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竹田青嗣『欲望論』を読む(5) [思想・哲学]

 第2部「世界と欲望」にはいる。最初の章は「欲望相関性」だ。
 哲学の出発点をめぐる論議。ヘーゲルは経験的意識の直接性から出発するが、この直接性はすでに媒介されており、絶対精神にいたる円環運動をなしている。これにたいし、ハイデガーの出発点は存在である。存在に耳を傾け、思索つづけることが、かれの哲学といえる。
 ニーチェはヘーゲルやハイデガーのように始元の理念から出発しない。「生の経験の原初性から出発せよ」という。これこれが存在するはいちばん最後にくる。
 ニーチェの本体論解体を支持しながら、著者はいう。

〈ある「力の中心」(生)が自らの世界に決定的な遠近法を与える。力という中心なしには世界も存在もありえない。われわれはこのニーチェの「力による遠近法」の構図を、「欲望−身体相関性」の構図へと位相変様する。〉

 ニーチェを批判的に継承しながら、ここに著者の哲学の方向性が示されたことになる。
 出発点は情動、感情、衝動、欲望である。
 カントは別として、ヒュームやロックをはじめ、多くの哲学者は情動の根源性を認めてきた。ヘーゲルは生きものは欲求をもち、そのことによって自身を疎外(区別)し、その矛盾を解消するために、欲求を満たしたいという願いをもっているが、それがいったん満たされたとしても、その矛盾ははてしなくくり返されるとみていた。とはいえ、そのことが生きるということでもあった。
 ここで、著者は情動や情念、欲求、衝動など、自我の外にある「第一動者」を一括して「欲望」と呼ぶと規定している。
 ヘーゲルによる自己意識としての欲望論を、フロイトも受け継ぐ。すなわち触発、興奮、不快(不満)、低減欲求、行為。自己意識にはそうした構造があり、しかもその構造は繰り返される。
 問題は、こうした人間の欲望を内的に洞察することだ。
「一つの『欲望』の到来によって、世界は始原的に分節される」と、著者はいう。この場合、分節とは私のものとして世界が切り取られる、あるいは開かれるということを意味する。この内的体験、あるいは世界感受は、ひとつのひらめきとなり、意識をもたらす。
 それは単なる認知ではなく、感知でもある。快−不快の感知を、著者は「エロス的力動」と名づけている。「触発されること、感知することは内的なエロス的力動の系(セリー)が生成することである」。すなわちエロス的力動による世界生成。

〈生き物はつねにすでにエロス的力動の可能態としての「身体」である。一切の生き物は、衝動、欲求によって世界を時間化し、また「身体」において世界を空間化しつつ生きる。〉

 欲望が内的な時間と空間を生みだす。そして、欲望を満たすために身体が投企される。
 欲望としての衝動、欲求の情動が「自己」と「世界」を分節する、と著者はいう。対象は自己の欲望の相関者であるとともに、自己の可能性の相関者でもあり、そのようなものとして、みずからが何であるか(同一性)を示す。言い換えれば、対象は「欲望−身体」の相関者としてあらわれる。

〈欲望論的始元論は、生命体におけるエロス的力動の発生についての創造的本質洞察から始発する。世界は、「本体」としてはどんな始元も起原もまた究極原因ももたない。しかし生の「内的体験」は、その体験の内的本質として、必然的に生成の始発点をもつ。あるエロス的力動が生き物のうちに生じるとき、欲求あるいは欲望が到来するとき、世界はそのつど新しい分節を開始する。〉

 著者は形而上学対相対主義の構図を捨てるところから出発する。そして、「欲望−身体」という新しい出発点を設定することによって、内的体験として現出する世界を把握しようとする。
「内的体験」にとっては、欲望(感覚、衝迫、情動)の到来がつねに世界生成の根源的始発性を意味する、と著者はいう。内的体験をもたらす「現前意識」こそが出発点となる。その背後に回りこむことは無意味である。
 欲望の生成は、生ある存在にとっての絶対的存在理由であって、意味、目的、理由といった概念もそこから生まれる実存的範疇である。欲望の由来を知ることはできない。それはまさに非知的なものとして到来する。
 欲望の非知性は、それが意識の現在性(現前意識)の絶対的起点であることを意味する。そして、企投−行為−努力といったものが意識されつつ維持されるのは、駆動性としての欲望が、全過程において持続されるからである。

〈欲望の到来において主体は、エロス的予期に衝迫されること、対象をめがけ目的へとたどること、その困難、可能性、努力、苦しみに耐えることを、絶対の規定性として受けとる。すなわち一つの衝動の到来性が主体と対象を生成し、世界をなんらかの区別、目標、順列、位階、選択項目として生成する。この区別され、分節されたものとしての世界のうちを目的へとめがけて企投すること、そこから世界と対象についての意味と価値の一切の諸相が生成される。〉

