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近代化の日中比較──富永健一『近代化の理論』を読む(6) [本]

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 のんびりと読んでいる。気の向くまま、あちこち。
 著者は、社会は発展段階を追って進化すると考えている。世界史において、その進化の方向が、これまでのところ近代化というかたちをとったことはまちがいない。
 近代化とともに、さまざまな機能集団(学校、企業、役所など)が形成され、家族・親族の結合強度はちいさくなり、個人の自由度が高まるとともに、社会のルールが確立されていく。
 村のような閉鎖的な地域共同体は解体され、国民社会(いずれは世界社会?)と国家(いずれは世界国家?)が形成されていく。
 身分とか階級とかといった人間関係は消滅し、社会的中間層の誕生とともに平準化された社会階層へと移行していく。
 こうした近代化への進化が、社会構造の変動(社会変動)によってもたらされたことはいうまでもない。
 では、なぜ社会変動が生じるのか。
「現行の社会構造のもとでシステムの機能的要件が達成され得ないことを当該成員たちが意識した時、そのことが現行の社会システムの構造を変えようとする動機づけ要因となる」と著者はいう。
 いまの社会構造ではもうやっていけないと思うのは、あくまでもその共同体にくらす人の主観、あるいは人びとの共同主観であり、そこから社会システムを変えようという動機が生まれるというわけだ。といっても、その方向性はけっしてランダムではなく、社会の進化(具体的には近代化)に沿ったものになるはずだ。
 では、なぜ世界は一様に近代化しないのか、あるいはしなかったのか。現実に近代化は西洋(西欧と北米)からはじまり、西洋を起点として、東欧やロシア、日本、アジアへと広がっていった。
 著者は近代化のプロセスを「内在的」(内生的)発展によるものと「伝播的」(外生的)発展によるものとに分け、これまで西洋中心に考えられてきた近代化論を、いわば世界史レベルでとらえなおそうとしている。
 だが、その作業はあまりにも膨大にわたる。そのため、本書では範囲を限定し、産業化の発生源となった西洋と、早くから西洋を受け入れた日本、近代化のスタートが遅れた中国にしぼって、社会進化の様相が比較検討される。
 先発国である西洋にとって、近代化・産業化は内生的なものである。それを起動させた要因としては、(1)資本主義の精神(2)民主主義の精神(3)合理主義の精神(4)科学的精神(経験主義、実証主義)が挙げられる。
 こうしたエートスは西洋においてのみ生みだされた、と著者はいう。
 これにたいし、後発国であるアジアなどにとっては、近代化・産業化はほぼ外生的なものとなる。それは西洋からの文化的インパクトによって、外からもたらされた。
 後発国において、それまで近代的エートスが発現しなかったのは、社会変動の担い手が内部から自生せず、そのために社会停滞がつづいてしまったからだと考えられる。しかし、単なる模倣だけでは近代化は進まない。
 後発国において社会発展が実現するためには、いくつかの条件が必要になってくる。
 まず、農業社会が内的に成熟していること。次に、すぐれた指導者をもつ政府によって適切な指導がなされること。さらに西洋への危機意識。伝統主義を克服しようとする革新的態度。国内抗争の克服。産業文明を内部化できる人材の育成。そして、従属からの離脱と独立性。
 著者は後発国が近代化を達成するために必要な条件として、以上のような項目を挙げている。
 それでは、日本の場合はどうだったのか。
 日本が産業化の道を歩みはじめたのは1880年代で、イギリスにくらべ約1世紀、フランス、アメリカにくらべ半世紀、ドイツにくらべ30年遅れていた。しかし、ほぼ1世紀のあいだに、日本はそれらの国に追いつく。
 日本が農業社会段階にはいったのは弥生式土器の時代で、紀元前200年から300年ごろのことだ。中国はすでに紀元前2000年代ごろから農業社会にはいっていたから、中国との差は歴然としていた。
