SSブログ

『万物の黎明』を読む(4) [商品世界ファイル]

41g-WN2gPYL._SY466_.jpg
 後期旧石器時代につづき、紀元前1万2000年あたりから数千年にわたり、中石器時代がはじまります。このころ、人類はすでに「社会」のようなものをつくっていました。男性も女性もしばしば、きわめて長距離を移動しています。狩猟採集民は大きな居住集団となり、そこには近しい親族以外のメンバーも含まれていました。
 人びとの生活は多様です。大型哺乳類の群れを追いつづける人びと、森でドングリをとる人びと、海辺で魚を捕る人びとがいます。技術は進歩し、土器や細石器、石臼などが登場し、野生の穀物や野菜の調理、肉や魚、植物性食品の保存方法も発達しています。共通の言語をもつ社会圏のようなものができつつあります。しかし、その社会圏は季節によって大きくなったり小さくなったりしました。
 ここで著者たちは平等主義を定義するのは、なかなかむずかしいと述べています。富や信仰、美、自由、知識などにたいする価値観はさまざまで、何をもって平等とするのかは一概にいえません。平等といっても、形式だけの平等ということもあります。
 イギリスの人類学者ジェームズ・ウッドバーンは、タンザニアのハッザ族を研究し、ここでは平等主義的な社会がつくられているが、その経済の特徴は「即時的収穫型」にあると論じています。ハッザ族のあいだでは、持ち帰った食べ物は当日か翌日に食べ尽くされ、余ったものはシェアされます。
 ウッドバーンが論じたこと、それは真の平等はごく単純な狩猟採集民以外には不可能だということだ、著者たちは結論づけています。
 ヴィクトリア朝の知識人は、「未開人」はつねにおのれの生存をかけて争っていると考えていました。未開人は夜明けから夕暮れまで、わずかな食料を得るために、気の遠くなるような雑多な労働をしつづけていたというわけです。
 ところが、『石器時代の経済学』で知られるマーシャル・サリンズは、1950年代後半に「初源の豊かな社会」に言及するようになります。狩猟採集民は、現代人とくらべると豊かではないようにみえるが、豊かさは相対的なものであって、生活に必要なものがすぐに手にはいることこそが豊かさだとすれば、狩猟採集民はむしろ豊かにくらしていた。しかも、かれらは1日に2時間から4時間ほどしか仕事をしていない。そんなふうにサーリンズは論じました。
 狩猟採集民には、噂話をしたり、議論をしたり、ゲームをしたり、ダンスをしたり、旅をしたりする余暇がたっぷり与えられていました。しかし、農業がはじまって、人びとが定住し生活をして、農耕の労苦に甘んじるようになると、そうした余暇が奪われるようになった。これがサーリンズのとらえ方です。
 サーリンズの「初源の豊かな社会」という仮説は、アフリカのサン族やムブティ族、ハッザ族などの民族誌からもたらされたもので、はたして先史時代の人類がアフリカの狩猟採集民のように、のんびりくらしていたかは疑問が残る、と著者たちはいいます。あくせくと宝物を貯めている貪欲なカリフォルニア北西部の狩猟採集民もいるからです。
 初源の世界はもっと多様でありえます。著者たちがいうように「人類は、農業に手を染める以前に、何万年もかけてさまざまな生活様式を実験してきた」というあたりが真相でしょう。
 ルイジアナ州にはポヴァティ・ポイントと呼ばれる場所があります。ここでは紀元前1600年ごろにネイティヴ・アメリカンがつくった巨大な土塁跡を見ることができます。ミシシッピ川流域に残された古代文明の痕跡で、大きさはおよそ200ヘクタールです。
 ポヴァティ・ポイントには北は五大湖、南はメキシコ湾から物資が流れこんでいました。この円形劇場のような集落をつくった人びとは農耕民ではなく、ミシシッピ川流域の野生資源を利用する狩猟採集民でした。
 そこには膨大な量の石器や武器、貴石が残されており、その原料はどこからかもってこられたものでした。多くの財が集まっていたはずです。巨大なモニュメントの痕跡は、ここに集まっていた人の知のかたちを示しています。しかし、この場所で盛んな交易がおこなわれていた形跡はないといいます。
 日本の三内丸山遺跡には、紀元前4000年ごろから紀元前2200年ごろまでの狩猟採集民の痕跡が残されています。三内丸山は農耕文化以前の巨大な村落跡ですが、「総じて忘れ去られていた農耕文化以前の日本の社会史が、主に大量のデータと国家遺産のアーカイヴを通して、いままさによみがえろうとしている」と、著者は記しています。
 ヨーロッパにも巨大遺跡が残っています。たとえば、バルト海北部、スウェーデンとフィンランドに囲まれたボスニア湾の奥には「巨人の教会」と呼ばれる大きな石垣が残されています。紀元前3000年から紀元前2000年ごろの狩猟採集民の遺跡です。中央ウラル山脈東斜面の「シギルの偶像」、カレリアの遺跡、それに何といっても有名なのが、イギリスのストーンヘンジですね。
 こうした遺跡は狩猟採集民のイメージを変えました。とはいえ、その背後にある政治システムがどのようなものであったかは、ほとんどわかっていません。いまでも狩猟採集民は未熟で素朴だったという神話が生き残っているのです。
 ヨーロッパ人は先住民から土地を横領しました。先住民が狩猟や採集のために管理し使用していた土地は無権利の空き地とみなされ、略奪されたのです。その根拠とされたのが、先住民は未開人だとする考え方です。
 フロリダ西海岸にはカルーサ族の「王国」がありました。もちろん王がいました。住民の食生活は魚や貝がメインで、ほかにシカやアライグマ、さまざまな鳥類が食されていました。王国は沿岸の漁場を支配し、運河や人工池をもち、軍用カヌーを保持して、近隣から加工食品や皮、武器、琥珀、金属、奴隷などを徴収していました。
 ミシシッピ川下流域にはナチェズ族の「王国」があり、ナチェズの太陽王が君臨していました。しかし、王の権力はきわめて制限されたもので、その範囲はほとんど王家の村に限定され、王が命令しても平気で無視されることもあったといいます。
ヨーロッパ人は、こうした未開人の「王国」を次々につぶしていきます。
 豊かな狩猟採集民を例外的な存在だとする考え方がいまも根強く残っている、と著者たちはくり返します。いまではたしかに狩猟採集民は辺境の地にくらしています。しかし、かれらは奥地に追いやられたのであって、1万年前はそうではありませんでした。
「だれもが狩猟採集者であったし、……狩猟採集民は好きな場所に自由に住むことができた」のです。
 農耕がはじまる前、人類はブッシュマンのような生活をしていたという考え方は捨てるべきだ、と著者たちはいいます。

