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ポスト・モダン批判──富永健一『近代化の理論』を読む(7) [本]

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 著者は近代を前期と後期に分け、現在は近代後期にあたるととらえている。近代はまだつづいており、ポスト・モダンははじまっていない。その伝からいえば、多くのポスト・モダン論はたわごとだということになる。
 しかし、近代後期とはどんな時代なのか。
それを言いあらわす代表的概念が、ポスト工業社会と情報社会である。ポスト工業社会を唱えたのはダニエル・ベルで、情報社会はコンピューター工学に由来する。往々にしてごっちゃに論じられるポスト工業社会と情報社会という概念は、はっきりと区別されなければならないという。

[ポスト工業社会]
 そこで、まずポスト工業社会についてだ。
 Post-industrial society を、著者はポスト産業社会(あるいは脱産業社会)ではなく、ポスト工業社会としてとらえる。なぜなら、工業の時代が終わっても産業社会はつづいているからだ。
 ポスト工業社会の特徴は、(1)産業が第2次産業から第3次産業中心に移行したこと、(2)ブルーカラーにたいするホワイトカラーの優位、とりわけ専門・技術職が求められるようになったこと、(3)労働形態が経験知識中心から理論中心に移行したこと、(4)技術管理と技術評価が重視されるようになったこと、(5)意思決定に関して新たな知的技術が導入されるようになったこと、などだという。
 先進国において工業(第2次産業)が産業の中心でなくなったのは。オートメ化、ロボット化の進展によりブルーカラー労働者が不要になったこと、さらには工場が発展途上国に移転したなどによる。そのため、多くの労働者がサービス産業部門へと移行することになった。
そうした広い意味でのサービス産業、つまり第3次産業には、卸売や小売、飲食店、金融、保険、不動産、運輸、通信、公益事業、公務、保健、教育、研究など多岐な職種が含まる。

[情報社会]
ポスト工業社会は即情報社会を意味するわけではない。ポスト工業社会にたいし、情報社会は日本でコンピューター関係者によってつくられた概念だという。
著者の理解するところでは、「情報社会とはコンピューターと通信ネットワークとがつながれた情報インフラストラクチュアの普及が高度にすすんだ社会」を意味する。つまりパソコンとスマホの世界である。
 意外なことに、著者はこうした情報社会の進展に大きな危惧をいだいている。
 コンピューターは電気通信メディアで、その機能と広がりは無限であるようにみえるが、情報は経験にもとづく主観的内面をもつ知識とちがい、一方的で瞬間的なものだという。
情報社会化は知識の生産と普及を助けるけれども、はたして人が考えることに役立っているかどうかは疑問だ、と著者はいう。コンピューターの役割は情報によって人間をコントロールすることにあって、人が主観的内面において考えることをむしろ弱めてしまうのではないか。

[ポスト・モダン]
 ポスト・モダン、すなわちポスト近代化という思想潮流にも、著者は批判的だ。
 ポスト・モダンとは、近代は終わり、次の時代がきているという主張をさす。社会主義や共産主義がもっていた歴史的展望は、20世紀の現実の進展とともに、すっかり失われてしまった。
それでは、いったいポスト・モダンとは何なのか。消費と遊び、ボーダーレス化などといっても、それが近代と異なるまったく新しいものとは思えない、と著者はいう。
 近代の成果を資本主義、民主主義、核家族、合理主義に代表させるとすれば、ポスト・モダンはこれらにたいし、いかなる展望を提示しようとしているのか。
ポスト・モダン論者は資本主義のあとについても、民主主義のあとについても、何も語っていない。まさか、社会主義や専制主義のほうがいいとはいえないだろう。
核家族が解体して、まったくの個人化の時代になるとも思えない。合理主義にたいして非合理主義が正しいとも思えない。
近代が揺らいでいるのはたしかだが、それをもって、近代が終わりつつあると主張するのは誇張にほかならない、と著者はいう。
 それにもかかわらず、ポスト・モダン論がはやっているのは、反近代イデオロギーが一部の共感を呼んでいるからで、日本ではそれが「西洋化」の排斥、アジアへの回帰、ナショナリズムと結びついているところに、問題の根深さがある。
 そこで、著者はこう述べている。

〈私自身は近代化論者ですから、近代が終焉すべきであるとか、近代は超克されねばならないなどとは毛頭考えません。私は近代化と産業化を、西洋文明としてよりは普遍文明として見ていますので、明治の日本の指導者たちが近代化の目的のためにいちはやく西洋化を採用したことを肯定的に評価してきました。〉

 日本はもうナショナリズムを必要とせず、これから必要とするのは「ナショナリズムであるよりは、アジアの観点からするリージョナリズム」だ、と著者は述べている。
だが、現状はあきらかにそうした言説から後退し、東アジアでは、むしろ国家間の対立が深まっているようにみえる。

[高齢化社会]
 最後に高齢化社会の問題がつけ加えられている。他人事(ひとごと)ではないので、紹介しておく。
 高齢化社会が到来したのは、近代化とともに、出産と死亡のパターンが多産多死から少産少死へと変化したためだ。
少産の理由は、かつてのような家族内労働に子どもを必要としなくなったこと、教育水準の上昇により育児のコストが高まったこと、女性の晩婚化が進んだこと、産児調節により出産が抑制されるようになったことなど。少死の理由は医療の進歩、公衆衛生の改善、栄養がよくなったことなどが挙げられる。
日本は1970年ごろから高齢化社会にはいった。1970年の高齢化率(総人口に占める65歳以上の比率)は7.1%、それが2020年には28.7%になった(本書が出版された1995年ころはまだ14.6%だった)。
 高齢化は意図しない社会変動で、それ自体として機能的に望ましいものではない、と著者はいう。近代化にともなう家族と組織の分離、核家族化、女性の地位の上昇、家族の解体傾向が少子化を促進する要因になったことはまちがいない。これは近代化がもたらした予期せぬ結果である。
 こうして、高齢化が必然的に進むことになるが、問題は高齢化社会のなかで高齢者がどのような役割をはたすようになるかだという。
家父長制の時代とちがって、核家族のなかでは高齢者のはたす役割は次第に縮小して、最後は消滅してしまう。企業においても、年功序列制は次第に見直されている。
 だが、長寿社会はけっして悪いことばかりではない、と著者はいう。昔にくらべ、元気な高齢者が多くなった。長い経験が社会に役立つこともある。また定年後に地域社会で何らかの役割をはたすことも期待される。さまざまなボランティア活動に参加することも有益だ。
 そして、今後は国と自治体が、金銭面、施設面だけでなく精神面でも高齢者対策に取り組んでいくことが重要だと指摘している。
 かつてのように、どんどんハード面での近代化を進めればよいという時代は終わったのかもしれない。いまはハードよりハートである。

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