 欲望を基底として、世界の諸関係は、一つ一つの実存主体にとって、意味と価値の網の目として立ちあがっていく。
 世界感受の基本的エレメントはエロス的力動性であり、それはまず快−不快の審級においてあらわれる、と著者はいう。
 フロイトによれば、快と不快は生命体の生物学的−生理学的根本機構(生命維持システム)から発生する。不快が危険という信号あるいは警告であるのにたいし、快はその除去あるいは解消である。そして、すべての動物的生は快に向かう本性(快感原則)をもっているとされる。
 いっぽう、動物学者は快と不快を、近接行動と離隔行動、求心的行動と遠心的行動の二項性としてとらえる。とはいえ、その情動は内的体験としては直接とらえることはできず、あくまでも自身の内的体験に即して、直感的に洞察(推測)されるだけである。
 しかし、著者は、快とは不快の消滅や解消にあるというフロイトの考え方に異論をはさむ。それは、快の重要な契機ではあるが、快そのものではない。快とはあくまでも心的カテゴリーとしてのエロス的情動そのものにある。
 欲望−身体としての主体にとって、相関する世界はあくまでも真なるものとして現出する。そのことをあきらかにしたのはニーチェだが、ニーチェには、生命体自体に内在するたえず自己を拡大しようとする暗黙の意志(力への意志)こそ、人間の快−不快などの感情を支える行動である、という発想がある。
 しかし、肉体の内なる根本意志が快と不快を生じさせるというのは、一種の本体論的仮説であって納得しがたい、と著者はいう。人間の存在本質を「生の衝動」と「死の衝動」の二元論によって説明するフロイトの仮説も説得的ではない。生き物における内的力を測りうるものは、肉体が覚える快−不快の強度、すなわちエロス的力動の強度以外にない、と著者はいう。
 それは根源的到来であって、その生成の背後に回ってみることはできない。

〈内的体験の世界においては、つねに無から有が生じ、有は無へと経緯する。情動はたえずある時点で生起し、そして衝迫、目的指標、企投、成就、充足、衝動の消滅といったサイクルを反復する。……ある欲望の到来(その了解)はつねに一つの絶対的到来、絶対的起点であり、そこから価値と意味の系(セリー)が展開し、この系はある時点で消滅する。〉

 フッサールは、知覚、想起、想像という個的直感が認識一般の基盤をなすとした。これにたいし、ハイデガーは実存的欲望=関心の優位を主張し、メルロー=ポンティは世界や身体に内属する意識をその出発点と唱えた。サルトルは情動を周辺世界から受け取る状況的な感情的反作用ととらえた。著者はあくまでもフッサールの立場を継承しようとしている。
 フッサールによれば、目の前の対象が実在的な事物であるのは、純粋意識(現前意識)のとらえる像を現実の知覚像とする確信にもとづく。把捉(意味づけ)された対象には、よしあし、優劣などの価値性がつけ加えられる。そこから対象への心情や意欲が生まれるとされる。
 たとえば果物を見た場合、まず知覚像(ノエシス)から、これは果物であるという対象意味(ノエマ)があらわれ、さらにうまそうだという価値づけがおこなわれるというのが、フッサールのとらえ方だ。しかし、「一般には、知覚像、対象意味、そしていわば情動所与が一瞥のうちに所与される」のではないかと、著者はいう。言い換えれば、「あらゆる場面において『情動所与』は、人間の対象認識において不可欠な本質契機である」。
 意味と情動の一致が乖離するとき、現実性の感覚が異常をきたす。そのことは、統合失調症の経験をみればあきらかである。このとき諸対象は「対象意味の間主観的な共通性を喪失し、『世界』は、その人間のみに固有な意味と情動の秩序なき奔流となる」。
 日常生活における自明性の喪失は、明確な自己の希薄化をもたらす。対象が脈絡のないまま次々とあらわれ、その場かぎりの情動と想念の流れのなかにただよう。
 著者は現実性の本質的条件を、(1)つねに明確な「自己意識」、すなわち「関係意識」=時間・空間意識や対他意識をともなうこと、(2)定常的な情動をもって対象を一般的意味として把持しうること、(3)周辺の諸事物、諸事象が時間的・空間的整合性を維持していること、と規定している。これらの条件が欠ければ、生き生きした現実性の意識は失われることになる。
 情動はやっかいである。情動の希薄や奔流が、現実性の喪失をもたらす。それはコントロールすることができない。
 われわれは通常、一瞥によって対象を知覚する。そこには対象の意味や、それにともなう情動、状況関連性が生き生きと与えられている。より注意深い観察(再確証)が必要とされるのは、なんらかの理由で対象確信に疑念が生じる場合である。
 揺れる柳の葉を幽霊と見間違えるのは、一瞥的知覚が恐れの情動を喚起するためである。だが、対象意味(ノエマ)が先にあって、それから情動や価値がもたらされるわけではない。それは一挙に出現する。
 まったく未知の事物に出会ったとき、われわれは疑い−吟味−確証によって、対象の意味を認識する。そのさいにはエロス的力動(いわば生物的本能)にもとづく内的体験が生じている。しかし、「対象の知覚が同時に対象の意味(対象ノエマ)として現われるのは、生命体におけるエロス的力動とその時間化[いわば経験]、この対象に対してある態度をとりうる、という本質的諸契機においてである」。
 ここから、著者はフッサールのとらえ方をひっくり返す。すなわち、知覚よりも情動が優位なのだ。

〈対象知覚における対象意味と情動の関係は、発生的本質においては、この順序は反転されねばならない。すなわち、対象との直接接触はエロス的情動を触発し、このエロス的情動触発の経験的反復が、対象の遠隔知覚(形象的知覚)における予期的情動を形成し、そしてこの予期的情動の発動こそが、対象についての第一義的な「意味」、すなわちそれが「何であるか」についての予期的了解であるからだ。〉

