自由の生態学──『万物の黎明』を読む(7) [商品世界ファイル]
中東の肥沃な三日月地帯は、植物の栽培化と動物の家畜化がはじまった場所として知られています。三日月地帯は高地部分と低地部分にわかれ、それぞれ異なった文化をもっていますが、農耕がはじまったのは低地部分です。高地と低地のあいだでは、交易もさかんでした。とはいえ、農耕はすぐに定着したわけではなく、恒常化するまでには何千年もかかっています。これが前回の話でした。
農耕によって土地の私有化がはじまるというのは、後世の勝手な歴史解釈にすぎない、と著者たちはいいます。実際には、一般的に共同土地保有、開放耕地、定期的な区画再分配、牧草地の共同管理がおこなわれていたといいます。
したがって、農耕の導入が、狩猟採集民における平等主義からの脱却をもたらしたなどと考える根拠もない。むしろ、中東では数千年のあいだ、それとは真逆の事態がつづいていたというのが、著者たちの見方です。
世界を見渡すと、先史時代に家畜化=栽培化のはじまった中核地帯は15〜20箇所確認されているそうです。対象となる植物や動物はさまざまですが、そうした地域は中東をはじめ、インド、中国、、北米、中米、南米、アフリカ、ニューギニアまで広がっています。
しかし、いずれの地域も農耕から国家形成への一直線をたどっていませんでした。さらに、そもそも農耕を拒絶する狩猟採集民が多かったことも認識しておくべきです。
著者たちによれば、作物や家畜がたちまち世界じゅうに広がったというのは神話にすぎない。農業や牧畜はたいへんな労苦を必要とするのであって、そうした生活様式が容易に拡散することはありえなかった。それは失敗と挫折、逆転のくり返しだったといいます。
現生人類が誕生して以来、農耕に適した時期は2度しかなかった。それは約13万年前のエーミアン間氷期と、1万2000年前にはじまった完新世です。さらに、現在は「人新世」の時代にはいったといわれます。
「人新世」は完新世の延長上にあります。完新世が重要なのは、それが農耕の起源となる条件をつくりだしたからです。この時代は野生資源があふれ、狩猟採集民にとって黄金期となりました。海や川には魚があふれ、森林には野生の木の実や果物が豊富で、食物に事欠くことはありませんでした。
「農耕民はこのまったく新しい世界に、文化的劣等生として参入した」のだ、と著者たちはいいます。かれらは狩猟民や漁撈民、採集民がさして関心を寄せなかった空間を埋めていったのであって、それは当初、作物や家畜を育てる「遊び」としておこなわれたというのが、著者たちの解釈です。
しかし、狩猟採集民と棲み分けるかたちで、農耕が定着するには多くの困難があり、中央ヨーロッパにおける紀元前5000年ごろの遺跡は、その失敗の跡を物語っているといいます。
エジプトでは古王国が成立する以前の紀元前5000年から4000年にかけて、農耕ではなく家畜の飼育に依存する経済が営まれていました。もちろん漁撈や採集、狩猟も放棄されたわけではありません。
中央スーダンから中央エジプトにかけての墓地からは、顔料や鉱物からなる装身具、さらにはビーズ細工、櫛、腕輪などの装飾品など新石器時代の文化遺産が大量に見つかっています。これはエジプトに王国が誕生する以前のものです。
ラピタ人は、ニューカレドニアからポリネシアにかけて紀元前3000年ごろ遠洋航海をおこない、島々やラグーンに村落をつくり、高床式の家を建てました。かれらは石斧を使って森を切り開き、タロイモ、ヤムイモ、バナナなどを栽培し、家畜を育て、魚や貝、海亀、野鳥、フルーツコウモリなども食べていました。
ラピタ人のつくった土器は独特なもので、貝殻を集めて腕輪やネックレス、ペンダントなどをつくっていました。鳥の羽根の頭飾り、パンダナスの敷物、何千キロも離れたビスマルクで産出された黒曜石の刃などが、その文化のさまを物語っています。
新たに登場した農耕民の特徴は、それまで狩猟採集民が手を着けていなかった場所を選んで農耕や家畜の飼育をはじめたことにある、と著者たちはみています。とはいえ、そこにはどうやら遊びの要素も含まれていたというのです。
つい最近まで、アマゾンは孤立した部族が隠れ住んでいる場所と思われていました。しかし、最近になって、それは事実ではないことがわかってきました。いまから2000年ほど前、アマゾン地方、すなわちアマゾニアには、すでに町や段々畑、モニュメント、道路ができていて、それがペルーからカリブ海までつづいていたというのです。
そのころアマゾニアの人びとはマニオク(キャッサバ)に特化した固定農業を営んでいたわけではありません。マニオクが主食となったのは、16世紀にヨーロッパ人と接触してからのことです。アマゾニアでは長期にわたって、「遊戯農耕」がおこなわれていた、と著者たちはいいます。
そこでは、ゆったりと土壌が維持され、さまざまな作物が植えられ、人びとはひとつの場所にとどまるわけでもなく、狩猟や採集もおこなっています。つまり、「自由な生態学」が維持されていたのだ、と著者たちはいいます。
これはアマゾンに限られた話ではありませんでした。北アメリカの東部ウッドランドでも、中国の黄河流域、長江流域でも同じでした。単独でアワやキビ、あるいはイネが栽培されるようになるまでには、何千年もかかっているのです。それはブタの飼育などでも同じことでした。
それ以前、人びとは長いあいだ「狩猟や採集の文化的価値を保持しながら、農耕への閾(しきい)をまたぐことなく浮遊していた」のです。
したがって、紀元前7000年ごろに「農業革命」がおきたという仮説は、あくまでも目的論的推論にすぎず、実際には、農業革命などおきておらず、単一的農耕をこころみた部族は、むしろ失敗に見舞われているケースが多いのです。
〈農耕が考案されたのは、ほかに手立てがないばあいにのみだったのである。だからそれは、野生資源の最も乏しい地域で最初に着手される傾向にあったのだ。農耕は初期完新世のもろもろの戦略のなかでは異端児だった。〉
これはなかなか説得力のある見解です。
2024-07-26 06:52
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