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ゴードン『アメリカ経済──成長の終焉』を読む(8) [商品世界論ノート]

 1940年から2014年にいたる商品世界の流れをみている。はかどらない読書だ。
 きょうはまずコンピュータの話。1960年以降、コンピュータの性能は猛烈な勢いで向上したが、コンピュータは経済成長にさほど寄与しているわけではない、と著者は論じている。
 コンピュータははたして何をもたらしたのだろう。ひとつは単調な定型作業の省力化である。電子タイプライター、銀行のATM、スーパーなどのバーコードスキャナーなどが初期の成果だった。
 1980年代以降からはパソコンが身近なものになった。ワープロや表計算ソフトは画期的だった。ゲームソフトも人気を博した。電子メールは便利な通信手段だった。電子商取引やウェブ検索もおこなえるようになり、音楽や映像の鑑賞も手軽にできるようになった。ニュースもパソコンでみられるようになる。フェイスタイムなどでの無料通信も可能になった。それは驚くべき進化のように思えた。
 1970年代前半までは、まだスーパーコンピュータの時代だったが、いまではノートパソコンがかつてのスーパーコンピュータの能力をはるかに凌駕している。半導体の集積密度は2年ごとに倍増するというムーアの法則(予想)は、これまでほぼ実現してきた。モニターやマウス、計算能力、パソコンの操作方法も急速に改善された。だが、2006年以降は、パソコンの進化も頭打ちになっているという。
 電子計算機が構想されたのは1940年代である。最初は軍事目的だった。だが、それはあまりに巨大で、莫大な電力を要した。戦後、アメリカン航空は増えつづける旅客の事務処理をする必要から、新たなシステムを開発した。生命保険会社も顧客データを管理するため、1950年代に初の商用コンピュータを導入する。銀行も小切手処理のためにマシーンを開発し、クレジットカード、ATMの導入へと進んだ。バーコードは1970年代半ばに利用できるようになっていたが、実際にこれがスーパーマーケットで活用されたのは1980年代になってからである
 ゼロックスは1959年にコピー機を開発し、1960年代から70年代にかけ、屈指の人気企業となった。タイプライターはふつうの家で使われていたが、1964年にIBMが最初に電子タイプライターを開発する。それからワープロ専用のミニコンピュータへと突きすすんでいった。
 パソコン革命がはじまる。1975年にビル・ゲイツらはマイクロソフト社を設立する。スティーブ・ウォズニアックは友人のスティーブ・ジョブズと協力してアップル・コンピュータを売りだした。1990年代からはインターネットによって、ハードウェアとソフトウェアがつながり、電子メール通信がはじまり、さらに数年後には一般向けのウェブブラウザが登場する。
 インターネットを開発したのは、もともと国防総省だった。だがインターネット革命をおこしたのは、1995年に発売されたウインドウズ95である。とはいえ、このころのインターネットはワープロと電子メール以外、ほとんど使い物にならなかった。
 しかし、それ以降、インターネットは急速に普及する。人びとはパソコンを通じて、航空券やホテル、レストランを予約したり、音楽を聴いたり、映像をみたり、情報や知識を得たり、友達と交流することもできるようになった。ソーシャルネットワーキングも広がっている。
 インターネットは流通業界に革命をもたらし、消費者に計り知れない恩恵を与えた。1994年に創業したAmazonは当初、書籍を販売していたが、いまではアメリカだけで2億3200万の商品を扱っているという。アマゾン革命のおかげで、大勢の顧客は幅広い選択肢を手に入れた。だが、そのおかげで多くの書店が閉店し、ショッピングモールの衰退をもたらすという現象も招いている。
 コンピュータとインターネットが圧倒的な恩恵をもたらしたのはたしかだ。そのいっぽうで、ネットいじめ、プライバシー侵害、オンラインゲームへの依存、子どもの集中力や読み書き能力の低下をもたらしていることもまちがいない。

 次に保健と医療の発展をみておこう。
 平均余命に関しては、1870年から1940年にかけては乳幼児の死亡率が低下した。これにたいし、1940年から2010年にかけては高齢者の死亡率が低下したのが特徴だ。平均余命が延びるペースは、とうぜんながら減速してきた。
 医療の重点は、感染症の撲滅から慢性疾患の治療へと移った。健康状態の改善ペースは緩慢になるいっぽう、医療費負担は増え、アメリカではとりわけ医療制度によってもたらされる格差が問題になっている。
 平均余命は1950年まで急速に延び、その後は緩慢になっている。20世紀の最大の死因は心臓病だったが、1960年代以降は死因に占める心臓病の割合は減り、その代わりがんが増えている。ほかに多いのは呼吸器疾患と脳血管疾患、アルツハイマー病である。最近はアルツハイマー病の割合が増えている。
 フレミングによってペニシリンが発見されたのは1928年だが、これが量産され、手軽に買えるようになったのは戦後になってからである。ほかの抗生物質も次々と現れ、量産によって値段も安くなった。結核はほぼ撲滅されるにいたった。
 戦時下の研究から、蘇生法や輸血技術、人工関節などの医療技術が生まれた。ポリオワクチンも開発された。
 心臓移植手術は1960年代後半にはじめて行われたものの、生存率は低かった。いまでも、まれにしか実施されない。それよりも心臓病のリスク要因となる高血圧やコレステロールの管理と治療が進むようになった。さらにペースメーカーの埋め込みや心臓カテーテル法、冠動脈バイパス手術が広く用いられるようになっている。
 20世紀にがんは増加の一途をたどったが、その対策は外科手術と放射線治療が中心で、戦後になって化学療法が加わった。1970年代にはCTスキャンによるがんの早期発見も可能になった。しかし、70年代以降、がん治療の技術そのものはさほど進歩していない。
 1980年代にはエイズの蔓延が問題になった。アメリカでは1995年に50万人以上がエイズに感染し、30万人が死亡している。だが、抗レトロウイルス療法が開発されるとともに、エイズの進行を抑えることが可能になった。
 1960年以降、たばこは健康に害をもたらすという意識が高まった。幅広い啓蒙活動も功を奏して、その後、たばこの消費量は減少の一途をたどる。とはいえ、アメリカではいまでも成人の喫煙率は18%近くで、高止まりしている。
 戦後はメンタルヘルスの面の取り組みも進んだ。大気汚染にたいする意識も高まった。
 事故と暴力が死因に占める割合も見逃せない。自動車事故を除く事故による死亡率は1940年以降減りはじめる。1940年には10万人あたり48人(自動車事故を含むと70人)という割合だったが、1990年には10万人あたり19人(同35人)に減った。しかし、2000年以降は逆に増えはじめ、2011年には30人(同40人)になっている。
 これは殺人をはじめとする重大犯罪の件数が減っていないことを意味している。なぜ、そうなっているかは、あらためて検討される。そのいっぽう、1970年代から、レイプやドメスティックバイオレンスなど女性や子どもにたいする暴力が強く非難されるようになったのも事実だという。
 医療の専門化は戦後の特徴である。医薬品も医師の処方によるものが増えた。医療分野ではCTやMRIなどの画像診断システムが開発されるなど重要なイノベーションがおきている。ゲノム技術は急速に進んでいる。再生療法のひとつとして幹細胞研究も進められている。だが、ゲノム技術や再生療法はまだ本格的な臨床段階にいたっていない。
 戦後、病院は急速な発展を遂げた。各地に病院が建設され、医師や設備も増強され、多くの患者が病院を訪れるようになった。だが、それとともに医療費も増大した。その効率性が見直されることはあまりなかった。地域住民の啓発や予防などの活動もあまりおこなわれなかった。「1970年代から1980年代にかけて、病院の姿勢は営利志向に傾いていった」
 現在の問題は慢性疾患をもつ高齢者が増大していることである。いまの70歳は検査や管理を受けつづけ、アルツハイマー病にかかる可能性と向き合っており、高齢者は入退院をくり返しながら余生をやりすごしているのが現実だという。
 1960年代には経口避妊薬が一般でも使用できるようになった。これにより女性が出産の時期と頻度を選ぶことができるようになり、女性の労働参加率が高まったと著者は述べている。
 たいていの先進国は国民皆医療保険を採用しているが、アメリカはこれを採用していない。医療保険に加入している人の割合は2010年時点で84%だが、アメリカの医療費はイタリアやイギリスの2倍以上、日本の1.8倍になっている。高コストと非効率が問題だ。
「他の先進国では、医療保険は雇用主の提供するものでなく、市民の権利のひとつととらえられ、国民皆保険の方向へ向かっていたが、アメリカはその流れに逆行していた」と、著者はいう。

