SSブログ

樋田毅『記者襲撃』を読む ──大世紀末パレード(22) [大世紀末パレード]

81c+vWgSa6L._AC_UL320_.jpg

〈1987年5月3日に兵庫県西宮市の朝日新聞阪神支局が散弾銃を持った目出し帽の男に襲われた。当時29歳の小尻知博記者が射殺され、当時42歳の犬飼兵衛記者が重傷を負った。この事件を含め、約3年4カ月の間に計8件起きた「赤報隊」による襲撃・脅迫事件は、2003年3月にすべて公訴時効となった。記者が国内で政治テロによって殺された事件は、日本の言論史上、ほかにない。〉

 本書「まえがき」冒頭に記されたこの一節が、事件の全容を示している。著者は、朝日新聞在職中も定年退職後も、30年にわたり、この事件を追いつづけてきた。犯人はつかまっていない。犯行声明らしきものは出されているが、はっきりした動機はわからない。
 朝日新聞の支局が襲われ、記者が殺されたというできごとだけが人びとの記憶に強く刻まれることになった。
 事件は赤報隊を名乗る2、3人のグループによる犯行だ、と著者はみている。1987年から90年にかけ、赤報隊は記者殺害前後に8件の事件をおこしている。

[1987年]
 1月24日 朝日新聞東京本社の壁を散弾銃で銃撃
 5月3日  朝日新聞阪神支局を襲撃、記者殺害
 9月24日 名古屋市の朝日新聞単身者寮で銃弾を発射
[1988年]
 3月11日 朝日新聞静岡支局に時限式爆発物を仕掛ける
 3月11日 中曽根康弘前首相に脅迫状、竹下登現首相にも脅迫状
 8月10日 リクルート前会長の江副浩正邸を銃撃
[1990年]
 5月17日 名古屋の愛知韓国人会館に灯油をまき火をつける

 6通の声明文と2通の脅迫状が残されている。
 そこからは、かれらの主張の一端がうかがえる。

 戦後、日本では日本が否定されつづけてきた。反日世論を育成してきたマスコミに厳罰を加えなければならない。
 特に、朝日は悪質だ。すべての朝日社員に死刑を言いわたす。わが隊の処刑は42年間つもりつもった日本民族のうらみの表れである。
 朝日は言論の自由を守れというが、朝日の言論の自由は、連合国の反日宣伝の自由である。
 英霊は裏切り者の中曽根をのろっている。竹下が靖国を参拝しなかったら、処刑リストに名前を載せる。
 リクルートコスモスは反日朝日に金を出して、反日活動をした。反日朝日や毎日に広告を出す企業があれば、反日企業として処罰する。
 ロタイグ(盧泰愚)は来るな。くれば反日的な在日韓国人をさいごの一人まで処刑する。

 ざっと、こんな調子である。

 著者は犯人を探すため、新右翼と呼ばれるグループとその周辺をあたり、直接接触をこころみた。まさに命がけの取材だったと思われる。
 著者によると、日本の右翼は6つのグループにわけられるという。

