チンギスハーンに会いにいく──モンゴルのんびりツアー(2) [旅]
6月25日(火)
ホテルのビュッフェで食事をとったあと朝8時にバスで出発。天気はくもりで、雨が降りそう。回りの写真を撮っておきます。
ガイドのオギーさんは中央ゴビ出身で、モンゴル国立大学で鉱物学を学んだあと、2016年から18年にかけ日本に留学したそうです。博多のラーメン店でアルバイトをし、日本語がしゃべれるようになったといいます。
モンゴルの人口は現在360万人で、そのうち半分がウランバートルに集まっているとか。車は一家に2台がふつうだとか。
それには理由があります。あまりに渋滞が激しいため、政策として政府はナンバープレートの末尾が奇数か偶数かによって、その日、町を走れる車を決めました。しかし、政策があれば対策がありで、庶民は奇数ナンバーと偶数ナンバーの車をそろえたわけです。かくて、渋滞はおさまらず……。ほんとか、うそかはわかりません。ジョークですね。
歴史の説明がはじまります。モンゴルは17世紀から清に支配され、1911年から21年にかけ独立を果たし、それ以降約70年にわたって社会主義を経験し、1990年ごろに民主主義に移行、それから30年ほどだといいます。もう社会主義には戻らないだろう、とオギーさん。
31歳のオギーさんは社会主義の時代を経験していません。それでも社会主義はいやだというのは、それが自由の抑圧というイメージと結びついているからでしょうね。
われわれが訪れたときは、ちょうど総選挙のさなかでした。今回から議席数が76から126に増え、与党の人民党が引きつづき政権を担えるかどうかが焦点になっていました。町にはあちこちポスターが貼られています(結果的には人民党が何とか政権を維持しました)。
モンゴルでは学校は6月1日から9月1日まで夏休みで、その間、子どもたちはいなかに行き、遊牧生活を学ぶようです。いまはちょうど、その夏休み。オギーさん自身も都会生活からおさらばして、遊牧生活に戻りたいと話します。社会主義から市場経済になったものの、競争型の市場経済もくたびれるというのがホンネではないでしょうか。
これが社会主義時代に建てられたアパートだというので、写真を撮ります。
あちこちに建設中の建物がみられます。
ゲル地区も残っています。ゲルというのは、テントのような移動式住居ですね。草原からやってきた人たちは、とりあえずゲルを立てて暮らしはじめます。
最初に訪れたのは市内の日本人慰霊碑でした。
公園になっていて、慰霊碑は小高いところに建っています。
シベリアに抑留された日本人のうち約1万2000人がモンゴルに送られ、1947年までのあいだに1600人以上が亡くなったといいます。当時の苦難を思い、ささやかな追悼をささげました。しかし、ここには封印された記憶もあるはずです。
慰霊碑を訪れるのは、日本人観光客ぐらいで、ふだんは閑散としているようです。
そのあと、郊外に向かいます。途中、ゲル地区が広がっています。
荷物を積んでゆっくり走っている列車をみかけます。何十両も連なって、中国に向かっているそうです。
モンゴルの最大の貿易国は、いまも中国とロシアのはずです。現代生活に不可欠な石油はロシアから輸入せざるをえません。中国との関係は複雑ですが、主力産品となる石炭や銅、金、鉄鉱石の輸出先はやはり中国が第一です。その分、中国からも多くの製品がはいってきます。
トール川を渡ったところにあるスーパーでトイレ休憩。そこからしばらく走り、旭天鵬が生まれたというナライハ区(ここは鉱山地区でもあります)にはいり、11時に巨大なチンギスハーン騎馬像の立つ場所に到着しました。
台座を含め、高さは45メートルで、2008年につくられたものだといいます。もちろん観光用の施設です。われわれが訪れたときは、韓国からの観光客が多かったような気がします。
建物の1階にはチンギスハーン一族の肖像。いちばん上はチンギスハーンですが、そのすぐ下には中国を征服したフビライ(クビライ)の姿があります。
エレベーターを使って3階まで行き、そこから階段で上ると、堂々たるチンギスハーンの像の正面に出ます。ガイドさんによると、カラコルムから故郷に戻る途中で、チンギスハーンはこの場所で、縁起のよいムチを見つけたとか。たしかに黄金のムチをもっていますね。
歴史書にそんな記録があるかどうかは知りません。ただし、カラコルムは息子のオゴデイがつくる都なので、チンギスハーンの時代にはなかったはずです。
チンギスハーンは、戦いに明け暮れ、戦士団とともにゲルで移動する生涯をすごしました。それでも時折、ふるさとに帰ることがあったでしょう。その途中で、ムチを見つけたというようなエピソードのようなものが、『元朝秘史』に記録されているのかもしれません。
いずれにせよ、ここはチンギスハーンが世界制覇への意欲をたぎらせた場所ということになるでしょうか。
社会主義時代は、チンギスハーンの名前はタブー視されていました。おそらくモンゴルがソ連圏から離脱する象徴になることを恐れたためでしょう。いまモンゴルでは、チンギスハーンがよみがえりました。
巨像の地下には博物館が設けられていました。モンゴル帝国時代の鞍や弓、剣、貨幣、馬頭琴、衣服なども飾られていて、見応えがあります。歴史好きにはたまりませんね。
1階に戻ると、大きな靴が飾られていました。こんな靴をはくチンギスハーンはやはり巨人です。