 最後に1940年以降の職場と家庭の労働環境の変化をみておこう。このころ、すでに、農村社会から都市社会への移行は完了していた。
 1940年段階で、すでに工場の作業環境はかなり改善されている。職種としては事務職と販売職が増えていた。労働時間も週40時間となっている。家庭の労働環境も改善され、水道とガスが普及し、ほぼ半数近い家庭が電気冷蔵庫や洗濯機をもつようになっていた。
 ベビーブームのあいだ、女性は子育てに忙しかったが、1960年ごろから労働に続々と参入するようになる。
 製造業の就業者は1953年に労働力人口の30%に達したあと、1980年代にはいると急激に低下する。機械が労働に取って代わり、輸入品が押し寄せるようになったためである。2015年には製造業就業者の割合は労働力人口の10%まで低下している。安定した雇用が失われたことで、ブルーカラーの生活は苦しくなった。
 労働環境が改善されたことで、若年層は高校に行くのがふつうになった。1970年には高卒率は70%に達した。だが、それ以降は頭打ちになっている。貧困家庭出身者のなかには、高校を卒業できず、最低賃金レベルの単純労働を余儀なくされる者も多い。
 大学卒業者の割合は増えたが、その40%が大卒向けの仕事をみつけられないでいる。授業料が高騰するいっぽう、卒業してからも学資ローンに苦しむ若者も少なくない。
 1940年以降、高齢者の生活も一変した。年金制度により、年金の支給開始年齢になれば退職することも可能になった。とはいえ、いまでは「退職後の人生が長くなり、将来の社会保障費の財源をどう確保するかという頭の痛い問題が持ち上がっている」。
 1953年には農業労働者の割合が10%を切った。農作業を農業機械が代替するにつれて、農業就業者の割合はさらに減り、2000年以降はほぼ2%の水準となっている。
 労働者の雇用は、農業やブルーカラーからホワイトカラー中心に移行した。20世紀後半には中産階級の割合が大きくなった。製造業が衰退するものの、サービス業が成長したのだ。そうしたなかで製造業や鉱業でも安全性が向上する。空調設備の普及は労働環境を改善し、生産性を増大させた。
 1950年代から60年代にかけては実質賃金が大幅に上昇し、賃金格差が圧縮され、経済成長が黄金期を迎えた。しかし、1975年以降は、成長の鈍化とともに、所得格差が拡大し、所得階層の下半分が中産階級から脱落しはじめている。
 戦後の労働市場の変化で重要なのは女性の参入である。戦後当初は出生率が高かったため、女性は家事や子育てに忙しかった。しかし、女性が仕事を得ようとすると、当初はとてつもない女性差別の壁にぶつかった。
女性による本格的な労働市場参入がはじまるのは、1960年代半ばからである。1964年に44.5%に達した女性の労働参加率は1999年に76.8%となり、その後は緩やかに低下し、2014年には73.9%となっている。
 1970年代から80年代にかけ、女性の学歴も高くなった。女性はまもなくホワイトカラーの専門職、医師、弁護士、管理職のポストへの道をも歩み始める。1970年代以降は、男女同一賃金に向けて、かなりの前進がみられるようになった。それでもいまでも賃金格差は残っている。
 25歳−29歳でみる大卒者の割合は1940年には5%だったが、1966年には10%、1990年には20%、2013年には32%に上昇した。大卒者の数が増えるなかで、女性の比率が上昇し、1978年には50%を超えた。
 しかし、いまでは卒業してから学生ローンの返済に苦しむ若者も増えている。大学を卒業しても、タクシー運転手やスターバックスのバリスタなどの単純労働にしかつけない人も増えている。それでも、大卒者は労働市場で有利な位置にあり、失業することも少ない。しかし、過去17年をみると学位をもたない大卒者の実質所得水準はむしろ下がっている。
 全人口に占める退職年齢層の割合は、1940年の7.1%から2010年の13.1%へと確実に増えている。1935年にはニューディール政策で社会保障制度が導入され、失業保険や年金が保障されるようになった。アメリカでは1959年に高齢者の貧困率は35%だったが、2003年には10%に減っている。だが、今後はふたたび貧困率が増大していくのではないか。
 年金の黄金時代は1970年代だった。余命が延び、退職者の所得が増えたことから、高齢者向けのあらたな産業やコミュニティも生まれた。しかし、現在は老齢人口が増え続けるなか、退職後の生活の持続可能性への懸念が高まっている。中産階級労働者の49%が退職後に貧困線以下、もしくは貧困線以下で生活するようになるという最近のデータもでている。預金口座にわずかな資金しか残っていない多くの労働者は、65歳を過ぎても働きつづけなければならない状況にある。
 だんだんしんどくなってきたので、きょうはこのあたりにしておきましょう。

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タシケントのガンダーラ仏──ウズベキスタンの旅(13) [旅]

 5月16日(木)
 朝早くホテルを出発し、サマルカンド駅にやってきました。荷物をもっての移動は少したいへんですが、駅の構内はさほど混み合っていません。
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 6時38分の列車アフラシャブ号に乗ります。
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 途中、ティムールが進軍するときに軍を集結させたというティムール・ゲートを通過します。
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 シルダリヤ(シル川)を渡ります。
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 9時前、タシケント駅に到着しました。
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 最初に訪れたのはヤッカサライ・モスク。この一角に、ソ連時代に抑留された日本人の墓地があります。
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 タシケントには9760人の日本人が連行され、住宅や道路、運河、劇場などの建設に使役されました。この墓地には79人の日本人が葬られています。慰霊碑に手を合わせるご夫妻の写真をとらせてもらいました。
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ウズベキスタンの人のお墓。墓石には生前の写真が彫り込まれています。
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 スーパーでの買い物タイムのあと、タシケントのウズベキスタン歴史博物館にやってきました。ここには石器時代から18世紀ころまでの文物が展示されています。
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 詳しいことはわからないのですが、いくつか気になった展示を紹介しておきましょう。
これは蛇の分銅。フェルガナ地方で発見されたもので、紀元前2000年ごろペルシアでつくられたものだといいます。何に用いられたのでしょう。
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 これは紀元前5世紀ごろ、アムダリア河畔の古代都市で発見された祭司の像。
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 同じく腕輪。
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 ヤギのとって。ヤギの姿が躍動的です。
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 カラカクパクスタンのブルリカラで出土した紀元前1〜3世紀の人物像。貴人でしょうか。
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 これは鏡ですね。紀元前1〜2世紀の女性の墓からの出土品です。鏡はシルクロードを通って中国からもたらされたのでしょうか。
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 テルメズ近郊の仏教遺跡から出土した塑像。1〜2世紀ころのものです。伎楽の面に似ていませんか。
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 これも同じ。
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 ひとつひとつ紹介していてはきりがありません。しかし、なかでも圧巻は、テルメズ近郊のファヤズテペ遺跡から発掘された1〜3世紀くらいの仏像でした。ここには広大な僧院がありましたが、玄奘三蔵法師が訪れたときには、すでに土に埋まっていたようです。
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 あまりに完璧な像なので、アップした写真も載せておきましょう。平和を祈る念が伝わってきます。いつの時代も世界中どこでも、人の思いは同じです。なおこの像を発見したのはガイドさんのいうように加藤九祚先生ではなく牧夫のアブサド・ベクナエフという人です(加藤先生自身が『中央アジア遺跡の旅』という本で紹介されています)。
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 この博物館には、ほかにもイスラム時代の遺物やティムールにまつわる絵画、スターリン時代の弾圧の記録も保存されています。ウズベキスタンでもスターリン時代、密告により多くの人が処刑され、7000人以上が犠牲になったといいます。有名なのはアブドゥラ・コディリ(1894-1938)という作家です。いまはタシケントの地下鉄の駅名にも、この人の名前がつけられています。
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 もっと時間と知識があれば、ここで1日過ごすこともできたでしょう。しかし、残念ながら帰国の時が迫っていました。ほんの1時間ほどの見学でおしまいです。

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ゴードン『アメリカ経済──成長の終焉』を読む(7) [商品世界論ノート]

