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『万物の黎明』を読む(3) [商品世界ファイル]

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 人類の起源は神話に彩られているが、それは後世の物語だ、と著者たちは書いています。先史時代の存在が確認されたのは、1858年にイギリスのデヴォン州の洞窟で、明らかに人がつくったとしか思えない石斧が発見されたときからでした。
 1980年代には「ミトコンドリア・イヴ」が話題になりました。このミトコンドリアをもつ12万年前(16万年±4万年)の女性こそが現代人の共通の祖先とされます。しかし、人類の生物学的祖先はほかにも数多く存在したはずです。初期人類の頭蓋骨や、かれらが用いた打製石器はいまでも時折発見されますが、かれらがどのような姿をし、どのような生活をしていたかは、ほとんどわかっていないといいます。
「おそらく確実にいえるのは、祖先をたどれば、われわれはみなアフリカ人だということのみである」
 およそ20万年前に誕生したホモ・サピエンスがアフリカを出たのは、およそ7万年前で、4万5000年前にヨーロッパに到着したと推定されます。
ヨーロッパでは約4万年前に先行人類であるネアンデルタール人が絶滅します。ホモ・サピエンスはネアンデルタール人と共生し、まれに交配していました。ネアンデルタール人が絶滅した理由は、氷床が移動し、ヨーロッパが苛酷な環境に見舞われたためだ、と著者たちはみています。
 考古学では、5万年前から1万5000年前の時代を後期旧石器時代と呼んでいます。気候的にみれば氷期です。そのころの人類ははたして平等主義的な狩猟採集民のバンド(小集団)を組んでいたのでしょうか。これには異論もでているようです。すでにヒエラルキーがあったのではないか。
 ヨーロッパでは3万年ほど前の、個人または小集団の埋葬場がいくつもみつかっています。遺体は目立つ姿勢で置かれ、豪華な装飾品で飾られています。なかには王族と見紛うものもありました。
さらに、トルコ南東部のギョベクリ・テペと呼ばれる場所では、200本以上の石柱がみつかり、ここには石造神殿があったのではないかといわれています。
 ギョベクリ・テペだけではありません。ヨーロッパ東部でも2万5000年前から1万2000年ほど前の大きなモニュメントが見つかっており、そこではマンモスの肉が保存されたと思われる形跡があります。そうした集落は、琥珀や貝殻、動物の毛皮を交易する中心地となっていました。
 こうした遺跡をみると、農耕のはじまる数千年前から、人類社会は権力や身分、階級によって分断されていたのではないかという説もでるようになりました。
だが、そうした説はあやまりだ、と著者たちは断言します。身分制や国家のきざしは見当たらないといいます。
 狩猟採集民を劣った人類だとする偏見はいまだに根強いし、初期の人類はチンパンジーに近いという見方をする人もいます。
しかし、かれらが現代人と同じように「懐疑的で、想像力に富み、思慮深く、批判的分析ができる」人たちであったことは明らかだ、と著者はいいます。もっとも、その社会では、変わり者がリーダーに選ばれることもまれではなかったし、異端児の預言者もいたといいます。
 レヴィストロースは初期の人類がわれわれと同様の知をもっていることを認識した数少ない人類学者でした。かれはブラジルの少数民族ナンビクワラと接し、その社会がすぐれた首長のもとで村落を営んでいることをリポートしました。
その後の人類学は、アフリカの狩猟採集民の生活を記録することを通じて、狩猟採集民の生活を社会的発展の一段階として位置づけるようになります。しかし、著者たちは、かれらは現代に生きる人びとであって、「過去の時代への直接の手がかりを与えてくれることはない」と論じています。
 そこで、後期旧石器時代の豪華な副葬品をともなった埋葬に話が戻ります。ある場所では異常に背の低い人物が埋葬されていました。別の場所では、当時からすれば巨人とみられる、きわめて高身長の人物が埋葬されていました。
