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鈴木直『アディクションと金融資本主義の精神』を読む(4) [商品世界論ノート]

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 いろいろ頭を整理するのに時間がかかったため、しばらくぶりでこの本に戻ってきた。何だか気が抜けてしまったみたいだが、気を取り戻して、第3章と第4章を読んでみる。
 著者はこんなふうに書いている。
 オペラント行動が必ずしもアディクションになるわけではない。どこかで飽きがくる場合が多いからである。外からの抑止が効くこともある。さらに抑制が内部化されることもある。それでも人間の性癖には、アディクションめいたものが含まれている。
 人間は世代から世代へと学ぶべきことを引き継いでいく。その知識は膨大なものであり、長い教育期間を必要とする。そのエラーとチェックの長期的な学習過程を経て、人間はようやく自身を社会のなかに組み込んでいく。
 こうした絶えざる習練は、過度の飲酒やギャンブルにみられるアディクションとは異なる。これまでも反社会的なアデイクションにはさまざまな規制がかけられてきた。しかし、アディクションが消滅することはない。むしろ「アディクションが生じやすい社会は、イノベーションが生じやすい社会でもあり、イノベーションが生じやすい社会は、アディクションが生じやすい社会でもある」と著者は書いている。
 アディクションは商品世界の展開(イノベーション)と併走しているといえるだろう。そのことは、ネット社会で、さまざまなゲームやギャンブルが登場していることからも明らかだ。
 著者はここから大きな構図をえがいて、人類史がどのように発展してきたかをふり返ってみようとしている。
 人間にはアディクション行動がつきものだ。すると、それを抑制するために、ルールをつくる動きが生じる。ルールがつくられると、人はこれに従い、適応していかなければならない。
 しかし、これとは逆に、アディクションがルールをはみだして、イノベーションを生みだすことがある。
 それが世界への新たな介入をもたらす。適応と介入という規定はわかりにくいが、人類史はルール(規制)とイノベーション(突破)のくり返しによって発展してきたと著者は理解している。
 その第一の革命(介入)が古代の農業革命であり、第二の革命(介入)が近代の産業革命だった。そして、現代はさらに第三の革命がおころうとしているという。
 農業革命は食料の増大と人口爆発をもたらした。すると、これまでの親族を中心とした社会から、身分制社会が生まれ、それがさらに王国や帝国へと発展し、これまでの部族神話に代わって宗教が人びとの生活をコントロールしていくことになる。
 だが、農業社会において、身分と格差が固定されるにつれ、それにたいする不満が次第に蓄積するようになり、それを封じ込めることができなくなると、ついに近代への移行がはじまる。
 近代化をうながしたのは、交易のグローバル化、貨幣経済の浸透、科学技術の進歩だった。こうした動きがはじまったのは16世紀のヨーロッパにおいてである。さらに19世紀にいたると産業革命が本格化し、ヨーロッパの影響力は世界じゅうにおよんでいくことになる。
 近代化は生産力の拡大と人口爆発をもたらしただけではない。新たな社会構成体としての市民社会と、それを支える哲学を生みだした。近代化の原点は市民革命と産業革命であり、それをへて本格的な資本主義の時代がはじまる。
 日本では、市民社会の形成はしばしば無視され、日本は西欧とはちがうという論理によって切り捨てられがちだ。しかし、近代化のもうひとつの側面である市民革命には、資本主義のもたらす野放図なアディクションを抑制する哲学が下敷きになっている。それを再確認することはきわめて重要だ、と著者は主張する。
 こうして第4章の「市民社会の正当化理論」が展開される。
 王の主権は神によって付与されたものとされていた。これにたいして市民革命を成就するには、それを正当化する哲学が必要だった。その先駆けとなったのが、ホッブズ(1588〜1679)の社会契約説だったという。
 ホッブズは国家を神による秩序ではなく、人民の相互契約による秩序としてとらえなおした。
 自然状態から社会状態への移行は、神の摂理によるものではない。生得の自然権をもつ人間は、「万人の万人に対する戦争」におちいりやすい。だが、こうした恒常的な戦争状態を克服するには、たがいに契約を結んで、強力な主権をもつ国家を設立し、万人がそれに従うようにしなければならない、とホッブズは考えた。
 しかし、ホッブズの論証には、いったん相互承認されて樹立された政権が、ふたたび専制化していく危険性が残されていた。その歯止めをつくったのがロック(1632〜1704)だという。
 ロックは国家主権が人民の自由権を侵害する可能性に気づいていた。そのため行政権と立法権の分立を唱えるとともに、人民の抵抗権や革命権を認めている。さらに、ロックは生存権とともに所有権の保障を強調する。国家は人間の生存権と所有権を守るためにこそ存在するとされた。こうして国家の専制化に歯止めがかけられる。
 だが、市民社会が成立するには、生存権と所有権だけではじゅうぶんではない。市民のあいだで道徳規範が確立されなければならない、とカントはいう。さらにアダム・スミスは自由で安全で秩序ある市民社会が生まれるには、商工業の発達と自由な交易が必要だと主張した。
 スミスは商業精神は戦争と両立せず、諸民族の和解につながると考えていたという。
 近代化はイコール産業化ではない。「近代化の実現のためには、規範的な次元での広義の市民革命が避けられない」と著者はいう。つまり、市民社会があってはじめてアディクションに陥らない産業化が実現できるのだ。そうでなければ、権力欲と貨幣欲が世をおおってしまうことになる。
 だが、市民革命としての近代のプロジェクトは挫折してしまったという。その原因を探るために著者が持ちだすのが、ヘーゲルとゲーテの場合だ。
 ここでは「選択の自由」と「操作的介入」が問われることになる。

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