 20世紀がアメリカの世紀になったのはなぜか。そして、それはどこに向かおうとしているのか。本書は経済面で、そのことを探ろうとしている。引きつづき、ぼんやりじいさんののんびり読書がつづく。
 今回は自動車と飛行機の時代のはじまり。そしてテレビとスマホの時代をめぐって。
20世紀に乗用車やトラック、バス、航空機、トラクターなどが実用化されたのは、1879年に発明された内燃エンジンのおかげだという。アメリカでは1929年に自動車の世帯保有率がすでに90%に達していた。スーパーマーケットが登場するのも、自動車の利用が日常化したからである。
1958年から72年にかけては、全米に多車線の高速道路網が張りめぐらされる。航空技術も発達し、ジェット機が各地を結ぶようになる。
 戦後、アメリカではほとんどの都市で路面電車が廃止され、都市交通の中心はバスと車になった。各家庭では1950年代から60年代にかけ、2台の乗用車をもつのがふつうになる。だが、1970年以降はその伸びも収まり、自動車社会への大転換は終了する。
 自動車による1人あたり走行距離が鉄道を追い抜くのは1920年、飛行機が鉄道を追い抜くのは1956年である。鉄道の1人あたり旅客輸送距離は、1950年の360キロメートルから2012年の51キロメートルへと落ちこんでいる。
 乗用車とトラックの販売台数は、1929年に530万台、1941年に470万台、1950年に790万台、1955年に910万台に達した。自動車のモデルも増え、品質も向上していく。キャデラックやリンカーンが大企業の重役の車だとすれば、シボレーは新興の労働者階級の車だった。
 1950年から2010年にかけ、自動車の価格は相対的に上昇したが、その品質も大幅に向上している。安全装置や汚染防止装置も備わった。燃費も改善され、車は安全性が増し、より信頼に値するものとなった。政府がインフラに投資したことも手伝って、自動車による死亡率も減っていく。メンテナンスや故障修理の頻度や費用も減った。
 アメリカの自動車業界における重要な変化は、1970年代半ばから輸入車が増加したことである。その割合は1987年に42%というピークに達した。輸入車が増えた原因は、1979年と81年のオイルショックで、ガソリン価格が上昇したことである。なかでも日本車はデトロイトで製造される車にくらべ、小型で燃費がよく、品質もすぐれていた。
 州間高速道路の建設を決めたのは1950年代のアイゼンハワー政権である。この法律では費用の90%を連邦政府が、残りの10%を州政府が負担することになった。またガソリン税の税収も道路建設に組み入れられた。
 高速道路の建設はさまざまな経済効果をもたらした。最大の効果は輸送コストが削減されたことである。また人と物の移動がより活発になった。観光業界にもたらした影響も大きい。だが、そうしたメリットも1970年代以降は徐々に失われつつある、と著者はいう。
 いっぽう、1940年当時、航空業界はまだ黎明期にある。ジェット機が就航したのは1958年。それ以降、電子制御システムが導入され、燃費がけたはずれによくなり、機内エンターテインメントが導入されたことを除いて、航空機のスピードや快適さ自体にさほど改善はみられない。
 ジェット機は画期的だった。1936年には途中3回給油しながら、飛行機は西海岸から東海岸まで15時間でアメリカ大陸を横断することができるようになった。現在、ロサンゼルス・ニューヨーク間は5.6時間で結ばれている。
 航空機がすっかりジェット機に入れ替わったのは1960年代末である。それにより飛行時間は短縮されたが、それ以降、空の旅はけっして快適になっていない、と著者はいう。乗客は保安検査場に並ばされ、窮屈な座席に押し込められている。
 飛行機が大衆化し、だれでも乗れるようになったのは事実である。その安全性も向上した。製造上の欠陥、航空管制、機体整備も改善され、いまや空の旅はより安全になった。
 意外なことに距離あたりの航空運賃が相対的に下落したのは、60年代末のジェット機導入以前だという。それ以降、運賃は穏やかにしか下落せず、1980年以降は下落していないという。
 速度と快適さの点でみると、ジェット機での旅は1960年代以降、特段の変化はない。変化といえば1970年代末から規制緩和が進んだことである。航空会社はどの路線にも自由に参入できるようになった。すると、大きな航空会社が小さな会社を合併し、大会社どうしの競争が激しくなり、運賃体系はより複雑になった。だが、運賃そのものはけっして安くならなかった。
 その代わり、各社はマイレージ・サービスを導入するようになった。複雑な料金体系は、かえって格差を生み、空の旅の質を低下させている。「かつて乗客は、航空券の代金を支払いさえすればよかったが、今や各社とも乗客に追加料金を支払わせ、少しでも収益を増やそうとしのぎを削っている」と、著者はいう。
 次は娯楽と通信、端的にいって、テレビと電話の話だ。
「1940年以後の情報と娯楽の世界にはテレビが君臨した」と、著者は書いている。商業放送がはじまったのは、第2次世界大戦後。テレビはまたたくまにリビングにはいりこみ、それによりアメリカ人の生活は家庭中心になっていく。
 テレビの前段階にはラジオがあった。だが、テレビが家庭に浸透したあとも、ラジオはテレビの隙間で生き残った。それは映画も同じだ。映画はけっしてなくならなかった。いまではテレビやパソコン、スマホでも映画がみられるようになった。
 テレビ自体も進化する。1970年代半ばにはカラーテレビの時代になり、大型化し、ビデオやDVDと一体化し、さらにデジタル時代となる。
 電話はまず長距離通話料金が大幅値下げとなるところからはじまり、1980年代には携帯電話が登場して持ち歩けるものになり、いまではスマートフォンを使えば通話だけではなく、ウェブ検索やメールの受信、音楽や映画の鑑賞もできるようになった。スマホやソーシャルメディアにより、1970年以降、通信分野の進化はむしろ加速している。
テレビの開発には1870年以来の前史があるが、テレビが商業放送を開始するのは戦後になってからで、戦時中はもっぱらラジオが世界の動きを伝えるうえで大きな役割をはたしていた。そのころは映画産業も活況を呈し、「アメリカ人の娯楽費の23%が映画に費やされていた」ほどだという。
 テレビが普及するのは1950年以降だが、テレビのある世帯は1950年で全世帯の9%にすぎなかった。しかし、わずか5年後には64.5%に達し、1960年には90%以上の世帯に普及した。もちろん、それはテレビ放送の視聴可能エリアが広がり、番組が増えたからでもある。
 全世帯に普及する前は、アメリカでも人びとは公共の場や食堂、あるいは近所の家でテレビを見ていた。子どもにせがまれてテレビを買う家庭も多かった。購入理由でもっとも多かったのは、スポーツ観戦である。その後、ドタバタ喜劇もおおはやりとなり、人びとをなごませようになった。2005年にアメリカではテレビの1日あたり平均視聴時間は8時間に達している。
 テレビは世論を左右する力をもつようになった。それが典型的にあらわれたのが、1960年のニクソンとケネディの大統領選テレビ討論だった。このとき、ケネディは視聴者に圧倒的な好印象を与えた。公民権運動にテレビがはたした影響も大きかったといわれる。
 テレビの影響で、戦後、映画の観客動員数は激減した。そのため映画はあの手、この手を使って、観客を引きつけようとした。1990年代半ばには巨大シネマコンプレックスが誕生するが、観客数自体はけっして増えていない。それでも映画は生き残った。映画の大画面はテレビにはない迫力や醍醐味、洞窟の快楽めいたものを味わわせてくれるからだ。さらに収入面で映画が生き残ったのは、映画館での上映のあと、テレビでも放映され、あるいはDVDやNetflixなどでも見られるようになったことも大きい。
 ラジオもテレビの隙間をぬって生き残った。ラジオを聞くことはきわめて個人的な行為となり、そこからは、それまでとはちがう楽しみや憩いが生まれたのだ。
 音楽の世界も激変する。終戦から30年はまだレコードプレーヤーの時代だった。レコードは78回転から33回転のLPへと進化し、さらにシングル盤も登場した。磁気テープレコーダーは録音可能時間が長く、しかも編集が可能で、プロのあいだで広くもちいられていた。60年代に登場したカセットテープは、テープレコーダーとの組み合わせで、音楽の幅を広げ、通勤の車のなかでも、好きなアルバムを聴くことができるようになった。ウォークマンが出現すると、どこでも音楽を連れていけるようになった。
 画期的なのはコンパクトディスク、つまりCDの発明だった。1978年から88年にかけレコードの売り上げは80%減少する。CDにとって代わられたのだ。しかし、21世紀にはいると、そのCDもiPodとデジタル音楽のダウンロードによって売り上げを激減させることになる。
 携帯できることが重視されたのは音楽の世界だけではない。電話も同じだった。交換手なしに直接ダイヤルで電話が通じるようになったのは1943年以降である。1951年にはニューヨークとカリフォルニアとのあいだで、ダイヤルで電話がつながるようになった。電話が自動化できたのは、1948年にトランジスタが発明されたためだという。「自動化によって効率性が向上し、オペレーターを使う必要性が減ったおかげで、電話が素早くつながって利便性が上がり、通話料も安くなった」
 セル方式の移動電話が登場するのは1970年代になってからである。最初は自動車電話で、レンガのように大きかった。携帯電話が普及するのは1990年代末になってからだ。2000年以降、携帯電話は通信手段として固定電話を抜くようになる。さらにスマホの登場は、人びとのライフスタイルを大きく変えようとしている。いまでは固定電話をやめる家庭も増えている。
 1960年代からは、ニュース、とりわけ速報で映像を伝えるテレビニュースが大きな威力をもつようになった。新聞購読数は戦後に頂点を迎えたあと、緩やかに減少しはじめる。しかし、記事に分析を織り交ぜるなどして、独自の工夫もこらし、生き残りをはかった。
 1990年代末になると、インターネット配信があらわれ、テレビと新聞の競争相手となった。スマホやタブレットをもつ人の大多数は端末でニュースを読むようになった。ブログやチャットも、人びとの関心を引きつける情報源となった。
 娯楽と通信が進歩するスピードは鈍化していない。「デジタルメディアへ向かう流れは1990年代に生まれ、過去15年に加速した」。
 2001年に登場したiPodは、コンピュータにダウンロードして音楽を再生できる装置だった。アナログAV機器からデジタルAV機器への移行は段階的に進んだ。YouTubeやNetflixのような映像ストリーミングサービスも登場した。Kindleをはじめとする電子書籍は、デジタル書籍へ向かう流れを生みだした。スマホが1台あれば、単に電話をするだけではなく、音楽を聴いたり、ニュースを見たり、メールを送ったり、情報を検索したりすることもできるようになった。スマホのアプリは爆発的に増え、ゲーム会社やソーシャルネットワーク会社に大きな成功をもたらしている。
 こんな時代がくるとは、マルクスもケインズも予想していなかっただろう。いま、いったい世界はどこに向かっているのか。そんな不安をいだきつつ、耄碌しかけたじいさんは、きょうもうつらうつらしながら、本のページをめくるのである。