 こうして、著者による世界構想の方向性があきらかになる。すなわち欲望−身体の相関性を基盤として、意味と価値が発生し、それから価値審級が形成されるというように論議は進んでいく。

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ケネス・ルオフ『天皇と日本人』をめぐって [本]

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(2019年9月20日、早稲田奉仕園セミナーハウスにて)

 本日はお招きいただき、ありがとうございます。人前で話すのが苦手なので、うまくしゃべる自信がありません。たいした話もできないと思いますが、ご容赦いただければ幸いです。
 きょうは、ことし1月に発売されたケネス・ルオフ先生の『天皇と日本人』についてお話しさせていただきます。私は皇室評論家ではありませんので、皇室の内情についてはよく知りません。小室さんと眞子さまがどうなるかといった問題はわかりません。あくまでも訳者としてのこの本の紹介にとどまります。
 ルオフ先生は1966年生まれで、ことし53歳。歴史学者としては、まだ若い先生といえるでしょう。ハーバード大学を卒業し、コロンビア大学で博士号を取得され、現在アメリカ西海岸のオレゴン州にあるポートランド州立大学で、主として日本近現代史を教えておられます。同じ大学の日本研究センターの所長も兼任されています。
 日本には年に3、4回いらっしゃいます。その都度、東大や学習院、北大、京都の日文研などで講演をされています。5月の代替わりのときも日本にいらっしゃって、NHKワールドに出演されていました。10月の即位式のときも、日本に来られて、同じくNHKワールドに出演されることになっています。また10月には小学館から小林よしのりさんとのユニークな対談集がでる予定になっています。日本だけではなく、韓国や中国、ブータン、タイなどにもいらっしゃっていますから、まさに国際的に活躍されているといってよいでしょう。
 これまで日本語に訳された本としては、大佛次郎論壇賞を受賞した2003年の『国民の天皇』、2010年に出版された『紀元二千六百年』、それからことし出版された『天皇と日本人』があり、いずれも私が翻訳を担当しました。
 きょうは『天皇と日本人』を中心にお話しさせていただきます。この本には「ハーバード大学講義」という副題がついていますが、去年9月にハーバード大学のライシャワー日本研究所でおこなわれた講義がもとになっています。講義といっても一般学生が対象ではありません。どちらかというと日本研究者の集まる会合での発表で、発表のあとには学者どうしの活発な討議が交わされました。こうした発表会は毎年開かれているようですが、これをみると、アメリカの日本研究はかなりのレベルを保っていることがわかります。
 ところで天皇、あるいは天皇制の問題はだいじなのですが、いまでもとても話しにくいテーマでもあります。天皇について語ろうとすると、戦前、戦中なら特高に引っぱられたにちがいありません。最近テレビで「やすらぎの刻」という倉本聰のドラマを見ているのですが、ここでも思想を取り締まる特高や憲兵がよくでてきます。
 いまはそんな時代でないことはわかっているのですが、それでも天皇について語るのは、なんとなくはばかられる雰囲気が残っています。そこで、新聞でもテレビのワイドショーでも、日本の皇室はいかにすばらしいかということが、どちらかというと強調されて、皇室を客観的にどうとらえたらいいのかという視点はおろそかになってしまいがちです。そのいっぽうで、皇室のあり方を批判する人のなかには、左派なら素朴な皇室否定論、あるいは右派なら戦後民主主義批判に走る人がいて、ここでも日本の皇室にたいする冷静な評価は失われがちです。
 本書でも述べられておりますように、ルオフ先生は、利害関係のないアウトサイダーの見方が、時に役に立つことがあるとおっしゃっています。それが、日本人にとってはタブーになりがちなテーマを客観的に照らし出して、いま皇室がかかえているほんとうの問題を提示することにつながっていくのだと思います。
 アウトサイダーの視点とは何でしょうか。それは日本史のたこつぼにはいることなく、国際的な観点からものごとをみるということにつながっています。世界にはさまざまな王室があります。代表的なのはイギリスの王室ですが、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、スペインなどにも王室があります。中東ではサウジアラビアが有名ですが、モロッコ、ヨルダン、オマーン、クウェートなどにも国王がいます。アジアではタイをはじめ、ブータンやカンボジア、マレーシアなどに王室があります。そうした世界の王室のなかで、日本の皇室をどうみていけばいいのか。それが国際的視野で日本の皇室をとらえていくというルオフ先生の態度につながっていきます。
 現在、国連加盟国の数は193カ国で、日本が承認している国の数は196カ国です。たとえばバチカンは国連に加盟していませんし、北朝鮮や台湾、パレスチナを日本は国家として承認していません。国の数を数えるのはじつはむずかしいのですが、現在、世界にある国が約200だとすれば、そのなかで王国はどれくらいあるのでしょうか。現在、王室がある国は26カ国といわれます。近代以前は、ほとんどすべての国が王国でしたから、歴史的にみれば、立憲君主国を含む王国の割合は減りつつあることがわかります。
 王制、ないし君主制が廃止されたのはフランス革命以降です。革命や戦争での敗北が、君主制の廃止をもたらす大きなきっかけとなりました。そのような国としては、ざっと思い浮かべてみても、フランスを筆頭に、ロシア、イタリア、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン帝国、韓国、中国などの名前がでてきます。最近ではイラン、ネパールで君主制が廃止されました。逆にカンボジアとスペインではいったん廃止された王室が復活しています。
