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鈴木直『アディクションと金融資本主義の精神』を読む(1) [商品世界論ノート]

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 通読したわけではない。読みはじめたところだ。最近は何もかもすぐ忘れてしまうので、メモしておかないと、前に何が書いてあったかもわからなくなってしまう。そこで読んだところから、とりあえず印象に残った部分を記録しておこうというわけだ。
 あくまでも自分用のメモだ。全部読み終えてから、全体像を示すのが書評のほんらいのあり方だと思うが、最近は読書のペースも落ちている。自然、だらだらした断片的メモがつづくことになる。
 御託はともかく、まず本書のタイトルになっているアディクション(addiction)についてだ。アディクションとは何か。手元の辞書を引くと、addictionとは「常用癖、中毒、(悪癖に)おぼれること、耽溺(たんでき)」とある。
 著者によると、アディクションは次のように定義される。

〈アディクションとは、自発的選択がもたらす短期的報酬によって動機づけられたオペラント行動を、しばしばみずからの意志に反して反復的に継続する状態をさす。〉

 なかなか、むずかしい。
 オペラント(operant)には自発的という意味がある。オペラント行動は心理学用語らしい。かつて経験した何らかの快楽を求めて、みずからおこす行動を指す。そのオペラント行動が止まらなくなるのがアディクションだ。
 のっけからややこしくなってしまったが、植木等の歌の文句でいえば、要するに「わかっちゃいるけど、やめられねぇ♪」状態になるのがアディクションだという。
 古典的にいえば、身勝手な男たちのその領域は「飲む、打つ、買う」、下世話にいえば、酒、女、博打だった。そして男たちはだいたいにおいて、酒、女、博打に夢中になり、その結果、何もかもすっからかんの状態になる。
 とはいえ、植木等が陽気にこの歌を歌っていた時代は、高度成長期で、将来も明るかった。どんなにばかをしていても、先は何とかなりそうだった。世間も寛容だった。
 だが、次第に「わかっちゃいるけど、やめられねぇ♪」ではすまされない時代がやってくる。
 サラリーマンは「気楽な稼業ときたもんだ」と笑っていられたのは昔の話で、いまやサラリーマンの世界もきびしくなった。グローバル化と産業構造の変化、競争の激化、合理化とリストラ、正規と非正規の分断、挙げ句の果てに賃金カットときている。気楽な稼業はどこへやら。
 そうしたなか、アルコールや薬物、ギャンブルやゲームへの過度の依存が社会問題になってくる。学校や職場でのいじめやハラスメント、若者のひきこもりも増えている。社会全体にスマホやネットへの依存が広がっていった。
 これらをすべてアディクションという精神病理現象として片づけるのは簡単だ。だが、じつはアディクションは特異な病理現象ではなく、あらゆる領域に広がっているのではないかというのが、著者の疑問である。
 それを象徴するのが、資本主義のカジノ化であり、リーマン・ショックなるものをきっかけとする国際金融危機だった。
 為替や株の世界はギャンブルと似ている。もし世界じゅうがこのギャンブルに取りつかれているとすれば、その先には何が起こるのだろう。

〈人々の脳を乗っ取ってしまうアディクションと、資本主義社会を乗っ取ってしまう金融危機。この両者は、本当にまったく無縁の現象なのか。そこには何かしら共通のメカニズムが、あるいは隠れた共犯関係が存在しているのではないか。そもそも資本主義は、アディクションと非常に親和性の高い社会経済体制なのではないか。〉

 それが著者の発する問いである。
 アディクションは「嗜癖」と訳されることが多い。しかし、著者があえて嗜癖といわず、カタカナ語のアディクションを採用したのは、アディクションが特異な病理現象だけで収まらず、現代の資本主義をおおう社会的風潮、いわば社会的な行動様式になっていると考えたからだろう。
 本書のタイトル『アディクションと金融資本主義の精神』が、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムと資本主義の精神』に呼応していることにも注目したい。
 ウェーバーは、合理的で勤勉なプロテスタントの精神が資本主義を支えていることを指摘した。だが、著者は現代の金融資本主義の背景に、神や自然を恐れぬアディクションの存在をとらえているようにみえる。
 難解な本だ。どこまでついていけるかわからないが、ゆっくり読んでみたい。

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