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サマルカンドの昼──ウズベキスタンの旅(12) [旅]

 5月15日(水)
 シャーヒ・ジンダ廟を見学したあとは、ショブ・バザールに。ここで父のおみやげとして、お皿とカップを買いました。
 バザールの手前には、ハズラティ・ヒズル・モスクがあります。古代、ここにはゾロアスター教寺院がありましたが、その後、モスクとなり、そのモスクもチンギスハンによって破壊され、19世紀に再建されたといいます。独裁者と呼ばれたカリモフ前大統領もここに眠っています。
_DSC0671 2ハズラティ・ヒズル・モスク/サマルカンド.JPG
 アレクサンドロス大王が築いたといわれる土塁も残っています。
_DSC0673 2アレキサンダー大王の作った壁・サマルカンド.JPG
 バザールでは、ガイドさんがおすすめのナッツ類を教えてくれました。
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 いろいろなものが売られていて、にぎやかです。
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 買い物をすませ、隣にあるビビハニム・モスクを訪れます。
_DSC0684 2ビビハニム・モスク/サマルカンド.JPG
 このモスクもティムールがつくったものです。ティムールの死の直前、1404年に完成しました。ビビハニムはティムールの妃で、彼女にまつわるさまざまな伝説があります。
 ここも革命時代に破壊されましたが、1990年代に修復されたといいます。アーチをくぐって、なかにはいると、ウルグベクが寄進したといわれるコーランの本を置く石の台(ラウヒ)が置かれていました。
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 修復以前の写真が残されていました。ほとんど廃墟ですね。
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 いまモスクの内部は、きれいに修復されています。
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 ビビハニム廟です。
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 食事をしてから、ふたたびレギスタン広場に。道路にクラシックカーのような車が停まっていました。ロシア製のヴォルガでしょうか。
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 きのう夜景を見たレギスタン広場にやってきました。中央がティラカリ・メドレセ、左がウルグベク・メドレセ、右がシェルドル・メドレセです。
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 いささか昼間のビールがきいたのと、猛暑も加わって、肝心な場所なのに、ぐったりくたびれました。ガイドさんの説明も上の空、見学もおざなりに。
 しかし、まずは広場にはいり、ウルグベク・メドレセの前を通って、と。
_DSC0724 2ウルグベク・メドレセ/サマルカンド.JPG
 右手のシェルドル・メドレセもりっぱです。
_DSC0726 2シェルドレ・メドレセ/サマルカンド.JPG
 アーチには人面の日輪を背負ったライオンがシカを追っているモザイク画がみえます。偶像崇拝を禁じるイスラムらしからぬ絵柄です。
_DSC0727 2.JPG
 正面のティラカリ・メドレセ。左のドームは工事中ですね。
_DSC0729 2ティラカリ・メドレセ/サマルカンド.JPG
 そのなかにはいってみます。
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 礼拝所は金で装飾されていました。天井もみごとです。
_DSC0733 2.JPG
 ウルグベク・メドレセのシンボルは青い星ですね。
_DSC0747 2ウルグベク・メドレセ星模様/サマルカンド.JPG
 その奥にも礼拝所がありました。
_DSC0751 2.JPG
 これでサマルカンドの見学も終わりです。ホテルに戻る途中、ティムールの像をみつけました。
_DSC0768 2ティムールの像/サマルカンド.JPG

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ゴードン『アメリカ経済──成長の終焉』を読む(6) [商品世界論ノート]

 本書では1870年から2014年までのアメリカ経済史の流れが、1870〜1940年、1940〜2014年の約70年ごとに二分されている。
 しかし、1870年から2014年までの経済発展をみるには、1940年で二分するよりも、(1)1870〜1920年、(2)1920〜1970年、(3)1970〜2014年と50年ごとに三分したほうがよいかもしれないことを著者も認めている。
 それによると、(1)が始動期、(2)が加速期、(3)が減速期になる。
 (2)の時期は、電気と内燃エンジンという19世紀末の発明(第二次産業革命)が、新たに実用化された商品を生みだし、それが普及した時期と重なる。1940年以降の(2)の後半期は高成長がもたらされ、エアコン、高速道路、飛行機、テレビが人びとのライフスタイルに浸透していった時期と重なる。
 第二次産業革命のもたらした範囲は広く、およそ人間活動の全域におよぶ。すなわち、この時期に、食料、衣服、住宅、輸送、娯楽、通信、情報、健康、医療、労働環境の面で、人はこれまでにない多くの満足すべき成果を得たのである。
 だが、年代区分はいずれ恣意的とならざるをえない。
 これまでの第1部では、1870年から1940年までの生活水準の発展をみてきた。
 この時期、都市部では、ほぼどの家庭にも電気、ガス、水道が普及した。いわば都市がネットワーク化されたのである。遅ればせながら農村部でもネットワーク化は進み、農業の生産性は大幅に上昇した。
 全人口に占める都市人口の割合は、このかん25%から57%に上昇している。1人あたり実質GDPは、1870年は2770ドルだったが、1940年には約3倍の9950ドルになっている。だが、数字に表れる以上に、この70年は生活の質の向上がもたらされた時代だった、と著者はいう。そのことはこの時期の平均余命の伸びをみても明らかで、その分、近代化が進展したのである。
 これに対し、1940年から2014年はどうか。1940年から1970年まではたしかに高成長がつづいた。さらに、1960年代末に第三次産業革命が発生した。すなわちIT革命である。IT革命は、その後、通信や娯楽の面に大変革をもたらすことになる。
 だが、1970年からはかえって成長が鈍化する分野が増えてくる。生活水準はむしろ伸び悩んでいる。1人あたりGDPの伸び率も低迷した。経済効果の面でみるかぎり、第三次産業革命は第二次産業革命ほどの成果をもたらしていない。その意味をどうとらえればいいのかが、後半の課題になるだろう。
 本書はここから第2部(日本語版では第2巻)にはいる。引きつづき、それを追ってみる。

 最初は、1940年から2015年までの衣服住、すなわち生活の基本要素の変化についてである。
 まず食品をみると、1940年のアメリカでは肉の摂取量が減り、食品の種類が多様化し、野菜やパスタ、シリアルの消費が増えている。
 すでに1930年代からチェーンストアに代わって、スーパーマーケットが繁栄しつつある。戦争の時代は、砂糖や肉、果物、缶詰などが配給制になっていたが、配給制が解除されると、食卓は一気ににぎやかになる。
 1940年から50年にかけ、平均収入に対する家庭内の食費の割合は25%程度、外食費の割合は7%にのぼっていた。食費の割合が3割以上と大きいのは、この時期、実質所得が落ちこんでいたためだという(つまりインフレが進行していた)。だがその後、収入が増えてくると、食費の割合は徐々に減りはじめ、2000年には家庭内の食事がほぼ8%、外食の割合はほぼ5%になる。1960年から80年にかけては、家庭内の食事から外食へという流れが強くなった。
 肉類の1人あたり摂取量は一時減ったが、2010年の摂取量は1870年と変わらないところまで戻ってくる。戦後の特徴は牛肉が多少減り、鶏肉の需要が増えたことだという。油脂類ではラードがほぼ姿を消し、サラダ油やコーン油、オリーブ油の需要が増えた。マーガリンの売り上げも伸びている。果物と野菜がますます重要になるとともに、戦後は冷凍食品の消費が急増した。
 1930年から60年にかけて、食品を買うのはスーパーマーケットが中心となった。消費者はひとつの店で、さまざまな食品を買い、その代金をレジでまとめて支払う。バーコードによる値段の読み取りができるようになるのは1980年代からだ。それまでは会計係が商品に付けられた値札をみて、レジに値段を打ちこまなければならなかった。
 食品の種類は1980年代から2015年にかけて増えていき、選択肢が多様化した。著者によれば、平均的なスーパーの在庫は1950年に2200品目だったが、1985年には1万7500品目に増えた。しかし、スーパーが大きくなりすぎて、かえって買い物がたいへんになると、便利なコンビニがはやるようになる。
スーパーマーケット業界は、1990年以降は、より高級志向の食料品小売チェーンとより低価格の大型量販店にはさまれて苦戦しているようだ。
 戦後、多くのファストフード店が生まれた。これは家計に余裕がでたことと、女性の労働参加が進んだことに関係している。
 現在のファストフード店は、まるで組み立てラインができているように工場さながらの効率のよさを実現しているのが特徴だ。
 アメリカでは、1945年から1975年にかけ、所得格差が縮小した。その後、この「大圧縮」の時代は逆転し、いまでは上位層、中間層、下級層のあいだで格差が広がっている。3つの層では、食べるものにも「天地の差」があるという。新しい階級社会が生まれたという言い方も誇張ではなさそうだ。
 アメリカ人の1日あたり摂取総カロリーは、1970年以降20%以上増大した。その原因は揚げ物類の増加にある。その大半はファストフード店でとられている。
 貧困層のあいだでは肥満、とりわけ子どもの肥満が問題になりつつある。「貧困家庭の子どもは暇をもてあまし、テレビの前に座って脂肪量とコレステロール値を高める安価なファストフードを食べている」。肥満を助長するのが、ビデオゲームだ。肥満が糖尿病や心臓病を引き起こし、今後、平均余命が短くなることを著者は懸念している。
 次に衣を取りあげよう。
 1940年から2010年にかけ、消費に占める衣料品の割合は大きく減少し、10%から3%へと低下した。「他の消費財やサービスに比べ、衣服は長期にわたって一貫して安くなった」という。
 とりわけ1980年以降は、輸入品が国産品に取って代わった。その結果、所得に占める衣服の割合が低くなり、消費の対象が衣服以外に向かうことになった。
 素材面でいえば、1940年以降はこれまでの綿やウール、絹に加えて、化学繊維が大きな割合を占めるようになった。化学繊維の品質は次第に向上していく。衣服の嗜好も変わった。堅苦しいものより、カジュアルウェアやスポーツウェアが好まれるようになった。
 衣料品はアジアからの輸入品が主流になったため、アメリカではアパレル産業の雇用が大きく失われた。いったんあけられたパンドラの箱は、もはや元に戻せない、と著者も感じている。
 最後に住宅について。
 アメリカの都市化率は1940年の56.5%から1970年の73.4%に上昇する。それにともない、現代的設備の整った住宅が普及した。1950年にはアメリカ全土に電力網が広がり、屋内の水洗トイレやバス、シャワーも行き渡る。1970年から2010年にかけては空調設備が普及した。
 戦後は世帯数に対する住宅着工件数は長期にわたって低下しつづけている。それは建築費が上昇したことと、人口増加率が徐々に低下していることに関係している。アメリカの住宅は戦後、規模も大きくなり、部屋数も増え、設備も充実した。さらにいえば、伝統的なリビングルームや正式なダイニングルームを小さくして、ファミリールームを広げる傾向が強まったという。
 設備面でいうと、1940年の段階で、冷蔵庫はまだ44%、洗濯機は40%の普及率にとどまっていたが、1970年にはほぼ100%を達成。1952年にオーブンやレンジをもつ家庭はまだ24%だったが、1990年には99%となった。1980年に8%にすぎなかった電子レンジはあっという間に普及し、2010年には96%に達した。食洗機は2010年時点で60%の家庭が所有するようになっている。
 冷蔵庫は急速に進化した。大きさはほぼ2倍になり、食品の保存機能が高まり、安定した冷凍機能をもつようになった。消費電力も大幅に減る。修理の必要はほとんどなくなった。進化したのは洗濯機も同じだった。容量が大きくなり、全自動化が進んだ。
 戦後の特徴はエアコンが普及したことである。エアコンのエネルギー効率は急速に改善された。重量も軽くなり、設置が容易になり、コストも安くなったことから、急速に家庭にとりいれられることになった。工場でもエアコンは仕事の効率を高めた。そのため、企業は工場を北部から南部に移すことも可能になった。
 電子レンジは1965年に初めて商品化されたが、その後、計量化と小型化が進み、電子制御機能も加わり、値段も安くなった。そのため、一斉に普及する。しかし、いずれの家電も、1990年以降、品質の向上はほぼ頭打ちとなった、と著者はいう。
 戦後の住宅で目立つのは、郊外化とスプロール化である。自動車の普及にともない、郊外では大規模土地開発が進むいっぽう、都市の中心にはスラムが形成された。郊外には巨大なショッピングモールがつくられていく。
 ヨーロッパでは、都市のスプロール化は生じていない。それについて、著者は「ヨーロッパの土地利用規制は、郊外のスプロール化を防ぎ、都市中心部の歩行者専用区域を保護する役割を果たすものだが、経済全体の生産性や一人あたり実質生産性の低下という大きなコストになっている」と指摘する。土地にたいする日本の考え方は、むしろアメリカに近い。そのためバブルに翻弄された。
 アメリカで深刻な問題となっているのは、旧式の工場をかかえるラストベルト地域が衰退したことである。北部の工業地帯から多くの人口が南部や南西部に移動していった。シカゴやフィラデルフィアの一部、クリーヴランドやデトロイト、セントルイスの中心街はゴーストタウン化している。黒人差別がスラム化を促進した面もある。「貧困層の多くは都市のスラムと食の砂漠から抜け出せないままでいる」。地域格差が教育格差を助長していることも大きな問題だ、と著者は指摘している。
 きょうはこのあたりにしておこう。商品世界全体が飽和状態に達し、それから大きな格差やひずみを生みだしながら、減退していく様子をみるには、ほかに交通や通信、娯楽、医療、労働環境にも目を向けていかなければならない。ゴードンの本書は、そのあたりもえがいている。
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サマルカンドの朝──ウズベキスタンの旅(11) [旅]

 5月15日(水)
 リシャルド・カプシチンスキは『帝国』で、ティムールについてこう書いています(工藤幸雄訳)。

〈ティムールは史上の奇異な現象なのである。その名は何百年となく恐怖の的とされた。……彼は死を運んだ、そしてその任務に半日を費やした。あとの半日、彼の熱中したのが藝術であった。藝術の普及に対するティムールの献身たるや、死の普及に対する熱意に劣らなかった。……ティムール帝国にあって、最良の避難所となったのが才能である。ティムールは、こうした才人らをサマルカンドへと引き入れ、有能な人士の獲得に鵜の目鷹の目となった。……藝術家たちは花開き、サマルカンドも花と開いた。この街こそティムールの誇りであった。〉