 世界的にみれば、王国ないし立憲君主国は相対的に少なくなっているとみてよいでしょう。日本ではいま皇室を否定する人はあまりいません。それでも1900年と2000年を比べると、世界じゅうで王室のあり方は大きく変化しました。そのいちばんの変化は、君主が以前の絶対的で神聖な政治主体ではなく、ほとんどの国で象徴的な存在へと変化したことだと思われます。したがって、日本国憲法だけが特殊ではないということは認識しておいてもいいのではないでしょうか。
 しかし、共和制が民主的かというと、かならずしもそうとはかぎりません。昔のソ連や現在の中国、北朝鮮をみれば、そのことがわかります。独裁的な共和制もありうるわけです。また民主主義が平和主義と同じともいえないわけです。民主制の古代アテネは軍事中心の都市国家でした。現在のアメリカも民主主義の国ですが、軍事的な国家だといってまちがいないでしょう。ですから、いま日本人が民主主義は平和主義だと思いこんでいるのは、まちがいです。そのことも、ルオフ先生はどこかで指摘しておられます。
 君主国もかならず独裁的になるわけではありません。君主をいただく国であっても民主的で、しかも平和主義的であることも、じゅうぶんにありえます。それは独特の国家のかたちですが、その場合、君主は憲法ないし慣例にしたがって、かならず象徴的存在と位置づけられています。
 ルオフ先生が天皇の象徴性をどのようにとらえられているかについては、のちほどお話しさせていただきますが、その前に先生が日本の天皇をどのようにとらえているかを、ざっとお話ししておきましょう。
これは『国民の天皇』の第1章に書かれていることですが、日本の天皇、少なくとも天皇制は近代の産物だ、とルオフ先生は指摘されています。言い換えれば、天皇制は明治になってから生まれたというわけです。
 260年つづいた徳川時代においては、天皇はあってなきがごとき存在でした。私たちは万世一系ということで、神武天皇から現在の天皇にいたる126代の系譜をたどったりするわけですが、天皇という称号が用いられるようになったのは、7世紀の第40代にあたる天武天皇のときです。それ以前は天皇という称号はありませんでした。
 さらにいいますと、10世紀の第62代村上天皇以来、19世紀の第119代光格天皇にいたるまで、約800年にわたって、じつは天皇という称号は途絶えてしまいます。亡くなったあとつけられたのはだいたいが院号で、たとえば後鳥羽天皇ではなく、後鳥羽院、後醍醐天皇ではなく後醍醐院、桃園天皇ではなく桃園院などと呼ばれていたわけです。
 江戸後期になって、天皇称号の復活のきっかけをつくったのは光格天皇です。光格天皇のとき、800年ぶりに天皇という称号が復活するわけです。ちなみに天皇の即位式と同時におこなわれる大嘗祭も江戸中期まで200年間途絶えていました。その後も、幕府は新天皇の即位にあたって、大嘗祭の挙行を認めないことがありました。たとえば新井白石の時代です。
 ちょっと話がすべりましたが、いずれにせよ、ルオフ先生が天皇らしい天皇をむしろ近代の産物ととらえていることはたしかです。とはいえ、天皇には伝統という側面もあります。ですから、天皇とは近代になってつくりなおされた伝統とみるのが、より正確かもしれません。
 そこで明治憲法についてです。明治22年、すなわち1899年2月11日の紀元節に発布されたこの大日本帝国憲法の第1章第1条には「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」と書かれています。ちなみに紀元節はこの日にはじめて施行されました。それがいまは「建国記念の日」という祝日になるわけですね。なぜ、この日が建国記念の日なのか、日本では知らない人がほとんどではないでしょうか。
 それはともかく、明治憲法には、日本という国をつくったのは天皇家であり、「万世一系」でつづいてきた天皇家が日本を統治するのだという考え方が示されています。
 この憲法によれば、天皇は、法律の裁可と執行、議会の召集と解散、議会閉会時の緊急勅令の公布、官僚の任命、陸海軍の統帥権、開戦と講和の権利、爵位や勲章の授与にたいする権限などをもっていました。
 しかし、実際は天皇がひとりでこれを決定したわけではありません。立法に関しては帝国議会の協賛、行政に関しては内閣の各国務大臣による輔弼、司法権に関しても裁判所への付託によって、日本の統治をおこなうことになっていたのです。
 問題は軍にたいする天皇の統帥権でした。これを根拠にして陸海軍は昭和にはいってから次第に暴走をはじめます。
 しかし、表向きの明治憲法には裏の顔がありました。すなわち「元老」の存在です。
 明治体制においては、実際には明治維新の功労者である「元老」が政治をコントロールしていました。「元老」は首相を指名するだけではなく、軍ににらみをきかす存在でした。ですから明治寡頭制ともいわれます。たとえば、元老としては、伊藤博文や山県有朋、黒田清隆、松方正義、そして西園寺公望といった人がいました。
 ルオフ先生もはっきりと「大久保や伊藤をはじめとする明治寡頭政府の指導者たちは、自分たちが目指す国家統一の象徴として天皇を利用した」と書いています。
 時代の変遷とともに、この「元老」が次第にいなくなったあと、日本の政治はだれが主導すべきかという問題が出てくるのはとうぜんでした。議会だというのが美濃部達吉の答えであり、これにたいして軍部だというのが別の答えでした。そのさい、軍部は国体明徴運動を繰り広げ、天皇の統帥権を絶対化していきます。
 そして、先ほど、明治体制の裏の顔として「元老」、すなわち維新功労者の存在を挙げましたが、じつは明治体制にはもうひとつ裏のルールが存在しました。それが天皇を「なまの政治」にかかわらせてはいけないというルールです。
 明治時代に実際の政治を担ったのは、元老によって指名された内閣でした。ですから、明治憲法では神聖にして侵すべからずとされた天皇、すなわち国家の元首としての天皇にあらゆる大権が集中しているようにみえますが、実際の天皇はあくまでも「天の声」、言い換えれば象徴的な存在として位置づけられていたことになります。
 明治憲法とことなり、戦後の新憲法では、天皇は第1章第1条でこう定められています。
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」
 つまり、天皇は統治権をもつ神聖にして侵すべからずの国家元首ではなく、はっきり象徴と位置づけられるようになったわけです。すなわち象徴天皇です。
 そして、天皇は国政に対する大権をもたず、「憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」とされたわけです。しかも、その国事行為は内閣の助言と承認にもとづくものでなければなりません。
 総理大臣を任命したり、法律を公布したり、国会を召集したり、衆議院を解散したり、特赦をおこなったり、外国の大使を接受したりするのも、天皇が勝手にやれるわけではありません。それはいわば儀式的、あるいは儀礼的な行為ということになります。
 ほかに天皇には象徴としての公的行為が認められています。国民的行事に臨席したり、全国戦没者追悼集会に参加したり、外国を訪問したり、海外の賓客をもてなしたり、園遊会を主催したりする行為です。
 大相撲を見たり、コンサートを鑑賞したり、宮中祭祀をおこなったりするのは私的行為です。
こうして、国政にたいする権限をもたない象徴天皇は、さまざまな国事行為、公的行為、私的行為をおこなっていることになります。
 そして、何よりも天皇の象徴性が際立つのが、儀式や儀礼、祭祀以外の公的行為においてであるという点は指摘しておいていいと思います。
 昭和天皇については、いまでも戦争責任をめぐる論議があります。昭和天皇は最晩年まで、戦争責任の問題で悩んでいたと伝えられます。
 君主制が崩壊するのは、たいていが革命または敗戦によってです。フランスでも、ロシアでも、ドイツでも、イタリアでもそうでした。日本は敗戦したにもかかわらず、天皇制が存続したというのは、奇跡に近いことです。
 マッカーサーの強い意向があったと伝えられます。国家が君主や皇帝をもつのは、けっきょくのところ、戦争を遂行するためです。したがって、君主や皇帝は戦争の最高指揮官となるわけです。明治憲法でもヨーロッパの憲法にならって、「天皇は陸海軍を統帥す」と定められています。
 したがって、戦争に敗れた王朝は滅びるというのが、これまでの世界史のルールでした。近代においては、ふつう敗戦は君主制から共和制への移行をもたらします。ところが、日本ではそうなりませんでした。これはマッカーサーの意向だけでは説明できないことではないでしょうか。
 それは、おそらく明治以来、いやそれ以前から、天皇が「なまの政治」にかかわらない象徴にほかならなかったことと関係しています。明治維新というクーデターが成功したのは、鳥羽伏見の戦いで「錦の御旗」が立ったからです。明治天皇が直接、維新の戦争を遂行したわけではありません。
 日清戦争のとき、明治天皇が「これは朕の戦争にあらず、大臣の戦争なり」といって、戦争に強く反対したことはよく知られています。また日露開戦のときも、「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」という歌を詠んだことも有名です。
 あきらかに戦争への不安をあらわした歌です。昭和天皇は日米開戦前の御前会議で、あらためてこの歌を朗読し、何とか戦争が回避できないのかとの思いを示しました。にもかかわらず、昭和の軍部は昭和天皇による明治天皇御製の引用を戦争への合意とねじ曲げて解釈し、無謀な戦争に突入したのでした。ここでも、天皇の意向にかかわらず「錦の御旗」が立てられたのでした。
 こうしてみると、明治憲法に定められた天皇の役割は、あくまでも建前であって、実際は天皇は「錦の御旗」、すなわち象徴だったことがわかります。
 戦後、GHQが主導して新憲法を定め、天皇を「象徴」としたときも、天皇主義者の右派がさして反対しなかったのは、明治になって日本の天皇制が確立したときに、天皇はすでに生の政治にかかわらない「象徴」と考えられていたためです。そして、天皇は「象徴」であったからこそ、敗戦にもかかわらず、戦後も存続することができたといえるのではないでしょうか。
 にもかかわらず、象徴としての昭和天皇には戦争の影がまとわりついていました。「錦の御旗」の前で、国内でも海外でも、あまりにも多くの人が犠牲になってきたのです。ルオフ先生も、昭和天皇には戦争責任がある、とはっきり書いています。そこで、戦争の影を払拭し、戦後を終わらせる仕事は平成の時代にゆだねられることになります。
 平成の時代に明仁天皇はどのような役割を果たされたのでしょう。ルオフ先生は「国民の天皇」として明仁天皇を高く評価されています。
 天皇の象徴性はとりわけ公的行為によって、それぞれの特徴や個性がかたちづくられます。
 平成の時代は何といっても美智子皇后の役割が大きく、平成の皇室はカップルとしての活動が際立ちます。ルオフ先生が指摘するように、おふたりは、「社会福祉の皇室カップル」でした。それから戦後の自由民主主義体制の支持者でした。戦争の傷跡をいやすことに努めてこられました。
 平成は災害の多い時代でしたが、ご夫妻は多くの被災地を訪れ、被災者に間近で声をかけてこられました。80歳をすぎてもおふたりで全国各地を回り、海外の慰霊にも行かれ、日本であんなに仕事をしている年寄りはいないと言われたくらい、「行動の人」でもありました。こうした公的行為によって、平成時代の皇室の象徴性が刻まれてきたわけです。
 ところで、明治、大正、昭和、平成、そして令和と時は流れましたが、日本人は西暦を利用しながら、不思議なことに元号で時代を回顧する習慣をもっているようです。最近では、平成史とか、平成時代をふり返るといった本が書店にあふれています。