 そうしたことをみれば、最終氷期の後期旧石器時代にはすでに世襲エリートが存在したという結論は単純に導けないといいます。
当時、着衣のまま遺体を埋葬することは、きわめて異例でした。かれらは世襲貴族だからではなく、むしろ「非凡」で極端だったからこそ、そんなふうに丁寧に埋葬されたのではないかというのが、著者たちの見解です。
 旧石器時代の遺跡には、季節ごとによる集合と分散の形跡がみられます。そのことは獲物の群れの移動や、周期的な魚の捕獲、木の実の採集に関係していました。
季節ごとに分散したり集まったりしながら、「人びとは豊富な野生資源を利用して、宴を催したり、複雑な儀礼や野心的な芸術プロジェクトに取り組んだり、鉱物や貝殻、毛皮などを取引したりしていた」のです。
 トルコのギョベクリ・テベの神殿も、大猟(大漁)豊作の宴が開かれた場所と考えられます。
時代はずっとあとになりますが(紀元前三千年紀)、イギリスのストーンヘンジも一連の儀式用の建造物だったと思われます。ストーンヘンジには一年の大事な時期(たとえば夏至や冬至)にブリテン諸島一円から大勢の人びとが集まってきて、宴を開き、祈りをささげていました。しかし、そこには恒常的な王国は存在しませんでした。
 著者たちによると、ここで、注目すべきは、レヴィストロースが、ブラジルのナンビクワラ族が季節ごとに異なる社会を組織していることを見抜いていたことだといいます。
イヌイットも夏と冬では異なる社会構造のなかで生活していました。夏のイヌイットは長老の専制的支配のもとで行動します。しかし冬のイヌイットは大きな集会所のもとで平等な集団生活を送るのです。
 カナダ北西部のクワキトル族の場合は、冬に世襲貴族が登場し、裁きがおこなわれ、ポトラッチと呼ばれる大宴会が開かれます。しかし、夏の漁期になると、貴族の板張り宮殿は解体され、社会は小さなクラン単位に戻っていきます。
 アメリカのグレートプレーンズの諸部族を研究したロバート・ローウィも同じような結論に達しています。狩猟シーズンに一時的につくられた権威は、季節が終わるとアナーキーな状況に戻っていくというのです。
グレートプレーンズの先住民は、権威主義的権力の可能性と危険性を認識していた、と著者たちはいいます。儀礼の季節が終わると、権力は解体されただけではありません。毎年、どのクランが権力を行使できるかは、順番によって決められていました。
 固定的な政治組織や社会秩序はつくられませんでした。制度はあくまでも柔軟なものであって、旧石器時代の人類は国家なき社会のなかでくらしていた、と著者たちはいいます。
「国家なき社会の人びとは、政治的自己意識にかけて、現代人より劣っていたどころか、現代人よりはるかに高かった」
 そう唱えたのはフランスの人類学者ピエール・クラストルですが、著者たちも同じ見解に達しています。そこでは国家なき社会が自覚的に組織されています。先史時代の人びとは固定された政治支配がなされないようにするために、細心の政治的配慮を払っていたというのです。
 政治的支配は一時的なものでした。しかも、それには単一のパターンがなかったことも指摘されています。政治的支配は夏場だけのこともあるし、儀礼のときだけのこともあるし、また男性と女性が月替わりで支配することもあるというのです。
ヒエラルキーはこんなふうに定期的に構築されたり解体されたりしていました。
 先史時代の人びとは「無知な未開人でもなければ、賢明なる自然の子でもない」、「かれらはわたしたちとおなじ人間であり、おなじように鋭敏で、おなじように混乱している」と、著者たちはあらためて論じます。
しかし、その最も賢いはずのホモ・サピエンスが、なぜ永続的で不平等な政治システムを根づかせてしまったのでしょうか。著者たちにとっては、それこそが問題でした。

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