商品論──メンガー『一般理論経済学』を読む(7) [商品世界論ノート]
メンガー『一般理論経済学』は商品論にはいっている。
はじめにメンガーは、孤立経済、つまり原始社会では、財がつくられるのは、自己消費(あるいは贈与)のためであって、交換目的のためではないと書いている。
原始社会でも分業がなかったわけではない。だが、財の需求はかぎられていた。過剰や欠乏が生じるときに他の共同体と交易がなされることもあるが、それはあくまでも偶発的なものだったという。
文化が発達するにつれ、自分のいる場所では産出しない財への需求が生まれてくる。金や鉄などの金属もそうした財のひとつだ。これを手に入れるには征服もしくは交換による以外にない。いずれにせよ交易が広がっていく。
特別の財をつくる職人も登場するだろう。当初、それは注文による生産で、交易を目的としているわけではなかった。
だが、経済活動が活発になると、しだいに交換を目的として財が生産されるようになる。これが商品だ、とメンガーはいう。
商品が商品たりうるのは、その財のもつ性質によるのではない。あくまでも、その財が交換されるということによる。したがって、交換(売買)することをやめてしまえば、その財はたちまち商品ではなくなる。
〈したがって、商品としての性格は……一般に財と経済活動を行なう主体との間の一時的な関係にすぎない。ある種の財は、その所持者たちによって、経済活動を行なう他の主体の財との交換のために定立されている。最初の占有から最後の占有へと移る間の、しばしば多数の人の手によって媒介される、中間期においては、われわれはそれを「商品」と名づける。〉
つまり、商品とは生産と消費の中間期において交換(売買)される財をいうのであって、すでに最終的消費者の手中にある場合は、その財は商品ではなくて使用財になっている、とメンガーはいう。
商品は販売可能な財でなければならない。
販売可能ということは、何を意味するのだろうか。
メンガーは商品の販売可能性の条件を探る。むしろ、商品の販売可能性は限定されているというのがおもしろい。
ここでは4つの制限が挙げられている。
(1)商品の販売可能性は買う人によって制限されている。だれもがその商品を買うわけではない。商品を買う人の範囲はおのずから決まっている。
〈特定商品の販売を見込みうる人々の範囲、言い換えれば商品の販売可能性の人間的な限界は、この商品への需求を有する人々の数が少なければ少ないほど狭くなり、またこれらの人々に対象をかぎっても、法律、風習や偏見によってそれを消費することを妨げられている人、あるいはまた商品の価格によってそれを入手することから経済的に締め出される人の数が多くなればなるほど狭められるのである。〉
商品が買われる範囲は、その商品を買いたいと思っている人の数によって決まる。商品を買いたいと思う人の数が少なければ、その商品はさほど売れない。法律や風習、偏見が商品の購買を妨げている場合もある。また商品の価格があまりにも高ければ、商品が売れる量はおのずとかぎられてくる。商品を買えない人の数が増えてくる。
したがって、そこからは、逆に商品の販売可能性を広げるには、どうしたらよいかという方策も導かれる。
何といっても、商品を求める人を増やすことだ。法律や風習、偏見などがあれば、そうした人為的制限は除去されなければならない。価格を下げて、商品を買える人を増やすこともだいじだろう。
また、人口が増えることや、商品の認知度が高まること、住民の経済レベルが上がることも商品の販売量拡大につながる、とメンガーはいう。
だが、商品の販売可能性は、人の数だけによって制限されるわけではない。
(2)商品の販売可能性は地域によって制限される。逆に場所的に拘束されることが少なくなればなるほど商品の販売可能性は広がる。
たとえば毛皮などの防寒着は熱帯では売れないだろう。カザフ語の小説も世界じゅうではあまり売れないだろう。しかし、Tシャツや車、テレビなら世界じゅうで売れるかもしれない。
輸送コストや輸入禁止措置なども、商品の販売を妨げる要因となりうる。だが、何といっても経済的要因が大きい。交易に利益がなければ、商品の販売は閉ざされてしまう。
