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鈴木直『アディクションと金融資本主義の精神』を読む(5) [商品世界論ノート]

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 著者によると「選択の自由」と「操作的介入」と「短期的報酬」はいずれも産業化を促進するファクターだが、こうしたファクターのある社会は、同時にアディクション的行動を生みやすいという。
 そこでまず「選択の自由」とは何かを考えてみる。ここで取りあげられるのはフリードマンではない。ヘーゲルだ。
 ヘーゲルは自由の哲学者だということを、もう一度思い起こしてみよう。
 ヘーゲルによれば、自由は意志をもつ主体のみに与えられている。そして、人間の前には、さまざまな選択が与えられており、それにたいする選択の自由がある。だが、人はいつかは決心し、物事を決定しなければならない。具体的選択に踏みださなければならない。
 ひとつの選択はもうひとつの選択を切り捨てることでもある。あとになって、その選択のまちがいに気づくこともありうるが、それでも、人はどこかで選択をしなければならない。
 このとき、どれでも選べるというのは自由ではなく、恣意にすぎないとヘーゲルはいう。

〈これに対してヘーゲルが自由の真理とみなすのは、形式的な普遍性と内容的な特殊性が、現実存在に組み込まれた個別性の中で一体化しうるような自由のあり方だった。〉

 じつに、むずかしい。何をいわんとしているのだろうか。
 1980年代以降、ミルトン・フリードマンが掲げた「選択の自由」の拡大は、ヘーゲルにいわせれば「選択の恣意」の拡大にすぎなかった。現代人はかつてないほど「選択の自由」を手にしている。しかし、選択が多すぎ、情報が多すぎる社会が、自由な社会とはかぎらない。
 ヘーゲル自身はこう書いている。

〈普通の人間は、恣意的に行動することが許されている時に、自分が自由だと信じる。しかし他ならぬこの恣意の内にこそ、彼が自由ではないことが存するのである。〉

 恣意にもとづく選択は、どちらかを選べばどちらかを捨てるという矛盾のうえに成り立っている。選ばされているのだ。だから、結果的に後悔することも多い。
 これにたいし、真の自由とは何か。
 それは単に偶然の欲求を満たすことではない。やりたいことが何でもできる状態をさすのでもない。現実に根拠をもつ「即自的かつ対自的に自由な意志」こそが自由なのだ、とヘーゲルはいう。
 これもむずかしい。ヘーゲルのいう自由とは、生きたいように生きるということかもしれない。だが、そうした自由を求めるのは自分だけだけではなく、だれもが同じである。
 そのことを自他ともに相互に認めあうことがだいじなのだ。こうしてたがいの自由を認めあう社会をつくっていくことが目標となる。そうしてできあがった社会が市民社会となる。
 ところが、現実の世界史は、かならずしも、そうした方向に進まなかった。恣意的な欲求が野放図に広がるいっぽうで、管理社会の動きも強まっていった。その隙間を縫うように、アディクション行動が浸透していく。どうしてなのだろうか。
 そこで、次に方向を変えて論じられるのが、「操作的介入」についてである。近代は科学技術による「操作的介入」の時代でもあった。
操作的介入というのは、対象を細分化して、その対象に操作(実験)を加え、対象を都合のいいように加工させていく近代の知のあり方を指している。この場合、対象とは自然に存在する客体をさす。
 ゲーテは自然にたいする人間のこうした介入に強く反対した。
「人間の五感を通じたありのままの観察から、不自然な設定や人為的な装置による介入実験への転換に、ゲーテは自然に対するある種の冒瀆を感じとっていた」という。
 ゲーテが重視したのは、あくまでも五感をとおしての自然の観察である。それによって、人間ははじめて自分と自然との一体感を感じることができる。ところが、ニュートン以降の近代科学は、自然を実験対象とし、自然から可能なかぎりのものを収奪しようとしてきた。

〈ゲーテにとっての科学の起点は、あくまでも自然の側からの自己開示でなければならなかった。科学は、自然が形態的な変容と自己表現を通じて開示する姿を、磨かれた感性と知性によって注意深く観察しなければならない。人間が主観的な思い込みや支配欲を抑制し、自然の声に静かに耳を澄ます時、自然は初めて、自らの秘密のヴェールを脱ぎ捨てるだろう。〉

 だが、五感によって自然を観察するというゲーテの科学観をよそに、近代の科学は自然観察より介入実験を重視し、ますます対象を目的化する方向に進んでいった。
 科学に対するゲーテの考え方は時代遅れのロマン主義にすぎないのだろうか。著者はそうではないという。
 ゲーテは第1に「無機的な自然と有機的な自然を相互補完的で一体的なものとして捉えていた」。
 第2に「観察者としての人間と、観察対象としての自然を一体的なものとして捉えていた」。
 そして第3に「科学を特定の意図と結びついた道具的手段とみなすことに抵抗していた」。
 言い換えれば、ゲーテは自然と人間は一体とみて、自然を人間の快適な生活に奉仕するための加工素材とみるようなことはなかったのだ。
 とはいえ、科学実験にもとづく技術的応用は19世紀以来、さまざまな発明品と工業製品を生みだし、産業と人びとの生活を一変させてきたことも事実である。
 新たな工業製品の開発によって、産業は巨額の利益を得るとともに、人びとも生活の利便性に恵まれた。たとえば化学肥料は農業の生産性を向上させたし、予防接種は感染症に大きな効果を発揮した。自動車もそうかもしれない。
 だが、こうした人類の成功体験はいまや見直されるべきだ、と著者はいう。そのさいに、ヘーゲルとゲーテのことばがよみがえってくるのだ。
 産業社会のもたらした成果は、同時に自然環境や生態系の破壊と原発事故などにみられるような巨大リスクをもたらした。
「迫りつつある生態系の危機の中で、人類は今、過去二百年の主観的理性の勝利行進が本当に成功体験であったのかどうかを問い直しつつある」
 さらにいえば、著者は、この200年の絶えざる近代化が、じつは一種のアディクション行動だったのではないか、という疑問を投げかけているといってよい。
 2011年にケンブリッジ大学のダスグプタ教授が発表したダスグプタ・レビューが紹介されている。
 このレビューは、経済指標としてのGDPの有効性を明確に批判し、資本を人工資本、人的資本、自然資本からなる富のストックとしてとらえている。
 人工資本はますます増えつづけているのに、自然資本はますます減りつづけている。はたして人類の資本(富)が全体として増えているかどうかは疑問である。現代農業は生物多様性の犠牲のうえに成り立っているのだ。
 レビューでは、さらに、産業化としての近代化自体が、資本と人口の一点集中をめざすアディクション行動にほかならなかったことが明らかにされているという。

〈産業革命としての近代化は、実験という操作的介入を通じて、かつての自然形而上学を解体し、主観的理性による自然の道具的支配を限界点近くまで推進してきた。しかし、それによって傷ついた生態系は、近代のおけるこの理性のあり方への反省を強く迫っている。〉

 人類はこれからの方向を考えなおす転換点にいるとみてもよいのではないか。

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