ホテルのビュッフェで食事をとったあと朝8時にバスで出発。天気はくもりで、雨が降りそう。回りの写真を撮っておきます。
ガイドのオギーさんは中央ゴビ出身で、モンゴル国立大学で鉱物学を学んだあと、2016年から18年にかけ日本に留学したそうです。博多のラーメン店でアルバイトをし、日本語がしゃべれるようになったといいます。
モンゴルの人口は現在360万人で、そのうち半分がウランバートルに集まっているとか。車は一家に2台がふつうだとか。
それには理由があります。あまりに渋滞が激しいため、政策として政府はナンバープレートの末尾が奇数か偶数かによって、その日、町を走れる車を決めました。しかし、政策があれば対策がありで、庶民は奇数ナンバーと偶数ナンバーの車をそろえたわけです。かくて、渋滞はおさまらず……。ほんとか、うそかはわかりません。ジョークですね。
歴史の説明がはじまります。モンゴルは17世紀から清に支配され、1911年から21年にかけ独立を果たし、それ以降約70年にわたって社会主義を経験し、1990年ごろに民主主義に移行、それから30年ほどだといいます。もう社会主義には戻らないだろう、とオギーさん。
31歳のオギーさんは社会主義の時代を経験していません。それでも社会主義はいやだというのは、それが自由の抑圧というイメージと結びついているからでしょうね。
われわれが訪れたときは、ちょうど総選挙のさなかでした。今回から議席数が76から126に増え、与党の人民党が引きつづき政権を担えるかどうかが焦点になっていました。町にはあちこちポスターが貼られています(結果的には人民党が何とか政権を維持しました)。
モンゴルでは学校は6月1日から9月1日まで夏休みで、その間、子どもたちはいなかに行き、遊牧生活を学ぶようです。いまはちょうど、その夏休み。オギーさん自身も都会生活からおさらばして、遊牧生活に戻りたいと話します。社会主義から市場経済になったものの、競争型の市場経済もくたびれるというのがホンネではないでしょうか。
これが社会主義時代に建てられたアパートだというので、写真を撮ります。
あちこちに建設中の建物がみられます。
ゲル地区も残っています。ゲルというのは、テントのような移動式住居ですね。草原からやってきた人たちは、とりあえずゲルを立てて暮らしはじめます。
最初に訪れたのは市内の日本人慰霊碑でした。
公園になっていて、慰霊碑は小高いところに建っています。
シベリアに抑留された日本人のうち約1万2000人がモンゴルに送られ、1947年までのあいだに1600人以上が亡くなったといいます。当時の苦難を思い、ささやかな追悼をささげました。しかし、ここには封印された記憶もあるはずです。
慰霊碑を訪れるのは、日本人観光客ぐらいで、ふだんは閑散としているようです。
そのあと、郊外に向かいます。途中、ゲル地区が広がっています。
荷物を積んでゆっくり走っている列車をみかけます。何十両も連なって、中国に向かっているそうです。
モンゴルの最大の貿易国は、いまも中国とロシアのはずです。現代生活に不可欠な石油はロシアから輸入せざるをえません。中国との関係は複雑ですが、主力産品となる石炭や銅、金、鉄鉱石の輸出先はやはり中国が第一です。その分、中国からも多くの製品がはいってきます。
トール川を渡ったところにあるスーパーでトイレ休憩。そこからしばらく走り、旭天鵬が生まれたというナライハ区(ここは鉱山地区でもあります)にはいり、11時に巨大なチンギスハーン騎馬像の立つ場所に到着しました。
台座を含め、高さは45メートルで、2008年につくられたものだといいます。もちろん観光用の施設です。われわれが訪れたときは、韓国からの観光客が多かったような気がします。
建物の1階にはチンギスハーン一族の肖像。いちばん上はチンギスハーンですが、そのすぐ下には中国を征服したフビライ(クビライ)の姿があります。
エレベーターを使って3階まで行き、そこから階段で上ると、堂々たるチンギスハーンの像の正面に出ます。ガイドさんによると、カラコルムから故郷に戻る途中で、チンギスハーンはこの場所で、縁起のよいムチを見つけたとか。たしかに黄金のムチをもっていますね。
歴史書にそんな記録があるかどうかは知りません。ただし、カラコルムは息子のオゴデイがつくる都なので、チンギスハーンの時代にはなかったはずです。
チンギスハーンは、戦いに明け暮れ、戦士団とともにゲルで移動する生涯をすごしました。それでも時折、ふるさとに帰ることがあったでしょう。その途中で、ムチを見つけたというようなエピソードのようなものが、『元朝秘史』に記録されているのかもしれません。
いずれにせよ、ここはチンギスハーンが世界制覇への意欲をたぎらせた場所ということになるでしょうか。
社会主義時代は、チンギスハーンの名前はタブー視されていました。おそらくモンゴルがソ連圏から離脱する象徴になることを恐れたためでしょう。いまモンゴルでは、チンギスハーンがよみがえりました。
巨像の地下には博物館が設けられていました。モンゴル帝国時代の鞍や弓、剣、貨幣、馬頭琴、衣服なども飾られていて、見応えがあります。歴史好きにはたまりませんね。
1階に戻ると、大きな靴が飾られていました。こんな靴をはくチンギスハーンはやはり巨人です。
2024-07-19 07:23
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