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治安維持法改正──美濃部達吉遠望(53) [美濃部達吉遠望]

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 初の普通選挙が実施されてから、ひと月もたたない1928年(昭和3年)3月15日、治安維持法違反容疑で日本共産党関係者にたいする一斉検挙がおこなわれた。
 検挙されたのは約1600人。このとき名簿上の共産党員は409人だったから、そのシンパも根こそぎ逮捕されたことになる。そのうち起訴されたのは488人だった。意外と起訴者が少なかったため、田中義一内閣は治安維持法の改正と強化をもくろむことになる。
 日本共産党は1922年(大正11年)7月15日に結成された(4月24日に準備委員会が発足)。背景にはいうまでもなく日本の貧困とロシア革命の成功がある。主要メンバーは堺利彦、山川均、近藤栄蔵(アメリカ亡命中の片山潜の代理人)、荒畑寒村などだった。
 この第1次共産党は関東大震災をへて分裂し、1924年4月半ばに解党した。再建されるのは1926年12月である。一時は理論面で福本和夫が大きな影響力をもった。だが、前衛党建設優先の福本イズムはコミンテルンから「左翼小児病」と批判され、委員長の徳田球一も辞任する。
 そして、1927年12月にはブハーリンの執筆した「1927年テーゼ」がだされ、それにもとづき、共産党は佐野学委員長のもとで、ふたたび活発な組織活動を開始する。その矢先に「3・15事件」が勃発し、共産党員やそのシンパと目される学生や労働者が一斉に逮捕されるのである。
 この事件が解禁になって新聞に報道されたのは1928年4月11日のことである。
 美濃部達吉は4月30日の『帝国大学新聞』に「暗黒政治の時代」と題する時評のなかで、こう記している。

〈今や共産党事件の爆発に際し、政府はにわかに思想の圧迫に努めている。しかしすべて思想は思想のみの力をもっては社会上にいかなる勢力をも発揮しうべきものではない。思想が実際に社会上の勢力を得るのは、社会上の事象においてその思想の実現を可能ならしむべき原因が存在する場合に限る。もし今日において我が尊貴なる国体に対し、万一にも多少の危惧が存するとすれば、それは思想自身にあるよりも、その思想の実現を誘導する社会事象に存する。〉

 達吉はあくまでも思想の自由を尊重する。共産党を支持しているわけではない。しかし、思想の自由があり、さまざまな意見が自由に表明されてこそ、問題の所在があきらかになり、それを解決する方法も考案される。暴力による思想の圧殺は、政治の責任の放棄でもある。
 田中義一のめざすのが、力の政治、排除の政治であることを達吉は見抜いていた。それは治安維持内閣だった。
 田中内閣は治安維持法のさらなる強化をめざし、4月23日から開かれた特別議会に、治安維持法改正案を提出した。しかし、会期が2週間と短かく、与野党ほぼ同数のなかで、法案は審議未了、廃案となる。すると、政府は帝国議会閉会後にほぼ同じ改正案を緊急勅令案として枢密院に提出した。枢密院は審議の末、この緊急勅令案を了承する。こうして、議会を通すことなく、6月29日に改正治安維持法が公布された。
 達吉はこうした政府の姿勢を「現内閣の他の多くの悪政の上にさらに一つの悪政を加うるもので、それは憲法のじゅうりんであり、はなはだしき権力の濫用である」と批判した。
 さらに枢密院が政府の提出した緊急勅令案をついに可決するにいたったのは、やむをえなかったにせよ、若槻内閣のときとは、あまりにちがっていると評した。「一年前には内閣の倒壊をも顧みず、緊急勅令を否決し、一年の後には内閣倒壊の結果を避くるために、これを可決するのは、その態度において、前後矛盾を免れないことは余りにも明白であって、世論が往々枢密院の政党化を非難するのは必ずしも無理ではない」
 6月29日に公布され、即日施行された改正治安維持法の変更点は3点だった。
 ひとつは従来の治安維持法が、国体の変革と私有財産の否認を目的とする結社を組織し、これに加入した者を、懲役10年以下の懲役または禁固としていたのにたいし、今回の改正では、国体の変革と私有財産の否認を分け、国体の変革を目的として結社を組織し、あるいはそれに従事した者の最高刑を死刑に引き上げていた。
 もうひとつの改正点は、従来の法律が結社を組織した者と結社に加入した者を同様に扱っていたのを、結社の組織者を特に極刑と処すと定めたことである。
 さらに、今回の改正では、結社の組織者と加入者だけではなく、結社の目的遂行に手を貸した者にも刑を科すとされた。目的遂行罪が新設されたのである。これにより、共産党員だけではなく、共産党のシンパ、あるいは共産主義に賛同する者にも、治安維持法違反の網が広げられることになった。
 政府が議会でいったん廃案になった法案にこだわり、さほど緊急とも思えないのに、議会を通さず枢密院によって緊急勅令として改正治安維持法を公布したことは、その内容の苛烈さを含めて、多くの批判を生んだ。
 達吉が治安維持法の厳罰化を批判するのは、おもに2点からだった。
 ひとつは、いま求められているのは、経済組織や政治の腐敗にたいする対策であるのに、そのような対策をとらず、いたずらに思想を弾圧するのはまちがっているという点だ。

