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昭和の幕開け──美濃部達吉遠望(52) [美濃部達吉遠望]

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 1926年(大正15年)12月25日、長く精神の病を患っていた大正天皇が亡くなる。摂政を務めていた皇太子裕仁親王が即位し、年号は昭和と改まった。
 議会では諒闇中[天皇が喪に服している期間]の政争を避けるということで、憲政会、政友会、政友本党三党の妥協が成立し、すんなりと政府予算案が成立する見通しがついた。
 2月になると政府が提出している震災手形法案が、政友会の攻撃の的にさらされた。
 震災手形法案とは、3年半前の関東大震災で決済不能となった手形のうち処理できない残債分を、公債発行や政府日銀保証によって一挙に解消しようというものだ。しかし、実際は大震災以前から大戦バブルの崩壊で大量の不良債権をかかえていた台湾銀行などを救済することも大きな目的に含まれていた。
 それまで政府与党のスキャンダルを追及して倒閣に持ちこもうとしていた政友会は、予算案の成立で政府と一時妥協したものの、ここにきて政府の経済救済策を批判する方向に舵を切った。
 ピンチにおちいった若槻内閣は、ふたたび野党第2党の政友本党との関係修復をはかり、3月1日にいわゆる「憲本連盟」(憲政会と政友本党の連盟)を成立させる。
 だが、若槻内閣はけっきょくもたない。
 内閣が倒れるきっかけとなったのは、衆議院で震災手形法案の審議がおこなわれているさいちゅうの3月14日に、片岡直温(なおはる)蔵相が、東京渡辺銀行が破綻したと発言したことである。東京渡辺銀行はじっさいにはまだ破綻していなかったのだが、この失言によって休業を余儀なくされる。その後、全国の中小銀行にたちまち取り付け騒ぎが広がっていった。
 震災手形法案は3月23日に貴族院でも可決成立した。だが、その直後の27日に台湾銀行が鈴木商店との取引を停止すると発表した。
 台湾銀行は朝鮮銀行と同じく政府系の特殊銀行で、植民地の台湾で中央銀行としての役割をはたしていた。いっぽうの鈴木商店は、当時、三井物産や三菱商事に匹敵する総合商社だった。
 鈴木商店が倒産に追いこまれたため、鈴木商店を主要取引先としていた台湾銀行は危機におちいり、日銀の救済を受けなければとても立ちゆかなくなった。
 そこで、議会閉会中のため、政府は台湾銀行救済の緊急勅令を出すよう枢密院にはたらきかける。だが、枢密院はこれを拒否した。
 これにより憲政会の若槻内閣は身動きがとれなくなり、総辞職に追いこまれる。その結果、元老の西園寺公望の推挙により、政友会の田中義一が次期首相となる。4月20日、田中義一内閣が成立した。
 このとき美濃部達吉は枢密院による事実上の倒閣を批判し、『帝国大学新聞』で、こう述べている。

〈立憲政治の普通の事情からいえば、内閣の倒壊するのは、内閣の内部の不統一から来る自発的瓦解か、総理大臣の死亡または不健康に基く辞職か、しからざれば衆議院の多数から不信任の意思を示されたことに原因するものでなければならぬ。健全な立憲政治において、外部から内閣を倒壊せしめうべき力を有するものは、ただ国民の代表者としての衆議院のみに限らるべきもので、貴族院すらも内閣の進退を左右しうべきものであってはならぬというのが、憲政の理論である。いわんや枢密院の決議によって内閣を倒壊せしむるに至っては、憲政の甚だしき変態であることは言うを待たぬ。〉

