たとえば橋本治の1998年(1)──大世紀末パレード(28) [大世紀末パレード]
1998年というのは特別な1年ではない。特別といえば、昭和が終わり冷戦が終結した1989年のほうがよほど特別だろう。橋本治も『‘89』という批評を残している。
雑誌『広告批評』に連載した橋本のエッセイは1997年から12年におよんでいる。1998年はまだその連載がはじまったばかりのころだ。
しかし、どの年も特別でない年はないともいえる。橋本はこの年の社会現象をどのように切り取っていたのか。もっとも雑誌の新年号は前年12月に発売されるのが恒例になっているので、98年の1月号は、前年12月はじめに執筆されている。
最初に98年がどんな年だったかをイメージするために、代表的なできごとをいくつか挙げておこう。金融機関の不良債権問題が景気に暗く長い影を投げかけている。アジアで経済危機が発生した。長野冬季五輪がはじまる。企業倒産が増える。参院選で自民党が大敗し、橋本龍太郎首相が退陣、小渕恵三が新総理となる。米大統領クリントンの不倫疑惑。和歌山カレー事件で林真須美容疑者とその夫を逮捕。中央公論社が読売新聞傘下に。映画評論家、淀川長治死去。映画『タイタニック』のヒットなどなど。
橋本治はこの1年を例によって「ああでもなくこうでもなく」書き綴っている。その長大な思索をすべて紹介するわけにもいかないので、ここではごく簡単なピックアップを試みることにしよう。
98年1月号で、橋本は金融恐慌なんて関係ない、うちの事務所はいつも貧乏と書いている。
山一証券が営業停止になり、その前に北海道の拓銀が破綻し、その後に仙台の徳陽シティ銀行がつぶれた。
そのころ原稿の締め切りで缶詰になっていた橋本は、寮のおばさんから、「どうしてこんなにつぶれるの」と聞かれて、「[バブルのときに]もう[おカネが]余ってたんだからさ、今更金貸しって、いらないのよ」と答えている。言われたおばさんは、キツネにつままれたような顔をしていたという。
橋本はあらためて、こう考える。
銀行は「余っている金を貸す預金者と、その金を借りてくれる企業」があって、それを仲介することで成り立っている。しかし、預金者は利子を当てにして、自分の預金を預けっぱなしにするのがふつうだ。
ところが高度成長時代に、企業は自己資金ができるようになって、銀行から預金を借りる必要がなくなった。そのため銀行は自分たちの延命をはかるために、無意味な借金を押しつけるようになる。
ここに値上がりする土地という神話が登場する。そこで、土地に金がつぎこまれる。すると、慢性的に値上がりしていた土地が、爆発的に値上がりし、やがて暴落し、不良債権なるものが生まれるのだ。
最大の問題はもう投資先がないことだ。「膨大な金を持っていても、その金を貸せる相手がいなくなったら資本主義は終わりなんじゃないか?」と橋本は考えるようになっている。
昭和の終わりはバブル絶頂期で、バブルがはじけたのは1992年だ。しかし、バブル崩壊が実感されたのは、金融機関の破綻が表面化した1997年末で、橋本も日本はこのままお先真っ暗な状況がつづくのではないかと思いはじめていた。
日本の企業の内実はけっこうあやういのではないか。企業はへたに儲けを残したら税金でもっていかれるから、土地を買って施設を建てたりして、金を使っちゃう。手元に金を置いておかない。また、銀行が金を貸してくれるから安心もする。それが綱渡りの経営を生む。
企業は税金を払いたくないから金を借りたのに、金融不安が生じると、借金返済に追われて、回転資金がなくなり、社員への給料も払えなくなる。「借金があるのは当たり前」という考え方は、いたって不健全ではないか、と橋本は断固宣言する。「20世紀末の世界的不景気は、『資本主義は永遠だ』という幻想の終わりを告げているもんなんだ」
大蔵省の腐敗ぶりにも怒りを覚えていた。東大出の人間は内部で固まっていて、東大出じゃない人間を平気で「外部の人間」と呼んだりする。
「しかも、大蔵省に行くのは、ちょっとばかり入試の成績がよかったことを鼻にかけていて、そのことに気がつかない、『人格に問題のあるやなやつばっかり』の法学部出なのである」
東大文学部出身の橋本治がそういっているのだから、これはまちがいない。
そういうやなやつらが日本の経済を牛耳っていることに、橋本の怒りはおさまらない。さらに日本には1200兆円の個人金融資産があるなどと聞くと、金持ちに税金をかければ、金融不安なんかさっさと解消してしまうじゃないかと思う。それなのに、じっさいには「金持ちは絶対に自分の金を使わない」。
そんななか社会ではストレスがたまる。中学生の男の子が女教師をナイフで刺殺する事件もおきていた。
いまの子どもたちはストレスのかたまりだという。そのストレスに耐えれば「将来の見返り」があるという時代は終わった。「それであるにもかかわらず、教育だけは相変わらず『企業戦士養成システム』であることをやめていない」
そんなふうにうつうつとしているときに長野冬季五輪がはじまる。そのころは『双調平家物語』を執筆するため、中央公論社の軽井沢寮で缶詰になっていたのだ。それ以前は白馬にいて、缶詰になって、やはり原稿を書いていた。そのため、橋本は現地で冬季五輪を体験することになった。
聖火ランナーが走るのは、人の集まる短い区間だけだということを知ったのもこのときだ。かなりの部分、聖火は車で運ばれていたのだ。
オリンピック開催前、長野駅前はにぎやかで、新幹線に加えて新しい道路ができたこともあって、毎日が開通式とパレードに明け暮れていた。
だが、その裏で自然破壊がおきていたのを橋本は見ている。白馬では「とんでもない数の車が、朝の5時から夜の8時まで、ひっきりなしにゴゴゴゴゴをやっている」状態だったという。
オリンピック道路がつくられ、森の木が切り倒され、斜面にブルドーザーがはいり、大量の土砂が投入されて、スキーコースができあがった。しかし、集中豪雨のときは、土石流災害で人が死ぬできごともあった。
橋本はオリンピックがはじまると、白馬へ出かけた。オリンピックの競技を見るためじゃない。「オリンピックをやってる白馬はどうなったか」を見るためだった。
宿泊客はオリンピック関係者とボランティアばっかりで、スキー客はほとんどいなかった。
道路規制が敷かれて、別荘地のペンションに人は泊まれず、明かりが煌々とついているのに、町はゴーストタウンみたいだったという。
そして、白馬に3日間いて、競技がおこなわれる八方屋根のスキー場とジャンプ台周辺の混乱を見て帰ってきた。
スキーとは何かを考えてみたりもしている。
〈スキーというのは、昭和30年代まで、教養体系の一つだったのである。ドイツ教養主義は、日本の近代に「登山」というスポーツを持ち込んだ。「スキー」は「登山」の親戚で、昔は教養世界にいる大学生のものだったのである。ただ、登山よりもスキーは娯楽度が高い──金が余分にかかるからである。〉
スキーが教養主義を脱して娯楽に変わるのは70年代にはいってからだ。バブルのころには、だれもが「スキー場に行った」。スキーに行ったかどうかはわからない、と橋本はのたまう。
〈それでは、バブルの時代、なんでみんなスキーに行ったのか? ハイソへの誘いである。「上流階級のすることを大衆がする」がバブルの時代だから、そういうことになる。〉
そして、バブルがはじけると、スキー人口も減った。
橋本は長野オリンピックの開会式が嫌いだったという。とくに「第九」の合唱。あれを聞くと、ファシズムの恍惚感を覚えて、ぞっとした。
オリンピック期間中、テレビ中継は「愛と参加」のテーマをかかげて、連日盛りあがっていたけれども、結果は案の定だった、と橋本はわりあい冷淡だった。祭典にはあまり興味がなかったらしい。
それでも、働くしか能のない日本人は、もっと「スポーツで遊ぶをやるべきだ」と主張している。登山もスキーももっとやったらいい。
といいても、「私はもう五十ですから、この年になって、今更スキーも山登りもしませんが──体壊すだけだ」。
それよりもオリンピックが終わったあと、橋本が怒っていたのは、白馬の森が壊されて、キノコ狩りができなくなったことだった。
自身のことをふり返ると、このころぼくは会社で「長野五輪グラフ」をつくる仕事に駆り出されていたことを思いだす。
1998年の話、もう1回つづけます。
2024-11-12 10:48
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