〈なかんずく現内閣の組織せられてより以来、地方行政において、植民地行政において、鉄道行政において、特殊銀行の管理において、選挙干渉において、言論の圧迫において、暴力団の利用において、議員の誘惑[買収工作]において、閣僚大臣の選定において、世論は一般に内閣が常に政権を私利または党利のために濫用することの跡著しく、思想の悪化を助成したこと、ほとんど言語に絶するものあることを憤慨している。第一に必要なるは為政者自身の反省である。〉

 もうひとつは、今回の改正が刑法の内乱罪の規定にくらべて、あまりにも厳罰に傾いているという点だった。内乱罪でも死刑に処しうるのは、その首謀者だけで、暴動に関与した者でもせいぜい3年以下の禁固に処されるだけである。それも実際に暴動を起こした場合にかぎられている。

〈しかるにいまだ内乱を起こすにも至らず、その予備または陰謀をなしたのでもなく、ただある不逞(ふてい)なる信念のもとに結社を組織した者は、その役員その他の指導者まで死刑または無期もしくは5年以上の懲役、もしくは禁固に処せられるのである。同一の目的をもってして、現に内乱を起こした者は罪比較的に軽く、結社をなしたにとどまる者がそれよりもはるかに罪が重いのである。暴力をもって朝憲を紊乱(ぶんらん)せんとする者よりも、思想的の結社をなす者を重く罰するのが、いかにして刑の権衡(けんこう[バランス])を得たものと言いえようか。〉

 田中内閣はみずからの失政や腐敗に目をつぶり、思想統制を強化しようとしていること、さらに実際の内乱よりも思想的結社組織のほうが罪が重いことを達吉は批判した。
 もっとも緊急勅令は暫定立法であって、はじめから次の議会で承諾を得ることを条件として発布される。もし次の議会で緊急勅令が承諾を得られなければ、法律はとうぜん効力を失う。しかし、ほんらい議会で審議されるべき法案が枢密院による緊急勅令のかたちで公布されたこと自体に達吉は不条理を感じていた。
 にもかかわらず、政府の多数派工作により、次の通常議会で治安維持法の改正は承諾されるにいたった(1929年1月)。
 そのかん、政府は大逆事件以降1道3府7県に存在した内務省管轄の特別高等警察(特高)を全国に設置し、大幅な増員をおこなった。さらに司法省も思想犯を取り締まる思想検事を主要都市に配置した。
 1929年(昭和4年)4月16日には、ふたたび共産党にたいする一斉検挙が実施され、全国で約700人が逮捕された。これにより共産党は市川正一、鍋山貞親、三田村四郎、佐野学(6月に上海で検挙)などの幹部を失い、決定的な打撃を受ける。
 ちなみにイギリスでは共産党は違法ではなく、あくまでも思想の自由が守られていた。ドイツ共産党は1933年にアドルフ・ヒトラーが政権を掌握するまで大きな勢力を保っていた。アメリカでも共産党は1950年代まで存続した(現在は復活)。
 しかし、戦前の日本では国体にたいする批判そのものが許されず、特高と思想検事による共産党取り締まりは徹底していた。治安維持法が制定されたころから、日本では天皇の神格化がはじまっていたといえるだろう。
 田中義一内閣の力と排除の政治は国内だけにとどまらなかった。その空気は関東軍にも伝導し、満洲某重大事件(張作霖爆殺事件)が引き起こされることになる。

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