(1)伝統右翼。
(2)新右翼。
(3)任侠右翼。
(4)論壇右翼。
(5)宗教右翼。
(6)草の根(ネット)右翼。

 多く説明する必要はないだろう。伝統右翼は戦前の右翼団体を継承している。反左翼の立場から戦後は親米の立場をとるようになった。これにたいし、新右翼は三島由紀夫自決に刺激を受けて結成されたグループで、反米の立場を貫く。任侠右翼は暴力団といってよい。宗教右翼は「生長の家」などに代表されるが、統一教会(現世界平和統一過程連合)などもこれに含まれる。
 分類はあくまでも分類であって、その関係はからみあっている。団体どうしの対立もあるし、あくまでも孤立している個人や団体もある。その変遷はめまぐるしい。
 それぞれの主張には微妙なちがいはある。しかし、基本的に共通するのは左翼撲滅(反共主義)、愛国主義、皇室擁護、自主憲法制定の姿勢だろう。政治団体としての「日本会議」もこの立場をとっている。
 朝日新聞襲撃事件の犯人を追うため、著者は右翼のなかでも直接行動主義をとる「新右翼」に焦点をしぼり、何人もの関係者と会って、慎重に取材をつづけた。
 新右翼のひとつの特徴は新左翼に対抗する武闘派だということだ。「大東亜戦争」をアジア解放のための戦いととらえ、日本を敗北に追いこんだアメリカやソ連と戦うという考え方をもっている。アメリカの占領によってつくられた戦後日本のあり方は根本的にまちがっていると考える。そうした点で、5月3日の憲法記念日に朝日新聞阪神支局を襲撃した赤報隊も新右翼の系列に属すると考えられた。
 著者は赤報隊の影を追って、東北や関西にも足を延ばしている。統一戦線義勇軍なる団体とその関係者があやしいとにらんだが、その先の消息はとだえていた。長らく消息不明となっていた人物とも接触するが、犯人だとの確証は得られなかった。
 民族派の武闘派、野村秋介は1993年10月20日に朝日新聞東京本社役員室で、中江利忠社長と面会中に拳銃自殺した。野村が立ち上げた政治団体「風の会」を、山藤章二が『週刊朝日』の「ブラックアングル」で「虱の党」と揶揄したことに抗議する行動だった。
 新右翼団体「一水会」の代表、鈴木邦男はその後、『週刊SPA!』に連載中のコラムで、野村秋介の思い出に触れ、野村が赤報隊の連中と何度か会って、無差別に朝日の末端記者をやるのはよくないと話していたことを紹介している。だが、その真偽のほどはわからなかった。
 あやしそうな人物はほかにもいた。著者はかれらとも会って、その考え方を聞いているが、言論とテロをめぐる議論は堂々巡りするばかりだった。はっきりしたアリバイがないなかで、警察もけっきょく確たる証拠をつかめなかった。
 取材の過程で、すでに統一教会と勝共連合の名前が浮上していた(本書ではα教会、α連合となっている)。
 朝日新聞は中曽根政権が進める国家秘密法に反対する論陣を張っていたが、勝共連合は86年11月から87年1月にかけて、朝日新聞東京本社前に街宣車をくり出し、朝日を批判する街頭演説をくり返していた。『朝日ジャーナル』には、不気味な内容の脅迫状も送られてきた。
 一連の朝日新聞襲撃事件に統一教会・勝共連合がかかわっていた証拠はない。だが、信者の集会では、それをにおわせる指導者の発言もあったという。かぎりなくあやしかった。
 いっぽう、右翼の側からは、統一教会と勝共連合を警戒する向きもあった。反共をかかげていても、その心は天皇陛下ではなく、文鮮明教祖に向いている、と疑っていたからである。ともあれ連帯しながらも、右翼の側は統一教会を恐ろしい組織だとみていたのだ。
 統一教会は朝日新聞をサタンとみなして、敵愾心をいだいていた。統一教会が全国で26の系列銃砲店をもっていたのは事実である。秘密軍事部隊も存在した、と著者は書いている。
 統一教会が阪神支局襲撃事件にかかわっているのではないかという疑惑が浮上する。だが、確証はとれなかった。それ以上に、統一教会と赤報隊の思想が根本的なところで食いちがっているのが問題だった。
 88年の2月か3月に、統一教会の新聞「世界日報」の社長らと朝日新聞編集局の幹部が会食し、その後、5月にも両者の話しあいがもたれた。双方の批判を控えるという一種の「手打ち」がおこなわれたとみてよい。組織防衛の論理がはたらいたのだろう。そのことも、著者ははっきりと記している。
 2003年3月に赤報隊事件は公訴時効を迎えた。
「[戦後]いくつもの未解決の重大事件があるが、その中で最も深刻な影響を残しているのが、『赤報隊』による一連の事件ではないかと思う」と、著者は書いている。
 じっさい、この事件をひとつの契機とするかのように、「反日」という言葉が広がり、保守の論調が強まり、特定秘密保護法が成立し、日本会議の影響力が増し、国防力の強化が進み、ナショナリズムが世をおおうようになった。
「小尻記者に向けられた銃弾は、われわれ一人ひとりに向けられたものだという言い方もできる」。いまジャーナリストには覚悟と矜持が求められる、と著者はいう。
 ジャーナリストにかぎるまい。ひとつの無念を受けとめること、だれにとっても、それが新規の出発点になるのだから。

nice!(6)  コメント(0) 

nice! 6

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント