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新憲法をめぐる葛藤──美濃部達吉遠望(94) [美濃部達吉遠望]

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 枢密院で美濃部達吉が憲法改正草案、もっとはっきり言えば新憲法草案の審議を拒否したのは、法理的にいえば、それが憲法改正を規定した明治憲法第73条の対象とはなりえないと判断したためである。
 だが、その奥には感情的な理由もひそんでいる。GHQのつくる新憲法を認めたくなかったのである。
 とくに気に入らなかったのが、天皇を「象徴」とする規定だった。
 達吉は明治憲法を大きく変えなくても、軍国主義から切り離して、天皇を民主主義と結びつけることは可能だと考えていた。
 いや、むしろ天皇があってこそ、民主主義が可能なのだと思っていた。民主主義はむしろ一君万民、君民統治という明治の精神に合致するとみていたのだ。
 達吉はあくまでも天皇中心主義者である。尊皇精神を打ち砕き、天皇を象徴に祭りあげるような新憲法は認めたくないというのが、かれのホンネだったにちがいない。
「天皇治下の民主政」という論考では、こう書いている。

〈筆者は、我が国に民主主義の政治を実現するためには、憲法上天皇統治の制度を支持することが、あえて妨げないのみならず、むしろ絶対に必要であり、万一にもこれを廃止するがごとき事態が生ずるならば、民主政治の実を挙ぐることは恐らくは不可能であり、結局民主制はただ名のみにとどまり、その実はナチスまたはファッショのごとき独裁制に陥るのほかはないであろうと信ずるものである。〉

 戦後直後は、天皇の扱いがどうなるかがわからない状態がしばらくつづいていた。
 マッカーサー自身は天皇を「すべての日本人を統合するシンボル」ととらえ、天皇を東京裁判にかけようなどとは毛頭思ってもいなかったが、それでもしばらくのあいだは、天皇制が廃止されるのではないかという懸念が世間にもただよっていた。
「国民主権」の声が広がるなか、達吉は断乎として天皇制の擁護を訴えた。
「主権が国民に属すということは、哲学的観念的な思想の表現たるにとどまり、必ずしも実際に国民多数の意思によって行わるることを意味するのではない」。実際に政治を動かすのは少数者である。そのため、民主主義には独裁制への危険がともなう。
 いっぽう、いかなる国家も国家の中心を必要とする。日本で、そうした国家の中心となってきたのは天皇以外のなにものでもなく、天皇が存在したからこそ、この国の統一が長く保たれてきたのだ。
 国民主権の名による民主主義は、国家の中心がないかぎり、絶え間ない分裂をもたらし、その結果として独裁を招く危険性が強い。
 そうだとするなら、天皇統治の大権は維持すべきである。
 天皇制のもとでこそ民主主義は実現できる。ふたたび軍国主義におちいるかもしれないというのならば、イギリス流の議院内閣制を確立し、公民教育を一新して、従来のような服従道徳教育をあらため、国民に政治的自覚と責任ある批判精神をいだかせるようにすうにすればいいのだ。
 強引なこじつけかもしれないが、達吉は天皇の大権を維持する立場を捨てきれなかった。
 6月8日の昭和天皇が臨席した枢密院本会議で、達吉は起立せず、たったひとり政府の憲法改正(実質は新憲法)草案に賛成しない態度を示した。
 その後、帝国議会では6月下旬から憲法改正案の審議がはじまる。ちなみに議会が国会と呼ばれるようになるのは、11月3日に新憲法が公布されたあとのことだ。
 議会で憲法改正案審議がつづいているころ、達吉は雑誌「法律新報」8月号に「改正憲法と内閣制度」と題する一文を寄せた。
 明治憲法と改正憲法(新憲法)とのもっとも大きなちがいは、天皇と内閣の関係にある、と達吉はいう。
 明治憲法のもとでは内閣は天皇の内閣であり、すべての国務大臣は天皇によって任命されていた。ところが改正草案では、内閣総理大臣は国会の指名するところとなり、内閣は政治的には国会の機関となり、天皇はそれを「認証」するだけのことになってしまった。
 天皇の機関だった行政機関も、改正案では内閣の機関に変えられようとしている。最高裁判所の長官も判事も内閣が指名し、天皇はそれを認証するにすぎない。

〈改正憲法草案は、天皇の御地位をはじめ国家の一般構成の上にこのごとき急激な大変革を加えんとするもので、天皇を単に装飾的儀礼的地位にとどめ、国務に関してはわずかに二三の形式的権限を認めたほかには、国家統治の大権はすべて天皇から離脱し、立法権は国会に、行政権は内閣に、司法権は裁判所にそれぞれ所属し、あたかも米国憲法におけるがとごく三権相対立し、しかして行政権の首脳たる内閣総理大臣にはあたかも大統領のごとき地位を有せしめんとするのである。〉