 こうした元号も、昔からあるようで、じつは近代になって改変されたものであることは知っておいたほうがいいかもしれません。それまでの年号は吉凶や天変地異によって、その都度、変えられてきました。天皇の在位とは関係ありません。ですから、光格天皇や孝明天皇はいても、光格とか孝明とかの年号はないのです。その代わり、天明とか寛政、安永とか万延といった年号が用いられました。
 一世一元制が採用されたのは明治になってからです。それによって元号は天皇と結びつき、明治は明治天皇の時代、大正は大正天皇の時代、昭和は昭和天皇の時代、平成は平成の天皇の時代となったわけです。
 平成時代の終わり方の特徴は、明仁天皇が退位されて、時代が平成から令和に移ったことです。天皇の仕事は激務ですから、80歳以上の高齢になって譲位されたのは、とうぜんのことで、むしろ遅すぎたといえるくらいです。
 とはいえ、天皇の譲位は、光格天皇が仁孝天皇に譲位して上皇になって以来、二百年ぶりのことでした。明仁天皇は上皇として、いまも元気で活躍されています。ですから、不思議なことにわたしなどは、まだ平成の時代がつづいているような気がしてなりません。
 最近思うのは、奥さんを亡くしたあと、文芸評論家の江藤淳が平成11年、1999年に自殺したことです。江藤淳は昭和に殉ずるという意識の強い人でした。あるいは、昭和45年、1970年に市ヶ谷で三島由起夫が戦後を全面否定して割腹自殺したことを思いだします。芥川龍之介は昭和2年に漠然たる不安を感じて、自殺しています。夏目漱石は、明治天皇大喪に際して自死した乃木将軍を意識しながら、『心』という小説を書きました。
 こんなふうに、文学者のなかにも、元号意識というものは強くきざまれるようです。ルオフ先生が書いておられるように、はたして元号によって時代区分ができるかどうかは疑問です。しかし、昭和とか平成とかの元号が、日本人の時間意識のなかに染みついていて、それが天皇の存在と組み合わさっているのは奇妙な気がするほどです。
 1989年から2019年までの平成の時代は、どういう時代だったのでしょう。ルオフ先生は平成時代の天皇の象徴性として、憲法にもとづく戦後体制の支持、弱者への配慮、戦争時代の清算と鎮魂、国際協調主義、女性の役割の重要性などを挙げておられます。それは言い換えれば、平和と国際協調、民主主義と平等を基本とする考え方だったといってよいでしょう。
 これにたいし、この時代には日本の状況を別なふうにとらえる動きもでてきます。つまり、平成になってから日本の経済は停滞し、その国際的地位さえ周辺諸国によって脅かされようとしているとみる考え方です。そこから戦後体制を見直し、国家経済を強化し、国力を高めようとするイデオロギーが生まれてきます。それはどこか「大日本帝国をもう一度」という発想に結びついていきます。戦前を反省する立場は自虐史観とレッテルを貼られ、それに代わって、居丈高で国家主義的な史観が再登場してきます。
客観的にみて、平成になってから、日本経済が停滞し、GDPでみるかぎり、その国際的地位が相対的に低下したのは事実です。しかし、だからといって「大日本帝国をもう一度」という妄想は、しょせん妄想でしかありません。こうした発想は、かえって社会の雰囲気をより息苦しくしていくのではないでしょうか。日本は中国や韓国・北朝鮮とまた戦うつもりなのでしょうか。そうでなくとも、争うことはたしかなようです。
 ルオフ先生は象徴皇室の最大の役割を、国民国家の統合と永続性を維持することととらえています。
人口問題をかかえる日本はこれから海外から人を迎え、ますます多様化せざるを得ないというのがルオフ先生の見方です。労働力不足などもあって、実質的な移民が増えてくるのはまちがいありません。そのとき国籍、言い換えれば市民権を付与するのは、従来のように基本的に血統によるという考え方でいいのかと問題提起もされています。
 日本には女性差別も根強く残っています。正規・非正規の差別や経済格差の広がりも深刻です。いまや日本は新しい階級社会になっていると指摘する人もいます。
 こうして多様化し分裂しがちな社会を、どう統合していくのか。さらに国際協調主義にもとづきながら、日本の誇りとなる理念を世界にどう打ちだしていけばよいのか。それがこれからの皇室の課題だろう、とルオフ先生は問題提起されています。それはおのずから「大日本帝国の夢」とは異なるものになるのではないでしょうか。
 しかし、最後につけ加えるなら、いま皇室にとって最大の問題は、皇室が存続の危機をかかえているということです。現在の政府は男子による皇位継承しか認めないという立場です。これは悠仁親王が無事成長し、皇位を継ぐ前に結婚して、何人か男子をもうけるという都合のいい考え方に立っています。奇跡はおこるかもしれません。しかし、これは奇跡に近いことです。
 そんな奇跡をおろおろして待つよりも、いま現に存在する女性を天皇として認めるほうがよほど簡単だし、国際的な趨勢にもかなっている、とルオフ先生はいいます。わたしも、これには賛成です。日本には過去8人の女性天皇がいました。男系の万世一系というイデオロギーにこだわる必要はまったくありません。もし新たな女性天皇が誕生するなら、日本社会の雰囲気もずいぶん変わり、いまよりもずっと開けてくるのではないでしょうか。
 いまの右派が主張しているように、男子による皇位継承にこだわりつづけるなら、そのうち皇位を継ぐ者はだれもいなくなって、天皇もいなくなります。すると共和制を推進しているのは、まさに右派だということになります。それは悲劇です。皇室の存続が可能ならば、皇室は存続したほうがいいに決まっています。大統領制になって、トランプやプーチンような人がでてくるのは困ります。そのためには女性天皇を認めるというのが、現在の皇室の危機に対処する、もっともすっきりした解決策ではないでしょうか。
 最後に日本国憲法をもう一度ながめてみましょう。
「天皇は、日本国の象徴であり国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」
 国民が天皇をつくるということも忘れてはなりません。