 憲法では、内閣および帝国議会とは別に、枢密院が天皇の最高顧問府として設けられている。そのかぎりにおいて、枢密院の決定が内閣を倒壊させる事態は考えられないことではない。しかし、そうしたことが生じるのはけっして望ましくなく、むしろ異常な事態と言わねばならない。こんなことがおこるなら、枢密院の存在そのものすら疑わなければならない、と達吉はかなり厳しい口調で、今回の措置を批判している。
 ただし、政府にも問題がなかったわけではない。台湾銀行の窮状は前から知られていたのだから、やろうと思えば議会開会中に審議ができたはずである。それを議会閉会後、二三週間もたたぬうちに、枢密院に緊急勅令をだすよう申し入れたのだから、あまりにも乱暴な措置といわねばならない。
 その結果、枢密院の反発を招き、憲法違反だとして内閣の倒壊につながったのだから、政府の責任も大きい。それでも枢密院の決議によって、内閣の更迭が生じるような事態は、憲政政治のはなはだしい変態(例外状況)であると論じた。
 こうした例外状況は、まもなく通常となる。そんな時代がやってくることを達吉は予感していたのだろうか。
 田中義一は政友会単独の内閣を組閣した。当面の金融恐慌に対処するためには、引退を表明した高橋是清にあらためて蔵相就任を請わねばならない。急転回する中国の情勢に対処するため、外相はみずからが兼任した。内相には司法官僚出身の鈴木喜三郎をいれた。
 金融恐慌は収まる気配をみせない。全国で取り付け騒ぎがつづいていたため、高橋蔵相は全国の銀行に2日間の自発的休業を命じ、緊急勅令による3週間の支払い停止(モラトリアム)を実施した。日銀は急遽、印刷した大量の紙幣を全国の銀行に貸し付け、最悪の事態に備えた。政府は日銀にたいし5億円の支払い補償をした。
 こうした措置により、恐慌は次第に沈静化していく。それでも華族の銀行といえる十五銀行をはじめ、大阪の繊維業界と関係の深い近江銀行など、44の銀行が休業に追いこまれる。
 こうして、金融恐慌後、日本の銀行業界は、三井、三菱、住友、安田、第一、第百(のち三菱に統合)の大銀行体制のもとに再編成されていくことになる。
 6月1日に憲政会と政友本党が合体し、民政党が発足した。民政党の総裁には浜口雄幸(おさち)が就任。二大政党時代が到来したのだ。まもなく初の普通選挙が実施されるのは必至だった。
 恐慌は収まっていくものの、日本じゅうをそこはかとない経済不安がまとわりついていた。そんななか、学生のあいだではマルクス主義の影響がじわじわと広がる。これにたいし、政府はますます思想統制の動きを強めようとしていた。
 師走にはいったころ、東大正門内で大学生が警察官によって検束されたという記事が新聞に掲載された。このことを知った達吉は驚く。
「もしそれが濫用せられるとすれば、警察官の専断によって実質上ほとんど刑罰に等しいものを課しうるものとなり、憲法上の自由の保障は、ほとんど効果を失ってしまわねばならぬ」と、さっそく当局を批判する一文を『帝国大学新聞』に寄せた。
 警察検束が許されるのは、泥酔者や自殺をくわだてる者を保護するための保護検束、ならびに公安を害するおそれがある者を検束する予防検束にかぎられる。
 予防検束はいたって濫用されやすい。しかし、危険思想をもつというだけで本人を長期にわたって検束することは、警察検束権の濫用にほかならない。それはむしろ警察による不法監禁だといってもよい。警察官の検束が不当な場合は、被検束者はとうぜん正当防衛の権利をもつ、と達吉は断言した。
 治安維持法の成立を受けて、いわゆる「主義者」を取り締まる「特高」、すなわち特別高等警察がつくられようとしていた。それは次第にあらゆる反政府運動を監視し取り締まる秘密警察へと発展していく。

 1928年(昭和3年)1月の通常議会で、田中内閣は首相の施政方針演説直後に衆議院を解散した。民政党から内閣不信任案が提出されることを知り、それに先んじて手を打ったのだ。
 こうして、2月20日に日本初の普通選挙となる総選挙がおこなわれることが決まった。
 達吉は反対党にまったく発言の機会を与えることなく議会を解散した政府の処置を姑息(こそく)だと批判する。「解散は決して不意討であってはならぬもので、双方の意見が十分に闘わされ、その相対立しえないことが明白になって始めて断行せらるべきものである」
 まさに正論というべきだろう。
 日本では政党政治がまだ成熟していない。「政党政治がややもすれば国家および国民の福利を度外視してひたすらに政党自身の発展を謀(はか)り」、党利のために手段を選ばないことを、達吉は嘆いている。
 そんな嘆きをよそに、少数与党の政友会はこの総選挙で圧勝を期し、膨大な選挙資金をつぎ込み、身も蓋もない選挙干渉をおこなった。
 その結果は政友会217、民政党216のほぼ同数の議席で、政友会はようやく第1党を確保できたたにすぎなかった。もくろみは大きくはずれた。
 しかし、今回の選挙では、社会民衆党、労働農民党、日本労農党などからなる無産政党が、衆議院に議席を得たことだった。それはわずか8議席にすぎなかったが、そのことに達吉は唯一の「喜び」を覚えた。
 そのあとすぐ、反動政治の嵐が押し寄せてくる。
 達吉は書かないわけにはいかない。

〈近頃の日本の政治の有様を見ると、我々はただ政治上の暗黒時代が来ったという感じを禁じ得ない。立憲政治の最大の長所の一つは、政治の秘密主義を排して、国民の環視の下に公明正大なる政治の行わるることにあるといわれている。しかるに普通選挙による第一回議会開会の今日にあたって、政治の公明正大はほとんど跡を絶ち、心ある者をして暗黒政治の到来を痛嘆せしむるに至ったのは、はたして何人(なんぴと)の罪であろうか。〉

 暗黒政治の到来。いったい何がおこったのだろう。

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