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鈴木直『アディクションと金融資本主義の精神』を読む(3) [商品世界論ノート]

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 第1章に戻って、読み進めていく。
 アディクションがタバコ、アヘン、アルコールなどの常習をさすことばとして使われるようになったのは18世紀以降のことだ。もちろん、それ以前にも、こうした悪癖はみられたが、これが常習化したのは、対象となる商品が容易に手にはいるようになってからだろう。
 そして、そうした常習癖が病気として認識されるようになったのは19世紀後半からであり、さらにアディクションという名称が定着したのは20世紀末になってからだという。
 だが、アディクションは精神に作用する薬物やアルコールなどへの「物質依存」だけをさすわけではない。スマホゲームやギャンブルなどの「行動嗜癖」もアディクションととらえるべきだろう。
すると、「物質依存」と「行動嗜癖」はつながっているのか、それともぜんぜん別物なのかという問題が生じる。
 これをめぐっては医学界でも、さまざまな論争があるが、前にも示したように、著者はアディクションをより幅広く定義している。

〈アディクションとは、自発的選択がもたらす短期的報酬によって動機づけられたオペラント行動を、しばしばみずからの意志に反して、反復的に継続する状態をさす。〉

 アディクションにはさまざまな要因が重なっていることがわかる。
「自発的選択」は「選択の自由」がある場所で、はじめて発生する。目の前には何でも選ぶことができる商品世界が広がっている。そこから、人はみずからを陶酔させる商品を自発的に選び取る。
 そして、その選択は学習によって習慣づけられた行動、すなわちオペラント行動を引き起こす。
 オペラント行動を促すのは「短期的報酬」、すなわち予測される眼前の快感である。
 こんなふうにアディクションを定義すれば、薬物やアルコールなどへの物質依存とゲームやギャンブルの行動嗜癖が連続性をもち、同じ構造をもっていることになる。
 さらに著者は「分かっちゃいるけどやめられない」こと、「どうにもとまらない」ことを、アディクションの特徴として挙げている。つまり自己制御ができなくなる現象がアディクションなのだ。
 ぼく自身は、こうしたアディクションを商品世界特有の現象としてとらえたい誘惑にかられている。
 人はなぜアディクションにおちいるのだろうか。
 動物とちがい人間は理性によって感情(衝動)を抑えることができるし、抑えるべきだと啓蒙主義者は考えた。ところが、啓蒙主義者によるこの人間理解は、現実の人間行動を説明できない。というのも、人間はしばしば動物の衝動に備わっていた自己調整機能(安定化装置)を逸脱して、アディクション的行動に走るからだ。
 いっぽう功利主義者は人が自分の幸福を最大化しようとするのはとうぜんであって、アディクションもひとつの選択だと考える。もしそれが社会に害を与えるならば、課税を強化したり、厳罰を与えたりして、それを抑える対策をとればいいという。だが、それでおさまらないのがアディクションなのだ。
 制御できずに「どうにもとまらなくなる」のがアディクションだ。欲求を抑えきれなくて、欲求のとりこになってしまう。
 その欲求は学習によって条件づけられたものだ。それが病的強迫症になったときにアディクション行動が発生する。
「無意識的土台に刻まれたこの『学習された連関』は、想像以上に私たちの行動と思考を拘束している」と、著者はいう。
 人間はだれもが生まれつき無意識的認知機能をもっている。人間の認知機能は中枢神経系の生理学的機能によって担われているが、そこには眼前の事象を説明し、さらに予見する強固なアルゴリズム(学習機能)がはたらいている。
 人が学ぶのは、行動して、何かとぶつかり、「あ、そうか」と、ひらめくことを通じてだという。その結果が因果連関の発見につながり、自発的なくり返し行動を生んでいく。
 しかし、そうだとしても、人はなぜギャンブル中毒(アディクション)におちいるのだろうか。
 ギャンブルの醍醐味は五感を超えた第六感にある、と著者はいう。

〈合理的計算では予測不能な偶然性を、競争相手よりも的確に読みとる勘を働かせること。これがギャンブラーの腕の見せどころだ。〉

 これにおカネが報酬としてつけ加わると、認知機能がさらに刺激されて、欲求を抑えることができなくなってしまう。
 ここで著者はギャンブル性がもっとも高いとされるルーレットのケースをが取りあげている。ルーレットといえば、真っ先に思い浮かぶのが、みずからもギャンブラーだったドストエフスキーが書いた『賭博者』という小説だ。
『賭博者』でドストエフスキーがえがくのは、ルーレット賭博で財産をなくし、破滅していく人たちのことだ。
 ルーレットでは過去のデータはまったく役に立たず、じつは何の予測もできない。にもかかわらず、ルーレットに賭ける人びとは、ここには何か隠された法則性があると思いこんで、自分の予測した場所に持ち金を賭ける。
 ドストエフスキーは、はじめルーレットなどばかばかしいと相手にしなかった金持ちのおばあさんの姿をえがく。彼女は、たまたま大当たりをとったことから、ルーレットにのめりこみ、最後はすっかり財産をなくしてしまうのだ。
 著者はいう。

〈ギャンブルの魅力を生み出している最初の一歩は、おそらくお金自体ではないだろう。ギャンブルの魅力はむしろ、偶然に支配されている不確定な未来について、自分が的確な予測をなしえたことへの報酬感情にある〉

 一回の成功体験が、心のうちにドーパミンを生みだす擬合理的装置をつくってしまう。そして、その装置はいったん築かれると、他人から説得されても、なかなか修正されない強固なものとなる。

〈ともすれば、私たちは、アディクションが、理性的意志の弱さゆえに性や食などの基本欲求の誘惑に溺れる現象だと思い込みがちだ。そしてギャンブルもまた、金銭欲という基本欲求に溺れる現象だと、簡単に考えてしまう。たしかに性欲、食欲、金銭欲の満足は、短期的報酬としてアディクションを強化しただろう。しかし、アディクションの形成には、私たちが考えている以上に、擬合理的装置に支配された認知機能が深く関与している。〉

 人間の脳には合理的装置だけではなく擬合理的装置が備わっている。擬合理的装置にはインスピレーションと歓喜をもたらす機能が備わっているだけではない。それは超自然的なスピリチュアリティとも結びついている。さらに、それはしばしば頑固な固着性を生みだす。
 合理的装置はそうした擬合理的装置を理不尽なものとして排除したがる。だが、じつは「理性自身もまた本能体系の内側に位置しており、そのごく一部をなす不完全な機能に過ぎない」と、著者はいう。
合理的判断なるものが事実の検証を無視して、しばしば暴走する現実をわれわれはみてきた。

〈擬合理的装置は、仮説的真理を浮動の真理と見なすように、たえず合理的装置に囁きかけている。その意味で、合理的装置は、その自己理解とは裏腹に、引き続き、擬合理的装置の強い影響下にある。〉

 アディクションをもたらすのは、人間のもつ擬合理的装置にほかならない。そのためアディクションにおちいる可能性はだれにもある。
 それでは、アディクションを抑えることはできるのだろうか。著者の問いはそんなふうにつづいている。
 ここから連想されるのは、資本主義が合理的装置のようにみえて、じつは擬合理的装置そのものなのではないかという疑いである。

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