 中国で国家が生まれるのは紀元前1400年ごろ、秦の始皇帝による天下統一が紀元前221年、これにたいし、日本で大和朝廷が誕生するのは西暦400年代で、日本の後発性は歴然としている。
 著者によれば、日本で古代専制体制が成立するのは645年の大化改新によるという。このときはじめて天皇は専制君主となり、公地公民制をしいて全国を支配した。
 中国と決定的に異なるのは、中国が分裂と統一を繰り返しながら、基本的に2000年間、アジア的専制を維持したのにたいし、日本は平安中期以後、しだいに封建制に移行したことである。
 徳川時代の日本は「鎖国」によって外部からのインパクトを弱め、伝統的な農業社会を保ってきた。しかし幕藩体制の困難は、まず財政面から生じ、さらに国防問題におよんだ。
 尊王攘夷論が生まれる。尊王論はいわば「古代化」で、攘夷論は伝統主義であって、尊王攘夷論として反幕思想を形づくった。だが、それは近代化とは無縁の考え方だった。
 明治維新とともに攘夷論は消えて開国論に移行し、「王政復古」が実現する。この時点では「近代化」は未知数だった。日本が伝統主義を切り捨てて、はっきりと近代化を採用するようになるのは、明治10年の西南戦争が終わってからだ、と著者はいう。
 日本が近代的な経済成長を開始するのは明治20年(1887年)からで、それまでは近代への移行期だった。重要なのは、その移行期に「上からの近代化」が推し進められたことだ。西洋の行政制度や経済制度が取り入れられ、インフラが整備された。その路線を敷いたのが大久保利通であり、さらにその後を継いだ伊藤博文や松方正義だった。
 上からの近代化は功を奏し、三井、三菱、住友などの財閥が育ち、日本経済は近代化の軌道に乗りはじめる。明治22年(1889年)には憲法が発布され、翌年には帝国議会が開会され、政治面での近代化も進んだ。
 しかし、日本の近代化は農村の窮乏化を引き起こした。農村は産業化の恩恵を受けず、近代化から取り残されていた。
 大正末期から昭和初期にかけ、農産物価格は下落し、農村はますます窮乏化する。それが日本ファシズムを発生させる源となった。日本の農村が貧困から解放されるには、戦後の農地改革と農業保護政策を待たなければならなかった。
 つづいて中国の場合をみていこう。
 中国は古代の大先進国だったが、近代になると西洋に遅れをとってしまった。しかも、近代化にさいしては、日本にも遅れをとった。その原因は中国の長期的停滞にある、と著者は指摘する。
 中国は基本的に、皇帝が支配する中央集権的統一国家を維持しつづけてきた。いっぽう、郷村では宗族集団による強力な自治・自衛制度が存続し、国家行政の浸透を防いできた。
 中国の民衆は国家にたいし高い要求水準をもたず、宗族システムのなかでいちおうの生活水準を満たしてきた。このことが東洋的停滞のメカニズムを生んできた、と著者はいう。
 とはいえ、さすがにいつまでも停滞のなかに眠ってはいられない。1911年の辛亥革命は、古代的な家産的権力を一挙に解体し、近代的な共和制を樹立しようとした。だが、いきなりの飛び越えは不可能だった。そこから大きな混乱が生じる。
 孫文のくわだてが挫折し、軍閥の袁世凱が中華民国の大総統になったことで、民主化と産業化への芽はつみとられた。その後は軍閥が割拠し、国内はいっそうの荒廃へと向かう。孫文の死後、蒋介石は北伐によって、中国を再統一しようとした。
 そこに毛沢東が登場する。毛沢東は都市のプロレタリアートよりも農民の階級闘争を重視する立場をとった。根拠地に軍を組織し、長征をおこなう過程で、中国共産党の主導権を握った。さらに、日本軍との戦いで疲弊し腐敗した国民党を破って、1949年に政権をとり、共産党指導下で一挙に社会主義を実現しようとした。
 だが、そのこころみは1958年にはじめた人民公社運動と大躍進が失敗することで挫折する。毛沢東はそれにもめげず、1966年に文化大革命を発動し、さらなる社会主義革命をめざそうとして、経済的大混乱を招いた。
 1978年の文革収束後に登場したのが、鄧小平による「四つの近代化」路線だった。これにより、中国はやっと近代化と産業化に向けての再スタートを切ることができた。
