権も認められていない。質問権も形式的なものにとどまっている。議会の会期もごくかぎられている。
 日本も諸外国のように二院制をとっているが、貴族院というすこぶる特異な議院を有しているのが特色で、しかも第二院の貴族院がきわめて強い権限をもっていることが問題だ。
 帝国議会は国民の代表機関として、政府にたいし完全な独立性を有しているはずだが、その一院である貴族院はなかば天皇の機関のような存在になっている。それは議員が勅令によって任命されるためで、そのため政府にたいする独立性が失われがちになる。貴族院の役割は、あたかも国民の代表機関である衆議院の力をそぐことに向けられているかのようだ。そればかりではなく、力をたのんで内閣の存立を脅かす事態さえ生じさせている。
 こうした貴族院の現状は改革されなければならない。

(3)権力調和主義
 権力調和主義とは「立法権と行政権とを厳格に分離せず、両者をして相調和し得べからしむる組織をなしていることを意味する」。
 行政、司法、立法の三権が完全に分離独立しているのではなく、三権のあいだに調和統一が保たれるのを期待するのが、日本憲法の特色だ。
 日本では立法権も行政権も天皇に属している。立法権については原則として議会の協賛を要するが、行政権は原則として議会の協賛を要しない。法案は政府も議員も提出できるが、実際には政府の提出する法案が大部分を占めている。
 とはいえ、議会は上奏、建議、請願受理、質問などの権限をもっており、それによって行政権に関与することができる。さらに予算および決算の審議を通じて、行政のすべてにわたって監督権を有する。
 こうして議会も政府もともに立法と行政に関与するのであって、大権が議会から独立し、議会はこれにまったく関与しえないというような考えは絶対に排斥しなければならない。
 議会と政府はけっして没交渉の位置にあるわけではない。憲法のもとでは政府と議会は、相互に影響をおよぼし、その間に調和を保たせるようにするのが、必然の勢いである。国務大臣は天皇にたいしてのみ責任があるわけではなく、議会にたいしても責任をもっている。
 議院内閣制を憲法はかならずしも必要な制度とは認めていない。国務大臣の任命は天皇の大権に属するものだ。「けれども政府と議会とを相互の交渉あるものとなし、一方には政府の解散権を認むるとともに、一方には議会の不信任決議の権を認めている結果は、議院内閣制はその必然の結果として、期待せられ得べきものである」。それが憲政の常道である。
 日本では裁判官は天皇によって任命されており、そのかぎりにおいて司法権は行政権の支配下にあるといってよい。だが、裁判官は法律にしたがって裁判をなすものであるから、その意味では立法権に絶対服従しているともいえる。つまり、憲法では「権力の調和統一が国政の進行に必要なることを認め、立法権をもって国家の最高の作用となし、而して立法権は政府と議会の協力によって行わるるものとなし、行政権と司法権とは共に立法権の下に立つものとしているのである」。
 議会政治こそが政治の原動力にならなければならない。

(4)兵政分離主義
 憲法では陸海軍を統帥する大権と国家統治の大権が分離され、内閣が陸海軍の統帥にかかわらないことになっている。陸海軍統帥大権は、軍の大元帥としての天皇が総攬するところであって、参謀総長と海軍軍令部長が天皇を補弼し、議会はこれに関与する権限を有しない。これをが兵農分離である。こうした考え方はドイツ帝国の制度にならったものだ。
 兵政分離主義は憲法に明記されているわけではないが、事実上の慣例となっている。兵政分離主義の長所は軍の行動を効率的かつ機敏にすることにある。だが、その一方で政府をはじめ局外者の容喙を拒否する傾向を生じやすく、軍の独走を招きやすい。
 しかし、兵政分離主義には例外もあって、軍政と軍令はとうぜん区別されるべきだ。軍政はいうまでもなく国政にかかわっている。兵権と政権との区別はあきらかにされねばならない。陸軍大臣、海軍大臣は現役武官制をとるべきではない。

(5)中央集権主義
 明治維新以降、日本は連邦主義をとらず、中央集権を主義としている。統治権は国家に一元化されている。さらに中央官庁が直接全国を支配し、中央官庁の命を受けない行政官庁が地方に存在することを求めないのが原則である。
 ただし、例外として地方自治制度が認められている。地方自治体は純然たる地方的利害に関してのみ、みずからこれを処理する権限を与えられている。こうした地方自治制度は天皇の大権に由来するものではない。
 地方自治制度の充実をはかるべきである。

(6)成文憲法主義
 日本憲法は不文法ではなく成文法を採用している。それにより憲法は明瞭性と固定性という特徴をもつようになった。
 それにより、だれもが憲法の内容を認識することができるいっぽうで、時勢に応じて伸縮自在に変化する弾力性を失ったともいえる。
 日本の憲法は条文がきわめて簡潔であり、そのためかえってかなりの程度まで、不文憲法をもって補充されなければならない。従来の日本の学界の通弊は、ただ成文法にのみ重点を置いて、不文法の重要性を軽視していることにあった。

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