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冷戦の終わり(2)──大世紀末パレード(19) [大世紀末パレード]

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 引きつづき、青野利彦の『冷戦史』を読んでみる。
 冷戦の終わりは米ソ、ヨーロッパ、東アジア、第三世界で、さまざまなかたちをとった、と青野は記している。順にみていこう。
 1985年3月、ソ連ではミハイル・ゴルバチョフが新指導者の座についた。ゴルバチョフはペレストロイカ(再構築)とグラスノスチ(情報公開)というスローガンを唱えて、社会主義体制の改革をはかり、「新思考外交」によって、東西両陣営の「共通安全保障」を確立しようとした。
 そのころ、アメリカのレーガン大統領もソ連との関係修復を模索しはじめていた。核軍縮に向けて、米ソ首脳会談が何度も開かれる。85年11月にはジュネーブ、86年10月にはレイキャビク、87年12月にはワシントンで会談がもたれ、ついにINF(中距離核戦力)全廃条約が調印される。
 その後、88年5月にモスクワ、12月にニューヨークで両国首脳会談が開かれたが、それ以上の軍縮交渉は行き詰まり、戦略兵器削減交渉(START)までにはいたらなかった。アメリカ政府内部にはソ連指導部にたいする不信感が依然として根強かった、と青野は記している。
 ゴルバチョフの考え方は西欧的な社会民主主義に近かった。国際関係では脱イデオロギーと「人類共通の価値の至上性」を訴え、国内では議会を重視する民主化に取り組んでいた。だが、ソ連国内の経済状況が悪化するにつれ、ゴルバチョフの政治的立場は保守派と改革派の板挟みになっていく。そうしたなか、ゴルバチョフは外交で成果を挙げることで、みずからの指導力を強化したいと考えていた。
 レーガンを継いで、アメリカ新大統領に就任したブッシュは、ゴルバチョフ政権に懸念をいだいていた。ブッシュは89年7月に東欧を訪問したあと、12月になってようやく地中海のマルタでゴルバチョフとの会談に臨んだ。会談最終日の記者会見で、両国首脳は冷戦終結を宣言したとされる。だが、青野によれば、冷戦終結に言及したのはゴルバチョフだけで、ブッシュはそのことに触れなかったという。
 それでも80年代後半、ヨーロッパでは東西分断克服に向けての大きな動きがあった。
 87年3月、イギリスのサッチャー首相は訪ソしてゴルバチョフと会談し、ペレストロイカにたいする支持を表明した。さらに87年から88年にかけ、ゴルバチョフはフランスのミッテラン大統領、スペインのゴンサレス首相、西ドイツのコール首相などとも会い、関係を深めていた。
 89年春、経済危機とストライキのさなかにあったポーランドでは、政府と自主管理労組「連帯」とのあいだで円卓交渉が開始される。その結果、6月4日に自由選挙がおこなわれることになり、「連帯」側が圧倒的な勝利を収めた。9月には非共産党員のタデウシュ・マゾヴィエツキが首相に就任する。
 89年にはハンガリー、チェコスロヴァキア、ルーマニア、ブルガリアなどでも、共産党一党独裁体制から複数政党制への移行が、ほぼ平和裏に達成された。ソ連は89年の東欧民主化革命に軍事介入することなく、ワルシャワ条約機構は事実上無効化された。
 東ドイツでも10月にホーネッカー政権が倒れ、11月9日に国境の開放が宣言され、ベルリンの壁が崩壊した。11月28日、西ドイツのコール首相は「10項目提案」を発表、ドイツ再統一の流れが加速される。
東西ドイツが統一されるのは90年10月のことだ。NATOが東方に拡大される。いっぽう翌91年7月にはワルシャワ条約機構が正式に解体された。
 ソ連では1990年3月にゴルバチョフが初代大統領に就任した。しかし、市場経済への移行は進まず、経済危機がつづいていた。改革派と保守派、双方からの攻撃が激しくなる。アゼルバイジャンでは民族紛争が激化し、リトアニアが独立を宣言した。まもなく、エストニアとラトヴィアもこれにつづく。
 90年8月2日、サダム・フセインが率いるイラク軍がクウェートに侵攻する。アメリカのブッシュ政権はイラクを非難、ソ連のゴルバチョフもこれに同調した。国連安保理決議678号が採択され、これにもとづきアメリカは91年1月にイラク攻撃を開始し、湾岸戦争がはじまった。
 西側に大幅譲歩したにもかかわらず、ドイツを除き、ソ連に経済援助をおこなう国はなかった。そのため、ソ連では経済危機がますます深刻になり、民族問題も悪化、ゴルバチョフの政治的立場があやうくなってくる。
 91年8月、ソ連でクーデターが発生する。だが、クーデターは3日で失敗、軟禁されていたゴルバチョフは救出されるが、政治的主導権はクーデターを粉砕したロシア大統領エリツィンの側に移る。11月にはソ連共産党の活動が禁止され、ソ連を構成していたさまざまな共和国が独立を表明した。こうして12月25日にゴルバチョフはソ連大統領を辞任し、翌日、ソ連邦は消滅した。