 そのティムールのサマルカンドにいます。ティムールの時代なら、ぼくなどはあっさり殺されてしまっていたでしょう。
 泊まったホテルは空港の近くでした。
 けさはまずシャーヒ・ジンダ廟に行くことになっています。
 バスに乗ってすぐのところに、ウルグベク天文台があります。残念ながら見学の対象ではありませんが、ウルグベクは1年の時間を正確に計り、1018の星の軌跡をここで観察したのでした。
_DSC0608 2ウルグベク天文台下サマルカンド.JPG
 ウルグベクはティムールの孫で、ティムール帝国4代目の君主ですが、天文学者でもあり詩人でもありました。しかし、首を斬られ暗殺されるという悲劇の最後をとげます。その銅像が建てられています。
_DSC0609 2ウルグベクの像・天文台下サマルカンド.JPG
 シャーヒ・ジンダ廟に到着。時刻は8時です。ガイドさんによると、朝早く来ないと、大混雑になるといいます。
IMG_2619.JPG
 正しくはシャヒーダ・ジンダだとガイドさんはいいます。受難の聖人という意味だそうです。7世紀にムハンマドのいとこクサム・イブン・アッバースがサマルカンドに布教にやってきて、不幸にも首をはねられ、殺害されます。
 そのクサム・イブン・アッバースを祀ったのが、シャーヒ・ジンダのはじまりでした。いちばん奥にある11世紀の廟がそれですが、のちに、ここにはさまざまな廟がつくられることになります。主にティムールとかかわりのある女性たち(乳母や妃、妹、姪)の廟が中心です。
 ウルグベクのつくった入り口の門をはいったところにある建物の天井がきれいだったので、カメラに収めました。
_DSC0610 2シャーヒズィンダ廟群.JPG
 ガイドさんによると、それまで口承で伝えられていたコーランが、はじめて文字で書き記されたのも、ここサマルカンドにおいてだったといいます。
 サマルカンドは13世紀にモンゴル軍によって徹底的に破壊され、コーランはバグダッドに移されますが、ティムールがこれを取り返したといいます。ウズベキスタンがロシアの支配にはいると、コーランはロシアにもっていかれますが、これも返却され、現在はタシケントにその原本があるそうです。
 天国の階段と呼ばれる階段をのぼっていきます。左手に、青いドームをもつコシュ・グンバズ廟があります。ウルグベクの天文学の先生を祀った廟とされていますが、ほんとうのところはだれが祀られているか、よくわからないといいます。
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 タイル模様がきれいですね。ガイドさんが、図柄についてくわしく説明してくれましたが、すっかり忘れてしまいました。
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 さらに階段をのぼっていきます。のぼりきった右手にあるのが、ティムールの将軍にちなむトゥグル・テキン廟。
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 つづいて、ティムールの妹を祀るシリンベク・アカ廟。
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 ふり返って、小道の写真を1枚。
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 柱のかたちがおもしろい。
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 だんだん、青の世界に酔ってどれが何という廟がわからなくなってきます。
 豪華な扉のなかにはいっていきます。
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 廟のなかのタイルもみごとです。
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 シャーディムルク・アカ廟。ティムールの姪を祀った廟です。
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 内装も美しいですね。
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 いちばん奥までやってきました。
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 吸い込まれるように、なかにはいっていきます。すると、みごとな天井装飾が。
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 別の部屋にもこんな天井が広がっています。
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 部屋のタイルも豪華です。
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 ふたたび、天国の階段を下りていきます。
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 坂の途中にある廟をもう一度。まだ9時前だというのに、気温はどんどん上がっています。
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サマルカンドに到着──ウズベキスタンの旅(10) [旅]

 5月14日(火)
 夕方5時ごろ、サマルカンドに到着します。
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 バスはそのままグル・アミール廟へ。ここにはティムールの孫、ムハンマド・スルタンのメドレセ(神学校)がありました。その孫がトルコ戦役で戦死したのをしのんで建てられたのが、グル・アミール廟です。
 のちにティムールやその息子や孫も、この廟に祀られることになります。ティムール自身は、サマルカンドでなく、シャフリサブスで眠りたいと漏らしていたようですが、その希望はかなわなかったようです。
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 ソ連時代の1920年代にこの廟は塔もろとも破壊されましたが、復元されたといいます。その門をくぐってみます。
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 礎石しか残っていない場所に、かつてはメドレセが建っていました。
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 廟のなかにはティムールの肖像とその版図がえがかれています。ティムールが支配下においたのは、現在の中央アジア諸国だけでなく、イラン、イラク、アフガニスタン、パキスタン、インドの一部、トルコの一部、ロシアの一部を含む広大な地域でした。
_DSC0570 2ティムールの肖像グル・アミール廟/サマルカンド.JPG
 ティムールの一生は戦争に明け暮れたといえます。亡くなったのは68歳のときで、1405年に中国遠征を試みる矢先でした。
 めざしたのは新モンゴル帝国の建設だったのかもしれません。そのティムール帝国も、かれの死後100年ほどしかつづきません。しかし、のちにその王族のひとりバーブルがインドにはいって、ムガール帝国を築くことになります。ちなみにムガールとはモンゴルのこと。
 墓室にはいります。いくつも墓が並んでいますが、黒い玉でつくられているのが、ティムールの墓です。
_DSC0576ティムールの墓(黒).JPG
 もう少し近づいてみましょう。柩の正面には何やら文字が刻まれています。これがかの有名な「私が死の眠りからさめたとき、世界は恐怖に見舞われるだろう」という文言でしょうか。アラビア語が読めないので、ほんとうのところ、よくわかりませんが、たしかにりっぱな柩にはちがいありません。
_DSC0574 2ティムールの墓(黒).JPG
 グル・アミール廟の北側にはルハバッド廟というシンプルな廟もあります。神秘主義者のシェイヒ・ブルハヌッディン・サガルジが祀られているとか。イスラム神秘主義というと井筒俊彦さんを思いだしますね。
_DSC0588 2.JPG
 いったんホテルにチェックインし、それからレストランで夕食。
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 おいしそうですが、例によってぼくの胃はすでにくたびれています。
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 ふたたび、ライトアップされたグル・アミール廟へ。
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 月が空高くのぼっているのが幻想的。
_DSC0592 2.JPG
ライトアップされたレギスタン広場も訪れました。大勢の観光客が集まっていました。時刻は夜9時ごろです。
_DSC0596 2レギスタン広場サマルカンド.JPG

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ゴードン『アメリカ経済──成長の終焉』を読む(5) [商品世界論ノート]

