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想像の都市──『万物の黎明』を読む(8) [商品世界ファイル]

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 初期の都市に関する研究は、これまでの都市に関する常識をくつがえしつつあるといいます。多くの都市では、支配層の存在を示す証拠はなく、神殿や宮殿はのちになってあらわれたものだというのです。
 壁や門、溝などで仕切られ、道によって区域に分けられ、大勢の人が集まる都市はどのようにして誕生したのか。農耕革命によって人口が増え、その人口を管理するために都市が生まれたという説は支持しがたいいうのが著者たちの考え方です。
 最大規模の初期都市が存在するのは、じつはユーラシア大陸ではなく、メソアメリカ(中央アメリカ)です。しかし、この章では、まずユーラシア大陸の初期都市が検討されます。
 最初に取りあげられるのはウクライナの「メガサイト(巨大遺跡)」です。1970年代になって、ウクライナでは紀元前4100年ごろから3300年にかけてのいくつかの巨大集落跡が見つかりました。こうした都市を支えていたのは黒海の北側に広がる肥沃な黒土地帯でした。
 そんなメガサイトのひとつ、タリャンキは300ヘクタールの面積をもち、そこには1000を超える家屋があり、1万人以上が住んでいたと推定されます。しかし、統治にかかわる宮殿のような施設は見つかっていません。中央には広場があって、そこでは民衆集会や儀式、動物の囲い込みなどがおこなわれていました。
 これを大きな村落とみる向きもありますが、1万人以上の人が暮らしていた場所はやはり都市というべきでしょう。しかも、この地域には、そうした集落が10キロ程度の距離で点在していたことがわかっています。
 都市の住民は集落内で小規模な園芸や家畜の飼育、果樹の栽培などをしながら、広範な狩猟や採集活動をおこなっていました。カルパティア山脈東部や黒海沿岸からは塩を大量に輸入しています。ドニエストル川流域でとれるフリント(火打ち石などにも使われる)も運ばれ、バルカン半島からは銅が流入していました。そして集落では多くのすぐれた土器が焼かれていたのです。
 初期都市のかたちを示すウクライナのメガサイトが重要なのは、ここでは上からの支配関係がなく、都市の統一性が「地域の意思決定の過程を経由しながら、ボトムアップで生まれている」ことだ、と書かれています。そこでは、「高度な平等主義的組織が都市規模で可能であったこと」が裏づけられていたというわけです。
 次に取りあげられるのがメソポタミアです。
 そもそもメソポタミアとは「ふたつの川のあいだの土地」を意味することばだといいます。そのふたつの川とはいうまでもなくティグリス川とユーフラテス川です。
 メソポタミアではバビロニアやアッシリアなどの古代王国が発展しました。しかし、それ以前にすでに、紀元前4000年から3000年にかけて繁栄した、いくつもの都市が見つかっているのです。そこには統治者の気配を感じさせるものがないといいます。むしろ、そうした諸都市には、「原始民主政」が存在し、一般市民が統治に重要な役割を果たしていたのです。
 実際、紀元前3300年ごろ、メソポタミア南部の氾濫原にウルクという都市がありました。その人口は2万人から5万人と推定されています。小高い丘に神殿が建てられ、ここがいわば公共センターとなっており、大規模な集会がおこなわれていたはずだといいます。
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 ウルクで有名なのは、何といっても楔形文字です。神殿跡から発掘された文字板には、財やサービスの取引結果が記録されていました。神殿には作業所があって、工芸品や乳製品、毛織物だけではなく、パンやワイン、ビールがつくられていました。また倉庫には魚や油、食料品が保管されていました。
「この神殿部門の主要な経済的機能は、一年の大事な時期に労働力を調整し、一般家庭でつくられるものとは異なる加工品の品質管理をおこなうことであったと推測される」と著者たちはいいます。楔形文字は、その活動を記録するために発明されたともいえるわけです。
 神殿での作業は、神々をまつり、さらには統治者を支えることを目的としていたのでしょうか。しかし、著者たちは南メソポタミアの初期都市には君主政の痕跡は見当たらないといいます。
 神殿でつくられた毛織物などの商品は、周辺の高地にあった木材や金属、貴石などと、なんらかの方法で取引されていました。ウルクが交易路の要所に商業的、かつ宗教的な前哨基地をつくっていたこともわかっています。
 その範囲は北はトルコのタウロス山脈、東はイランのザグロス山脈までおよんでいたというのですから相当な範囲です。これがいわゆるシュメール文明の痕跡です。ウルク人はこうした前哨基地に神殿を建て、現地の人びとに衣服や乳製品、ワイン、毛織物などの商品を広める仕事に没頭していたといわれます。
 おなじころ、トルコ東部の丘陵地帯にはアルスランテペという都市がありました。ここには神殿ではなく宮殿のようなものが建設され、謁見の間のほか、剣や槍を貯える武器庫もつくられていました。反商業的な戦士貴族の社会が生まれようとしていたのです。これはメソポタミア平原の平等主義的な都市とは対照的で、貴族政、君主政につながる要素をもっていた、と著者たちはとらえています。
 インダス文明に移ります。
 インダス川下流には紀元前3000年ごろから2000年ごろまで栄えたモヘンジョダロがあります。ほかにハラッパーという都市遺跡も見つかっています。こうした都市遺跡群は現在のパキスタンからインド北部にかけて広がっています。
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 インダス文明には文字がありますが、いまだに解読されていません。モヘンジョダロの遺跡は完全に保存されているとはいえ、慎重な発掘作業がおこなわれなかったため、だいじなデータが失われてしまいました。
 とはいえ、意外なことがわかっているといいます。モヘンジョダロの城塞区域には富は集中しておらず、むしろ賑わっていたのは市街区域のほうで、そこには金属や土器、ビーズなどの工房が集まり、多くの人びとがそれを買っていたといいます。これにたいし、城塞区域には宮殿や記念碑もなく、あったのは沐浴場のような施設でした。都市にはカースト制の痕跡もありませんでした。
「インダス文明には、たとえば戦争指導者、立法者などといった、カリスマ的権威者の存在を示唆するいかなる証拠もない」と著者たちはいいます。ここにあったのは「平等主義的な都市」であって、「国家」のようなものではなかったのです。
 ウクライナのメガサイト、メソポタミアのウルク、そしてインダス川流域においても、集落の規模が巨大であったにもかかわらず、これらの初期の都市では、富や権力が支配エリートに集中されることはなかった、というのが著者たちの観察結果です。
 中国でも初期の都市の時代と、最古の王朝とされる殷(紀元前1200年ごろ)とのあいだには、大きな隔たりがあります。いまでは殷以前の新石器文化の遺跡が発掘されています。すでに紀元前2600年ごろには、山東省の沿岸部から山西省南部にかけ、黄河流域に土壁に囲まれた集落が広がっていました。
 たとえば陶寺(山西省)もそのひとつですが、300ヘクタールの広さをもつこの都市は巨大な城壁をもち、道路網と貯蔵庫がつくられ、平民とエリートの区画が厳格に区別されていました。宮殿のまわりには工房が集まり、陶器が焼かれ、翡翠などの工芸品がつくられていました。しかし、紀元前2000年ごろ陶寺では、「政治革命」がおこり、エリートが追放された形跡がある、と著者たちは記しています。

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