 このかん東アジアの状況はどう推移していたのだろう。
 80年代を通じて、日米中の3国は連携を保っていた。台湾問題があったものの、台湾海峡の現状は維持されていた。
 朝鮮戦争に参戦した中国はもともと同盟国北朝鮮と密接な関係を保っていたが、80年代後半には韓国との貿易額が急速に膨らんでいた。韓国との国交樹立が模索されていた。
 91年9月、韓国と北朝鮮は同時に国際連盟に加入する。韓国がソ連と国交を樹立するのは88年9月のソウル五輪後の90年9月のことだ。これにつづき、92年8月には中国と韓国のあいだで国交が樹立された。
 韓ソ、韓中の国交回復がなされるなかで、北朝鮮は孤立していく。北朝鮮は日米両国との関係改善を模索するが、うまくいかない。賠償問題と拉致問題が日本との関係のネックとなり、核開発疑惑がアメリカとの関係改善をはばんだ。
 80年代後半で重要なのは、60年代はじめからつづいていた中ソ関係が正常化されたことである。80年代前半から中国は「独立自主の対外政策」を模索しはじめていたが、ゴルバチョフの登場とともに、両国関係の改善が急速に進む。
 中ソ武力衝突の原因となった国境問題が解決され、ソ連軍のアフガニスタン撤退、ベトナムのカンボジア撤退、モンゴルからのソ連軍撤退も決まって、89年5月にはゴルバチョフ訪中が実現し、中ソ関係が正常化された。
 ゴルバチョフ訪中のさなか、北京では学生や知識人による自由化運動が盛りあがっていた。それはまもなく民主化運動に転じ、人びとは天安門広場を占拠して、デモをくり広げた。中国政府はゴルバチョフ帰国後の6月4日に人民解放軍を投入し、天安門広場のデモ隊を武力鎮圧した。
 日本とソ連のあいだでは、北方領土問題が残っていた。日本は北方領土問題の解決と日ソ平和条約の締結を結びつけて考えていた。だが、両国の立場のちがいは北方領土問題の解決を困難とし、ゴルバチョフ時代も日ソ関係の改善はみられなかった。
 冷戦末期の東アジアでは、複雑な二国関係の相互作用が、分断の持続につながった、と青野は指摘する。

〈70年代末の時点で対立していた東アジア諸国間関係のうち、中ソ、韓ソ、韓中はそれぞれ、92年までには関係正常化に成功した。しかし、その一方で、冷戦期に固定化された日ソ、日中、米朝間に存在する領土や核をめぐる問題は未解決のままとなった。さらには冷戦以前、もしくは冷戦初期に内戦として始まり、米中ソの介入によって固定化した台湾海峡や朝鮮半島の政治的分断もそのまま残された。〉

「二つのコリア」も台湾問題も残ったままだった。さらにソ連が消滅したあと、日米中の枠組みは見直しを迫られるようになった。
 世界では、ほかにも残された問題が数多くあった。
 冷戦が終わるとともに、中米のニカラグアでは内戦が終結し、南アフリカではアパルトヘイト体制に終止符が打たれ、新政権が発足した。しかし、アフガニスタンやアンゴラでは内戦がつづいた。超大国の撤退により、第三世界でも冷戦は終結したが、「冷戦の負の遺産は非常に大きく、その爪痕は今も各地に残っている」と青野は記している。
 冷戦終結後、世界は宥和の方向に向かわなかった。
ロシアはヨーロッパ秩序に統合されることを嫌い、EUやNATOと対峙する道を選んだ。冷戦末期に米ソが締結したINF全廃条約やSTART(戦略兵器削減交渉)は風前の灯といってよい状況にある。
 中国は「独立自主の対外政策」を選び、アメリカとの対決姿勢を強めている。孤立した北朝鮮は核開発を進める方向に舵を切った。
 アフガニスタンでは混乱がつづいている。中東は相変わらず世界の火薬庫となっている。第三世界も欧米の国際秩序にしたがったわけではなかった。
 冷戦の終わりは、国際秩序をめぐる次の戦いに直結していたのだ。

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