〈[氷河の後退した直後の時代]そこでは、資源の豊富な海岸、河口、河川流域に沿って多数のあたらしい社会が形成されはじめ、大規模でしばしば常設の居住地に集まり、まったくあたらしい産業を生みだし、数学的原理にもとづいてモニュメントが建造され、地域特有の料理が発展していた……〉

 王宮や常備軍もあったし、建造物や大きな土塁、運河なども築かれていた。交易もさかんにおこなわれていたにちがいありません。
 ここで、著者たちは私的所有の起源について考えます。私的所有の根源にあるのは、排除の構造です。その対象は、特定の生きている人間にとって不可侵のものとされます。それは権利や自由と結びつき、ヨーロッパの近代思想をつくりあげます。
 アメリカの先住民社会では、こうした私的所有の考え方はきわめて異質なものでした。人に見せてはいけない聖物はありました。とはいえ、土地や天然資源の所有者は神々や精霊であり、人間はせいぜいそれを管理して恩恵にあずかるものと考えられていました。
 しかし、所有者がいなかったわけではないのです。湖や山、木立や動植物など、身の回りのものにはすべてオーナーがいるのです。共同体にくらす先住民は、それぞれがオーナーとして、身の回りの土地や産物を守り、ケアする義務を負っています。それは自己の所有物なら、意のままに破壊し、改造してもよいというローマ法の所有概念とはことなっていた、と著者たちはいいます。
 人類にとって、所有権は、不可侵なるもの(聖なるもの)と同じくらい、古くからある観念です。したがって、問題は私的所有がいつからはじまったからではなく、それがどのような内容のものであったかということだ、と著者たちは指摘します。

nice!(10)  コメント(0) 

nice! 10

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント