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テオティワカンをめぐって──『万物の黎明』を読む(9) [商品世界ファイル]

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 メキシコにアステカ帝国が誕生した西暦12世紀ごろ、テオティワカンはすでに廃墟となっていました。アステカのメシカ人は、そこを「神々の集う場所」と呼びました。アステカ人が名づけた「太陽のピラミッド」や「月のピラミッド」、「死者の大通り」は、現在人気の観光スポットになっています。
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 いまではテオティワカンが紀元前100年ごろにつくられ、紀元600年ごろに衰退したことがわかっています。その人口は10万人と初期都市では最大規模を誇ります。テオティワカンの最盛期、メキシコ盆地周辺には100万人以上の人がくらしていたとされます。
 テオティワカンに宮殿はありません。絵画や彫刻、小さな像は残っていますが、文字らしきものの記された跡もほとんどありません。支配者の墓もなければ、儀式の場らしきものもないといいます。
その点、テオティワカンは同時代のマヤと大いに異なっていました。テオティワカンには支配者も王もいなかったのです。
「テオティワカンは実際に自覚的に平等主義的方針で組織された都市であったというのが一般的なコンセンサスである」と、著者たちは断言します。
 テオティワカンの広さは20平方キロほど。ふたつのピラミッドとシウダデーラ(城塞)と呼ばれる大きなモニュメントがあり、その周囲には2000戸の集合住宅がつくられていました。
 テオティワカンが都市として発展したのは西暦0年ごろだといいます。さらに西暦50年から150年にかけて、火山や地震の影響から逃れるため、多くの人が古い町を捨てて、テオティワカンに流入しました。
 そのとき聖なる都市のアイデンティティとしてつくられたのが、巨大モニュメントだったというのです。ピラミッド型の山や人工的な川がつくられ、儀礼がとり行われるようになりました。生け贄も捧げられました。
 ふつうならここで戦士貴族や世襲貴族が登場し、富と特権の象徴となる豪華な宮殿が誕生することになります。しかし、「テオティワカンの市民は別の道を選んだ」と、著者たちはいいます。

〈宮殿やエリートの住居を建設するのではなく、富や地位に関係なくほぼすべての市民に高品質のアパートメントを提供するという、めざましい都市再生プロジェクトに着手したのである。〉

 テオティワカンの各集合住宅には100人前後の人がくらしていました。少人数の家族がそれぞれ部屋をもち、専用のポーチも設けられていました。部屋には祭壇が設置され、壁には鮮やかな壁画がえがかれています。そして、中庭には小さなピラミッド型神殿がつくられていました。
 テオティワカンの人びとはトルティーヤ、卵、七面鳥やウサギの肉を主食とし、ブルケと呼ばれるアルコール飲料を楽しんでいました。生活困窮者はいなかったといいます。
 著者たちにいわせると、「テオティワカンは、王政や貴族政から『民衆のトラン[葦のように密集した場所]』へと方向転換した」ということになります。
全体の統治評議会のようなものはあったにせよ、多くの権限は地区評議会にゆだねられていました。大規模な官僚制は存在しませんでした。
 しかし、テオティワカンは西暦550年ごろには内側から崩壊していきます。外敵が侵入した形跡はありません。住民たちは自分たちの都市を残したまま、ちりじりになっていったのです。

 ここでテーマは一挙に近世へと移ります。
 16世紀はじめ、スペインのコルテスがアステカ帝国を滅ぼすとき、わずか1000人の兵しかもたないコルテスは、以前からアステカと対立していたトラスカラという国と同盟を結び、アステカの首都テノチティトランを陥落させたことが知られています。
ふつうトラスカラは王国だったと理解されています。しかし、著者たちはトラスカラが王国ではなかったこと、それは古くテオティワカンからの伝統を引き継いだ共和政体の都市国家であったことを論証しています。
 トラスカラには王がいませんでした。トラスカラは何世代にもわたってアステカと戦ってきましたが、その政治的決定を担っていたのは、独裁的な王ではなく、民衆からなる都市評議会の代表者たちだったのです。
 著者たちは16世紀後半にセルバンテス・デ・サラサールが記した『ヌエバ・エスパーニャ年代記』をひもときながら、トラスカラの統治評議会がどのようなものであったかを示そうとしています。
 そこには、理路整然とした議論と長時間の審議によって合意を得ようとする成熟した都市議会が存在しました。その議会での審議により、トラスカラはスペイン側のコルテスと同盟を結ぶことを選択します。
 とうぜん、そこには「われわれを害するために不穏な海が投げてよこした貪欲な怪物のごときもの」と手を結ぶことにたいする強い反対もありました。しかし、ともかくも議会でさまざまな立場からの議論が自由にたたかわされ、けっきょくはコルテスとの同盟が決まるのです。
 トラスカラの評議会にどれくらいの評議員がいたかはわかっていません。スペイン側の資料では50人から200人とされています。議題によって、その数はことなったようです。
しかし、トラスカラでの「先住民の集団統治の仕組み」は、むしろ民主主義に敵対的だったスペインの観察者を驚かせています。
 さらに驚かされたのは、この都市で評議員になるための資格でした。
名誉や名声、あるいは資産があるだけでは評議員になれませんでした。カリスマ性はむしろ否定され、評議員の資格を得るためには、多くの試練をへなければなりませんでした。

〈かれら[評議員たち]は都市民に従属することをもとめられていた。この従属がたんなるみせかけでないことを確認するために、めいめいがいくつかの課題をこなさねばならなかった。まず、野心への適切なる代償と考えられていた公衆の罵声を浴びることが義務づけられた。つぎに、自我をぼろぼろに傷つけられた政治家志望者は、長期の隔離生活のなかで、断食、睡眠剥奪、瀉血、厳格な道徳教育などの試練を与えられた。そしてイニシエーションは、あらたに公務職に就いたものが、祝宴の最中に「カミングアウト」することで幕を閉じた。〉

 選挙はかえってカリスマ的指導者を生みだすとして採用されていませんでした。それよりも、民衆から実際の試練を受け、その試練を乗り越えることが、政治家の条件でした。著者たちはコロンブス以前のアメリカ大陸に民主政体があったことを示唆しようとしています。

〈現代の考古学的調査では、コルテスがメキシコの地を踏むずっと前に、トラスカラに先住民の共和政体が存在したことが確認されており、後世の文字資料からも、その民主的性格についてはほとんど疑いの余地を残していない。〉

 民主主義はヨーロッパの発明品ではなかったのです。
 しかし、国家の時代がはじまります。国家とは何か。次に問われるのはそのことです。

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