 ただし、アメリカ憲法との大きなちがいは、日本がイギリスのように議院内閣制をとることだった。
 達吉は天皇を象徴と規定する憲法改正草案に釈然としないものを感じている。だが、象徴天皇制には反対だとはっきり言うわけにはいかなかった。
 天皇から統治大権を奪うこうした大変革が、一般国民の心理や感情に適合するかは疑問であり、「私はこのごとき急激な変革には多大の危惧を抱く」と述べるにとどまっている。
 達吉が象徴天皇制に反対であることは、9月22日に「夕刊京都」に掲載されたアンケートへの回答でもうかがえる。
「天皇を国民に含めるという政府の説明をどうお考えになりますか」という問いにたいして、達吉は「もし天皇が国民の中に含まれるとすれば、それはもはや天皇ではなくして一般国民と平等の地位にある一個人に過ぎないものとならねばならぬ」と答えている。
 政府は国民主権という概念を説明するときに、天皇を国民のなかに含め、天皇にも国民と同様に主権があるというわけのわからない主張をしていた。達吉からすれば、これは詭弁にほかならず、天皇が国民と同等などということはありえない。
 そもそも改正憲法草案とはどういうものなのか。
 達吉はアンケートに答える。

〈要するに改正憲法草案は従来の憲法における君主主権主義を根本的に変革して国民主権主義を国家組織の根底となさんとするものであることは明瞭疑いをいれないところで、これをもってある程度にまで君主主義を持続するもののごとくに弁明するのは、虚偽をもって国民を欺瞞せんとするものである。〉

 君主主権主義を根底からくつがえす改正憲法(新憲法)草案には反対なのである。
 アンケートには「今度の変革によって国体はもう改変せられているとお考えになりますか」という問いがもうひとつあった。
 これには、こう回答している。

〈改正憲法草案は立法、行政、司法のほとんど全部に通じて天皇の国家統治の大権を除き去り、限られた数個の形式的権限の外には単に国家の象徴たるにとどめようとしているのであって、その我が従来の国体を根本的に変革せんとするものであることは、さらに疑いを容れないところである。これをもって国体の変更にあらずというがごときは明白な欺瞞というのほかはない。〉

 国体が改変されることはまちがいない。それなのに政府は国体が変更されるわけではないなどと詭弁を弄している。この回答には達吉の怒りのようなものすら感じられた。
 10月29日、議会での審議と修正を受けて、枢密院本会議で憲法改正案は全員一致で可決承認された。だが、この本会議に達吉の姿はなかった。
 11月3日、日本国憲法が公布される。
 ところが、そのころから、憲法学の大家である達吉に、出版社からの新憲法の解説依頼が増えてくるのだ。
 新憲法など認めないとそれを拒否することもできた。だが、達吉がそれを引き受けたのは、新憲法を細かく点検し、その内容を国民の前に明らかにすることが、ひとりの専門家としての義務ではないかと考えるようになったからである。
 11月から翌年(1947年)2月にかけ、雑誌での連載がはじまる。「自治研究」には、「新憲法に於ける国民の権利義務」、「法律時報」には「新憲法逐条解説」を執筆する。
 その過程で、達吉の考え方に大きな変化が訪れる。それまで新憲法を忌避していたのに、この憲法は悪くないと思うようになるのである。
 とりわけ、国民の権利が拡大されたことが大きな成果だと考えられた。
 明治憲法でも自由権は保障されていた。だが、それは法治主義を基調としており、法律さえあれば、自由権はいくらでも制限することができた。
 国民はいかなる法律の定めにも絶対に服従しなければならない。その典型が治安維持法で、加えて行政には強い命令権があった。兵役義務も大きな負担となっていた。
 これにたいし、新憲法では侵すことのできないものとして、国民の権利が認められていた。国民の権利を侵害するような立法は、それ自体認められない。さらに、行政は法律にもとづかない命令を発することを禁じられていた。
 達吉は新憲法おける国民の権利を強調する。国民は永久不可侵の権利として基本的人権を有する。
 平等主義も新憲法の特徴だった。男女平等の選挙法が導入され、華族制度は廃止された。公務員は政党や一部の階級に奉仕するのではなく、国民全体に奉仕する義務を有するものとされた。
 教育権や勤労権も強められた。失業は解消されなければならない。
さらに「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」。国家は国民の生活権を保障する義務を負う。
 信教の自由、出版の自由、思想の自由も確保された。
 国家と宗教は分離され、国家神道は解体された。
 以前は政府の国策に反する思想を持つ者は取り締まりの対象となったが、新憲法のもとではいかなる思想も各人の自由にゆだねられ、国家がこれを抑圧し迫害を加えることは許されなくなった。
 国民に義務がないわけではない。権利と義務は表裏一体の関係にある。国民は憲法が保障する自由と権利を不断の努力によって保持する義務がある。さらに、権利を濫用してはならず、権利はこれを公共の福祉のために利用しなければならない。
 さらに、国民の義務としては、子女に普通教育を受けさせる義務、勤労の義務、児童を酷使しない義務、納税の義務がある。
 いずれにせよ、新憲法で定められた、こうした国民の権利義務は明治憲法にくらべ国民に大きな幸福をもたらすものだ。達吉もそう思わざるをえなかった。
 そして、こうした新憲法の見直しを通じて、象徴天皇制にたいする達吉の考え方も徐々に変わってくるのである。

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