 ここからは、1870年から1940年にかけての生活環境の変化をみていく。
 商品世界の進展は、労働者の資本家への隷属をますます強め、労働者の困窮を広げていっただろうか。事態はマルクスの予想と逆に動いた。少なくとも、1870年から1970年までの100年については、そうだったといえる。
 イノベーションにもとづく新商品には、消費者の厚生を高め、余暇活動を広げ、家事労働の負担を軽減する効果があった。自動車や冷蔵庫、掃除機などの家電製品をみてもそのことがわかる。そのことが同時に平均余命(寿命)の伸びをもたらす、ひとつの要因ともなった。
 とりわけ注目すべきは、1900年から1940年にかけ、乳児死亡率が低下したことである。都市の衛生インフラ(たとえば上下水道)が整備され、危険な食品や薬品への規制がなされようになったことも、平均余命の伸びと無関係ではない。加えて、より直接的な要因としては、もちろん医療技術の進歩を挙げなければならない。
 1900年時点では、都市部の白人男性の平均余命は39.1歳と、農村部の46歳よりも低かった。これは都市の生活環境が悪く、新鮮な食べ物を得るのが難しかったからである。しかし、1900年と1940年を比較すると、都市部と農村部の差は縮小し、平均余命は白人男性が48歳から63歳に、非白人男性は33歳から52歳に伸びている。白人と非白人の余命のちがいは、とりわけ南部の生活環境の差によるものと思われる。
 平均余命の増加は、前に述べたように、乳児死亡率の低下が大きな要因だが、感染症による死亡率が低くなったことも大きい。1918年から19年にかけてのスペイン風邪(インフルエンザ)は例外的に多くの死者をだしたが、当時はまだウイルス研究がじゅうぶんに進んでいなかった。著者は上水道システムの普及や、パスツールの病原菌理論にもとづくワクチンの開発、住宅環境の整備、公衆衛生の浸透、大気汚染対策、食品の安全管理、疫学予防、病院と薬局の整備などを寿命増加の要因として挙げている。
 さまざまな医療器具が開発され、医師が専門化し、医療行為が市場性をもつようになったことも見逃せない。それまでは、医療は家庭か近隣の協力でなされるものだった。自動車は医師の行動範囲を拡大した。電話で緊急に医師を呼ぶことも可能になった。
 病院数は次第に増えていったが、それでも、まだ病気や怪我は自宅で治すという人は多く、その場合、病人は医師の往診を待つほかなかった。出産も家庭でおこなわれることがまだ一般的で、病院での出産が5割にのぼるのは1920年代になってからである。
 看護学校が誕生するのは1870年代。1920年代には病院の建設ラッシュがはじまる。それにより病院はより快適なものとなり、病室も個室や半個室がつくられるようになった。1930年ごろ、病院を運営するのは、連邦政府ないし地方政府が28%、教会や個人、非営利組織が72%といった割合だった。
 医学は着実に進歩し、麻酔薬が開発され、手術での苦痛も軽減されていく。ワクチンは感染症の脅威を軽減した。公衆衛生面では、清潔と消毒のたいせつさがより認識されるようになった。
 医療費は当初、さほど高くなかった。往診する医者は、個人事業主で、患者を診察・治療するたびに料金を請求した。医療費が上がりはじめたのは1910年ごろからである。このころ医学校改革がなされ、医者がより専門家になると、医師の免許制がいわば独占に似た状況を生みだし、診療報酬が押し上げられていった。現代的な医療機器による治療や入院費の増加も医療費を高くする要因となった。
 アメリカでは全国民を網羅する医療保険がなかなかできなかった。労働者の一部は産業の疾病基金でカバーされていたが、失業すると、たちまち所得と健康保険の両方を失った。長期入院を強いられると、年収の3分の1から半分の医療費を請求されることもあった。ニューディール政策では強制失業保険と社会保障法が成立したものの、国民健康保険の導入にはいたらなかった。
 事故についてはどうだろう。エジソンの発明した電球が職場での事故を減らした、と著者は指摘する。とはいえ、事故はまだ多かった。馬と人間が衝突することもあった。鉄道や船の事故も少なくなかった。それが一段落すると、今度は自動車事故である。1920年には、自動車事故による死者が鉄道事故の倍になった。だが、それも徐々に改善されていく。
 殺人率は1930年代に10万人あたり10人と上昇するが、1950年にはほぼ半減し、1980年代にふたたび上昇して、10万人あたり11人のピークをつけた。1930年代の殺人による死亡者数は、自動車事故のほぼ3分の1である。殺人には地域格差が大きい。北部が比較的少ないのにたいし、南部はきわめて高い。しかし、南部よりさらに高かったのが西部開拓地だった、と著者はいう。
 生活水準上昇の度合いは、1人あたりGDPの伸びよりも大きい、と著者はみる。GDPの増大は生活の質の変化と消費者余剰をもたらすからだ。とりわけ、その恩恵は死亡率の低下と平均余命の増加にあらわれる。平均余命の増加は、医療産業の進歩によるだけではなく、もっと総合的なものである。
 次に取りあげられるのは、職場と家庭の労働環境である。
 1870年代から1940年代にかけ、それらは多いに改善された。職場の労働時間は着実に短くなり、64時間だった週の労働時間は、1940年以降48時間に減少した。定年退職という概念も一般的になる。児童労働はほぼ消滅した。
 機械の導入により、きつい農作業は緩和された。それは食肉処理などの職場でも同じである。縫製工場の劣悪な労働環境も次第に改善されるようになった。
 女性の労働参加率は徐々に上昇した。1870年には12%だったが、1940年には26%に達し、2000年には72%まで上昇している。いっぽう、男性の労働参加率は1870年から1940年で95%で、その後減ったといっても2000年でも88%を保っている。
 10歳から15歳までの児童労働は1880年には男子が30%、女子が10%あったが、1940年にはほぼ4%に低下している。19世紀後半、少女たちは水くみや洗濯、台所仕事、縫い物、子どもの世話と、めまぐるしく働いていた。
 1910年ごろから若年男子(16〜24歳)の労働参加率が低下するのは、高校への進学率が増えたからである。戦後はさらに大学進学率の増加によって、若年労働者の労働参加率は低下する。いっぽう、若年女子の労働参加率は徐々に高まっていく。そのため2000年ごろにおいては若年の男子と女子の就職率はほとんど変わらなくなった(60数%)。
 かつては死ぬまではたらかねばならなかった高齢男性は、社会保障制度が充実するにつれ、退職し、余生を楽しむことができるようになった。65歳〜74歳の男性の労働参加率は、1870年には90%近かったが、1940年には53%、1990年には24%に低下している。
 労働の質も変わった。機械や道具の導入によって、それまでのつらく退屈で危険な労働が軽減された。農場労働者や作業員の数も減ってくる。人力による運搬や掘削などの仕事はトラックや掘削機に取って代わられた。製造業の組立工も1970年以降はロボットによって代替されるようになる。
 いっぽうブルーカラーに代わって増えてくるのが、ホワイトカラーや管理・専門職である。不快な仕事に従事する人の割合は1870年の87.2%から2009年の21.6%へと段階的に低下した。1870年から1970年にかけては苛酷な業務が反復的な業務へと変わり、1970年以降は非定型的な認識業務が増えてくる、と著者はいう。
 労働時間も減った。1870年には労働時間は週6日、1日10時間が一般的だったが、1940年には週5日、1日8時間がふつうになった。労働時間が減少したのは、労働時間の短縮によって労働の質が上がり、かえって労働生産性が上昇すると考えられたからである。時短と労働生産性の上昇は、実質賃金の上昇と結びついていった。
 ここで、農業に目を転じてみよう。その労働環境は、土地の肥沃度や気象の安定性、さらには家畜や農機具による負担軽減にかかっている。1862年のホームステッド法は、開拓を促進したものの、土地の劣化をももたらした。開墾は重労働だった。
 機械化が促進される19世紀後半まで、農業の生産性は低かった。1830年以降は馬が使われるようになっていたが、その後、内燃エンジンが開発され、余裕のある農家はトラクターや小型コンバインを取り入れるようになる。干魃や害虫に強いトウモロコシのハイブリッド種も開発された。これらにより、農業の労働環境が改善されていく。
 ただし、制度的な問題もある。アメリカでは南部と北部では、農業の制度がことなる。南部では黒人奴隷解放後も、小作人制度が幅をきかせていた。土地を所有する地主は小作人を雇って、作物や綿花を育てさせ、その収穫の半分を受け取っていた。19世紀後半から20世紀はじめにかけて、南部の黒人小作人の生活はみじめなものだったという。
 1870年から1940年のあいだに、アメリカは農村国家から都市国家に移行する。そのかん、都市人口の割合は25%から57%に上昇した。都市人口の割合が増えたのは、移民が都市に住み着いただけではなく、農村から都市への移住が増えたからである。
 労働環境が厳しかったのは農村だけではない。鉱山、とりわけ炭鉱は危険と隣り合わせであり、肺病にかかる確率も高かった。食肉処理場の労働環境も苛酷だった。鉄鋼業では、長時間労働と苛酷な労働環境が労働者の生活をむしばんでいた。企業間の熾烈な競争が人件費の削減に輪をかけていた。高温の蒸気が充満するなかでの作業はまるで生き地獄のようだった。そこに機械化の波が押し寄せる。機械化によって、熟練した職人は排除され、画一的な未熟練労働者に置き換えられていった。
 1919年以降の生産性上昇は電動モーターによるところが大きかった。その副産物として、作業場が明るく清潔になり、労働環境が改善されていったことは否定できない。
 19世紀後半には、炭鉱や鉄鋼業だけでなく、どの産業でも労働災害による死傷事故が多かった。建設現場や縫製工場でも事情は変わらない。低賃金、長時間労働に加え、労働環境も苛酷だった。労働者にたいする保護や補償はないに等しかった。
 しかも不況の波が、多くの労働者の職を奪った。確実なものは何もなく、来年の家計どころか、来週の賃金もどうなるかわからなかった。失業に対する打撃が緩和されたのは、1938年にニューディール法が成立してからである。だが、それ以前の1910年から20年にかけて、労働者災害補償法が各州で成立していた。
 第2次世界大戦前、家庭外での女性の労働は、使用人や事務員、教師、看護婦、縫製の仕事などにかぎられ、働くのはたいてい未婚女性か未亡人だった。その賃金は安く、労働環境は苛酷だった。1920年代から1940年代にかけ、女性の労働参加率が上昇したのは、サービス部門での仕事が増えたことや、女性が家事労働から多少なりとも解放されたためである。女性は次第に「汚く骨の折れる職場ではなく、清潔で快適な現代的オフィスや販売店で働くようになり、週あたり労働時間も短縮された」。
 19世紀後半、労働者階級の女性は家庭内での重労働に追われていた。洗濯、料理、水くみ、掃除、パン焼き、針仕事、どれもが大仕事だった。上下水道が普及し、ガスが敷かれ、家電製品がそろったことで、女性の家事負担は軽減され、家事を楽しいと思う女性も増えてきた。「20世紀には、女性の家事負担の軽減と男性の市場労働の時間減少という二つの異なるトレンドが重なり、男性が子育て、住宅補修、庭仕事などの家庭内生産に積極的に参加できるようになった」と、著者は指摘する。
 全体的にみれば、世帯あたりの家庭内生産(労働)の時間は1900年の週78時間から2005年の週49時間に減っているという。子どもの数が平均4人から2人になったことは、家庭内の仕事量に影響していない。手間は変わらないからである。だが、家庭内の仕事は料理にしても何にしても、より基準の高いものになっている。料理も掃除も子どもの世話もより入念におこなわれるようになっているのだ。
 1900年ごろ、熟練工と非熟練工のあいだでは、2倍の賃金の開きがあった。高所得労働者はアメリカン・スタンダードを謳歌できたが、底辺労働者は極貧を生きていた。移民労働者は労働条件が少しでもよいと、簡単によそへ移った。フォードが基本給を上げたのは、労働者の離職率の高さを抑えるためである。
 しかし、いずれにせよ、1940年代までは実質賃金が労働生産性を上回るかたちで伸びた。実質賃金が労働生産性を下回るようになるのは1980年代以降である。これは徐々に経済格差が広がったことを示している。
 実質賃金の伸びがもっとも高かったのは1910年から1940年にかけてである。1920年代の移民制限法と、ニューディール法制による労働組合の奨励も、実質賃金の増加に寄与した。自動車工場などでは、技術変化が労働者に特定の反復作業をうながすいっぽう、企業は労働者の離職率を下げるために賃金を上げなければならなかった。
 1870年に児童労働はごく一般的で、14歳、15歳の少年は半数以上が働いていた。炭鉱でも製鉄所でも織物工場でも農家でも、少年たちのはたらく場所があった。その給料は成人男性の半分ほどで、児童労働を禁止する法律が施行されても、児童労働はなかなかなくならなかった。とくに低所得世帯は、義務教育が終わるとすぐに子どもをはたらかせていた。
 1870年時点で、高校に進学する子どもはごくわずかだった。1910年の高卒率は9%にすぎなかったが、1940年には51%、1970年には約77%に達する。第2次世界大戦は、大学進学率も増えていた。
 1870年から1940年にかけてほど、急速に生活水準が向上し、人びとを取り巻く環境が一変した時期はない、と著者は指摘する。商品世界の広がりはいうまでもなく、この時期、保険や消費者信用が果たした役割、さらに経済開発をうながした政府の役割はけっして無視できない、と著者は指摘する。
 消費者信用は19世紀後半から広く用いられていた。農家は雑貨店や行商人から必要なものをツケで購入し、次の収穫期に支払っていた。北部の農民のなかには、銀行で資金を借りて、土地を購入する者もいた。しかし、当時の金利は高く、農民はその支払いに追われた。
 地主から借り入れをしている南部の小作人の生活はより悲惨で、借金でがんじがらめになっていた。そのころ都市で、質屋が盛んだったのは、都市の雇用が不安定だったことと関係がある。
 割賦販売は1845年のピアノとオルガンが最初だったという。シンガー・ミシンは1850年からミシンの割賦販売をはじめる。富裕層から労働者階級にまでミシンが広がったのは割賦販売のおかげである。すでにサラ金のようなものもはじまっている。
 大型デパートや通信カタログ販売は、現金販売が原則だったが、競争が激しくなるにつれて、割賦販売も認められるようになった。著者によれば、割賦販売が盛んになるのは耐久消費財への需要が増える1920年代からだという。それによって、「労働者階級の大半が消費者信用を利用できる新しい世界が台頭した」。
 消費者金融は急速に拡大する。大恐慌は1929年後半の株式市場の崩壊によって生じるが、「家計が消費者信用に過度に依存し、負債比率を高めていたことも大きかった」。
 その消費者信用がとりわけ効果を発揮したのが自動車販売である。1924年には4台のうち3台がローンで購入されていたという。
 1920年代から消費者信用は利用しやすくなった。耐久消費財の価格が下落したところに、消費者信用の供与が拡大し、電気冷蔵庫や洗濯機など、新製品の購入が促されることになった。それにより「労働者階級は、信用販売のおかげで、一世代前には存在しなかった新製品を入手できるようになった」。
 アメリカでは1890年にすでに住宅ローンが生まれている。1920年代には住宅建設ブームが起き、信用状況が全般に緩和され、住宅金融は急増している。
 生命保険がいまのようなかたちになるのは、19世紀最後の30年だという。20世紀にはいると、生命保険は急速に普及する。それは比較的少額の支払いで、万一の場合に備える貯蓄と考えられていた。1905年の時点で生命保険会社の資産の対GDP比は10%を超え、1933年には37%と急上昇している。いずれにせよ、1940年ごろまで、生命保険は急速に増大し、皆保険に近いものとなっていく。
 火災保険は17世紀後半にイギリスで誕生するが、現代的なかたちになるのは19世紀からである。1906年のサンフランシスコ地震と火災による被害は、約半分程度が火災保険でカバーされた。
 強制自動車保険が導入されたのは1920年代である。自動車事故の死亡率は現在より20倍以上高かった。そのころから、事故によるけがや死亡、車両損害や医療費の支払い、その他に対応する自動車保険が次々と開発されていった。
 1870年から1940年にかけてアメリカ人の生活水準が上昇したのは、主に民間部門による発明と資本蓄積のおかげだが、そのかん政府は何もしなかったわけではない。「連邦政府をはじめ州政府など公的部門が、成長のプロセスを直接支援するとともに、行き過ぎた成長には歯止めをかけた」。
 たとえば、ホームステッド法、鉄道への土地の無償供与、1906年の純正食品医薬品法、特許局の設立、1920〜33年の禁酒法、さらに反トラスト法や一連のニューディール法制などをみても、政府は積極的に経済にかかわっている。その評価は分かれる(とりわけ禁酒法にたいする批判は強い)が、政府の介入は概して近代化を促進するとともに、プラスの外部効果をもたらした。
 製品規格の統一、食品衛生、医療、上下水道の整備、道路の整備、電化などで政府の果たした役割は大きい。著者が評価するのはとりわけ1933年から1940年にかけてのニューディール法制である。これにより預金者の預金保護や社会保障制度も確立された。雇用を創出し、失業を減らす対策がとられたのもニューディール政策の特徴だった。