(3)商品の販売可能性は量によっても制限される。商品の需要には限界があり、商品の販売量はそれ以上になることはない。しかし、住民の裕福度の上昇が、消費量の拡大をもたらすことは、じゅうぶんにありうる。
(4)商品の販売可能性は時間によっても制限される。それは財が時間的特性を持つ場合である。たとえば、腐りやすい商品は、すぐに販売されなければならない。しかし、財の保存性が高まったり、保管費が減少したりすれば、そうした時間的制限は拡大されることになる。
以上の点を踏まえていうと、商品の販売可能性には、人的、空間的、量的、時間的限界(制約)があることがわかる。しかし、その制約が緩和されるなら、商品の販売がそれだけ容易になることはあきらかだ。
商品の運動は、そうしたさまざまの制約を突破することに向けられてきた。
ここで、メンガーは商品の本性をもう一度問いなおしている。
商品は交換を目的とする経済財だが、それはどんな価格でも売却されるわけではなく、一般的な経済状態に釣りあう価格で、はじめて販売される。とはいえ、もし商品にたいする需求が減れば、商品の価格は水準より低下するし、逆に需求が増えれば、水準より上昇する。
商品の販売可能性を考える場合は、その財がコンスタントに入荷するか、それとも不規則にしか入荷しないかで、価格と販売に大きなちがいがでてくる。
交易はふつう経済的な利害にもとづいておこなわれるが、時に非経済的な動機でおこなわれることがある。その場合は、価格形成がしばしば歪められる。錯誤と無知も財の交易にマイナスの影響をもたらす。正しい情報が価格形成を経済的にし、商品の販売可能性を上昇させる。
メンガーは商品世界が正しく成長するうえで、商人階級が果たす役割の重要性を、次のように指摘する。
ひとつは商人階級の有する高度な専門知識が、国民経済に経済的利益をもたらすことである。
さらに重要なのは商品階級による交易の組織化と取引の恒常化である。
市場、定期市、取引所、競売などの存在が、商品の価格形成を適切なものとする。市場が生まれれば、生産物の販売可能性も高まり、生産にも安定性がもたらされる。市場における価格形成は、消費者にも商品を経済的価格で買う機会を与える。
市場では先を見越した投機もありうるが、メンガーは投機をむしろ肯定的にとらえている。
〈投機は、たしかに自分たちの独自の利害を追求することに発するものではあるが、飽和した市場にはけ口を与え、逆に貧血気味の市場には商品を補給し、またそれによって、経済的な価格から遠ざかりすぎている価格を抑制するという経済上の使命を果たすのである。〉
メンガーはもう一度最後に、流通しやすい商品と流通しにくい商品について述べている。
たとえば金などの貴金属なら、だれが採取しようとすぐに流通するけれども、だれがつくったかわからない食品や装飾品などは、しばしば流通にためらいが生じる場合がある。価格がはっきりと示されていない商品も、また買うことがためらわれる。
とりわけ次の場合は、商品の販売可能性はいちじるしく損なわれるとメンガーはいう。
〈その販売可能性が狭い範囲の人々に制限され、その販売地域が狭く、その保存期間が短い商品、あるいはまたその保存にいちじるしい経済的犠牲をともなう商品、つねにただ狭く限定された数量しか市場にもちだすことができず、その価格が十分には規制されていない商品等々も、きわめて狭い限界内であるがともかく一定の限界内で、ある程度の販売可能性を示すこともあるであろう──けれどもそれらの商品は、流通性をもつまでにはいたらない。〉
翻訳に問題があるのかもしれないが、何となくわかればよい。説明する必要はないだろう。
だが、商品世界が安定的に広がっていくことが、生産者にも消費者にも利益をもたらすとメンガーが信じていたことはまちがいない。
メンガーが見ていたのは19世紀末から20世紀末にかけての商品世界である。日本でいえば、夏目漱石の小説にでてくる時代背景に近い。それから100年、商品世界はさまがわりして、経済がどこかでビッグバンをおこしたきらいすらある。
それはたしかに人類に多くの恩恵をもたらした。だが、その商品世界に囲まれながらも苦しむ人は多い。人を財として扱う商品世界は、人の生活様式をも変えたのである。
2024-05-14 06:19
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