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金子直史『生きることばへ』を読みながら(3) [人]

 金子さんの日記から。
 夏の盛り。
 日赤の検査で、マーカー値が上がる。薬をフォルフィリにするかどうか。ためらう。いったんはじめたら、やめられない。未明まで酒を飲む。けっきょく、フォルフォックスをつづけることに。
 土曜午後の逗子海岸。

〈この日も海は、ものすごい光にあふれていた。8月半ばの逗子海岸。心にそそぎ込まれる光は熱く、見渡すかぎり、命が、それはほとばしるようだ。さんざめくように……〉

 8月24日から27日まで家族で沖縄に行く。これが最後の家族旅行となった。「交換日記」には「ほんと、サイコーの時間だったな!」と書く。
 夏の終わり。新しい抗がん剤、イリノテカンをはじめる。フォルフィリと併用だ。
 毎日の職場。変わらない日常。日常のなかでは、死は夢のように感じられる。とはいえ、徐々に増す痛み、クスリの副作用やしびれなどは、紛れもなくリアルだ。

〈ただし、ある瞬間、…例えば汐留の社屋から外に出て、眩しい陽光が汐留のビル群の間をいっぱいにしているのを見て、ふと、稲妻のように、「うそだろ? おれが…え! 死ぬの? うそだろ!」といった気分になる。でもそれは、すぐに日常の時間の中に埋めこまれる。〉

 逗子海岸。海の家は終わり、海水浴客はまばら。

〈おれは、本当に海と空と風と、そして太陽が好きだ。……泳いでいると、からだが透明になってくる気がする。〉

 歩くと、尾てい骨あたりの痛みが強くなる。
 未明に激痛が走ることも。
 メシアンのピアノ曲を聞く。

〈いつまで生きられるか。やはり、あくまで不安はない。痛みを始め、起きていく身体の不調に、どのように対処していくか、という課題があるだけだ。〉

 仕事は休みなくつづけている。石牟礼道子の『春の城』をはじめ、新刊紹介をいくつも書く。
 フォルフィリとイリノテカン。少し痛みが緩和されたような気がする。
 10月になって、来年用の企画を立てようと思った。
 仕事はいそがしい。ノーベル賞を受賞したカズオ・イシグロの原稿を受け取ったり、加藤典洋の評論を処理したり、沖縄に行き、石川真生の取材をしたり、と。
 来年の企画を2本立てる。ひとつは「遠近法の現代図」。これはいわば比較日本近現代史だ。もうひとつは「生きることばへ」。自分にひきつけながら、生と死と希望をテーマにする。
「神よ、神さまよ。少しでも長く、おれに時間をくれ」
 このころ、眠れなくなる。「1時間寝て、痛みで起きの繰り返し」
 激しい痛み。歩けない。立っていると痛みで脂汗。
 日赤でモルヒネ入りの粉末をもらう。
 11月。抗がん剤に加え、痛み止めを服用する。夜はモルヒネを飲まないと眠れなくなる。
 休みに夫婦で長野を旅行。小布施や北斎記念館を訪れ、山田温泉に泊まった。これが夫婦最後での旅行になった。
 日赤での抗がん剤治療はつづいているが、マーカー値がまた上がったことにショックを受ける。
 12月。抗がん剤治療がつづく。副作用でものすごい眠気。そのくせ、痛みのため夜が眠れないので、モルヒネを服用しなければならない。
 ステント交換手術もおこなった。
 年末からは毎週1本の割合で、「生きることばへ」の連載出稿がはじまる。最初の出稿は無言館の話だ。つづいて、正岡子規の話。
 第1回の冒頭。