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シャフリサブス──ウズベキスタンの旅(10) [旅]

 5月14日(火)
 ティムール(1336〜1405)の生まれたシャフリサブスに到着したのは11時。最初に訪れたのが、ドルッティロヴァット建築群と呼ばれる場所で、ここにはティムールの父親が眠っています。だから、「瞑想の家」とも呼ばれるのでしょうか。りっぱなモスクと廟があります。
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 その奥にはいってみます。
_DSC0354グミ科ウズベキスタン固有種.JPG
 中庭にはりっぱなスズカケの古木が。
_DSC0357スズカケノキ古木Platanus orientalis・ハズラティ・イマーム・モスクの中庭.JPG
 ずっと奥にはいっていきます。ドルッサオダット建築群が見えてきます。
 礎石だけが残っているのは、かつてここには広大な建築群があったことを示しています。右に見えるのはティムールが22歳で戦死した長男のために建てたジャハンギール廟です。
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 その裏手にはティムールの廟もあり、柩もつくられていますが、実際にはティムールは予定していたこの場所ではなく、サマルカンドに葬られました。
_DSC0369 2ティムールの予定廟.JPG
 地元の人たちの信仰を集めるハズラティ・イマーム・モスクです。
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 最初にみたドルッティロヴァット建築群のなかにはいっていきます。
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 中庭はこんな感じ。みやげ物屋が並んでいます。
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 奥にあるグンバズィ・サイーダン廟には4つの柩があります。ここはティムールの孫、ウルグベクが自分の子孫のために建てた廟です。
_DSC0403 2グンバズィ・サイーダン廟(ウルベルグの子孫の墓).JPG
 その隣、ティムールが建てたシャムスッディン・クラル廟には、ティムールの父が眠っています。
_DSC0404 2シャムスッディン・クラル廟(ティムールの父他の墓).JPG
 その天井は美しく飾られていました。
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 大きな青いドームのあるコクグンバス・モスクのなかにもはいりました。
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 そのあと4、5分バスに乗って、アク・サライ宮殿跡に。遠くにザラフシャン山脈がみえます。
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 巨大なティムールの銅像が立っています。
_DSC0426 2.チムール像とアク・サライ宮殿跡.JPG
 このあたりで、記念撮影を1枚。右の人、弱っちそうです。
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 ここには、かつて広大な宮殿が建てられていたようですが、いまではアーチの一部しか残されていません。しかし、これをみるだけでも、それがいかに巨大であったかがしのばれます。
_DSC0429 2アク・サライ宮殿跡.JPG
 アーチの壁面にはその当時のタイルが残されています。
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 シャフリサブスの見学を終えたあと、バスで3時間、いよいよサマルカンドへ。途中はすばらしい高原が広がっていました。
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 ロバに乗る老人と少年の姿をカメラに収めます。
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 ブドウ畑です。後ろの山はザラフション山地。まもなくサマルカンドです。
_DSC0546 2ブドウ栽培ザラフション山地.JPG

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