 米中関係と日中関係が改善され、それまでの「鎖国」状態にピリオドが打たれ、「経済特区」に先進諸国との合弁企業が設立された。こうして対外開放経済がスタートし、その後のめざましい経済発展がはじまる。
 ここで著者は日本と中国の比較をおこなっている。
 そのさい比較されるのは、伝統社会の構造、近代化にあたっての国内問題、近代化にあたっての国際問題である。
 まず伝統社会の構造についていうと、家族・親族に関しては、日本が一子相続と同族制度をとっていたのにたいし、中国は均分相続と宗族制度をとっていたのが大きなちがいだという。
 日本の同族がゆるやかな結合体で、権力分散的だったのにたいし、中国の宗族は緊密な内部結合と封鎖性を特徴としていた。
 そのことは伝統的な村落にもあてはまる。中国の郷村が氏族的団結による閉鎖性が強かったのにたいし、日本の村落はそれほど血縁意識が強くなく、どちらかというと中央にも開かれていたという。
 組織についてみても、中国の商人や職人のギルドは、日本よりもはるかに強い結束力をもっていた。
中国が皇帝とそれに直属する官僚によって支配され、巨大地主のもとに小作人が隷属していたのにたいし、日本では幕藩体制が成立し、村は比較的平等な自営農民によって運営されていた。
 また中国の国家が専制的な家産国家であるのにたいし、日本の国家は封建制をとり、中央集権国家ではなかった。しかし、日本では幕藩体制のもとでも天皇が存続し、明治維新後もその伝統的カリスマ性によって国民統合を保つことができた。
 近代化がはじまってからの国内事情についてみても、日本と中国の発展には大きなちがいがあった。
明治憲法はかならずしも家族の近代化をうながさなかったが、それでも1920年ごろには日本でも核家族化が進んでいる。中国でもかつての宗族の機能は弱まりつつあった。それでも日中ともに、西洋にくらべ、家族・親族の近代化はずっと遅れていた。
 日本では農村は近代化・産業化の恩恵をこうむらず、窮乏のまま取り残された。中国の場合は、はやくから地主と小作の両極分解が進んでいた。そのため農民反乱の伝統があり、毛沢東はそれを活用した。革命後、中国では地主がいなくなるが、人民公社が農民の勤労意欲を動機づけることはなかった。
 日本においては政治権力と結びつくかたちで資本家が登場し、産業化を担った。戦後は財閥が解体されるなかで、経済の近代化が促進され、高度経済成長が実現する。
 中国でも資本家は政治と結びつくなかで企業活動をおこなっていた。しかし、革命後、こうした資本家は買弁的ブルジョワジーとして排除され、社会主義のもと資本主義的な企業活動自体も否定されることになった。
 日本では初期産業化の進展とともに、階層間の格差が拡大した。農村では大地主と小作への両極分解が進み、都市では財閥が形成され、労働者階級が増えていった。
 日本と中国のもっとも大きなちがいは、日本の国内が統一されていたのにたいし、中国がほとんど分裂状態にあったことである。1949年の中華人民共和国成立後も、中国は文化大革命のもとで内乱がつづいた。そのことが中国の近代化を遅らせた、と著者はいう。
 最後に国際関係についてふれると、日本と中国は西洋先進国から外圧を受けたという面で、共通の経験をもっている。中国がアヘン戦争後、西洋列強の半植民地となったのにたいし、日本は開国によって上からの近代化をなしとげ、植民地化を免れる。そればかりか、日清・日露戦争後、アジアのなかの西洋としてふるまうようになった。
 しかし、すべては第二次世界大戦をへて大きく変化する。日本は明治以来の戦争体質を清算して貿易立国に転じ、中国は西洋先進国への従属から脱して、大国への道を歩みはじめた。
 日本と中国は、ともにアジアに位置する近代化への後発国として、多くの共通点をもつが、また同時に違いも大きい、と著者は指摘している。
 本書が出版されたのは1996年のことである。それ以来、日本と中国の関係も大きく変わった。社会変動論=近代化論の枠組みを採用するとすれば、日本と中国の現状はどうとらえればいいのだろうか。

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