〈人は普段、いつもの平穏な日常が続くことを疑わない。だから思いも寄らない病や命の危険に突然直面すると、未来への不安、死への恐怖が避けようもなく広がる。そこで人の生、そして死は、どう見えてくるのだろう。その問いに正面から向き合った文化人らの作品を読み解きながら、生きるための希望を探りたい。〉

 子規の『病牀六尺』については、こう書く。

〈一読して実感したのは、進行する病と近づく死を前にした子規の意外なほどの明るさだった。ありがちな病者の悲哀とは全く違う。病気を相対化し、その深刻さを笑おうとする生きる心の強さが、その時の私に強い印象を与えたのだろう。〉

 実感がこもっている。
 そして、2018年1月になった。
 緩和ケアを受けながらの原稿執筆がつづく。

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竹田青嗣『欲望論』を読む(4) [思想・哲学]

 伝統的「本体論」の解体は、ニーチェによってはじめの扉が開かれ、フッサールによってその完成にいたる、と著者はいう。だとすれば、前回のニーチェにつづき、フッサールの仕事が問われねばならない。
 フッサール現象学が批判するのは、ひとつに伝統的な主観−客観構図に立つ哲学的独断論であり、ひとつに現代的な相対主義、懐疑主義である。フッサールはむずかしい。だから、さまざまな誤解がある。しかし、重要なのは、現象学の根本動機とその本質的方法だ、と著者はいう。
 現象学の方法とは何か。それは「内在的意識」が「世界確信」の信憑構造をいかにつくりあげていくかという「確信成立の条件」を解明していくことだという。
 認識問題における主客一致構図には難問があった。客観認識はありえない。あらゆる認識は相対的なものである。もし、それがありうるとすれば、純粋数学、純粋自然科学においてでしかない。人間社会においては、客観的認識はありえず、「力の論理」だけが正しいものとされる。しかし、力の論理だけがまかりとおり、正義や不正義に普遍的基準がないとするなら、哲学の営みも無意味なものになってしまう。
 フッサールは普遍認識はないという考え方を批判し、主客の構図とは異なる新たな構図を提示する。主客の一致はありえない。にもかかわらず、普遍認識はなぜ成立しうるのか。そのためにとられる方法が、いわゆる「現象学的還元」である。
 フッサールはいう。絶対的に実在する世界の全体といった観念は背理である。主客の一致を検証することはできない。しかし、認識は「確信」となりうる。そのためには「本体」、すなわち世界の客観存在を想定することをやめ、世界はただ私によって生きられているものとみなすところから出発しなければならない(すなわち現象学的還元)という。そのことによって、「私の意識」は「超越論的構成」にもとづく「世界確信」、すなわち普遍認識へといたりうるのだ。
 世界確信には、個人的な体験にもとづく個的確信、共同的確信からなる間主観的確信、それに純粋数学的、純粋自然科学的な普遍的確信がある。
 ここでは「本体」としての客観存在という想定はしりぞけられる。さらに、独断的形而上学と懐疑論(相対主義)も否定される。
 そのうえで、フッサールの「現象学的還元」がめざすのは、認識における間主観的確信の本質構造にほかならない、と著者はいう。
 フッサール自身はこう書いている。

〈世界は、目ざめつつ、つねに何らかのしかたで実践的な関心をいだいている主体としてのわれわれにとって、たまたまあるときに与えられるというものではなく、あらゆる現実的および可能的実践の普遍野として、地平として、眼前に与えられている。生とは、たえず世界確信の中に生きるということなのである。〉

 フッサールは、現前する意識から出発する。これこそが世界認識の源泉である。これにたいし、フッサールを引き継いだハイデガーは、意識の背後に実存的生という存在論的基底をとらえる。そこから、フッサール現象学とハイデガー存在論とのちがいがでてくる。
 ハイデガーにとって、現象は存在者の存在を隠蔽するものであり、現象学は存在の真理を取りだす方法と考えられた。対象への関心からはじまって、人間存在へと戻り、人間存在および人間存在を可能にしている真理を、取りだすこと。これがハイデガーの発想だ。
 ニーチェ、フッサール、ハイデガーの相関性。ニーチェは「力相関性」の構図を示し、フッサールはこれを「意識相関性」の構図へと推し進め、ハイデガーはこの構図を「気遣い〔関心〕相関構図」へと変奏することで実存論へと転換した。しかし、三者の関係は錯綜し、それどころか対立したものとなる。それを解きほぐし、再構築すること。それが著者の課題となる。
 しかし、まずはフッサールをハイデガー流解釈から切り離して、より深く理解することである。
 フッサールは現出する意識の背後に回ることを禁止する。意識はたしかに身体や歴史性、習慣性、無意識、言語によって先構成されたものである。しかし、フッサールは「けっして現前意識の背後に遡行してはならない」という。根拠の根拠を問う思考が客観主義的独断論におちいるのは、「本体」論的思考がはいりこむからだ。
 意識が先構成されているのなら、われわれは「意識」を絶対的な出発点とするわけにはいかない。だが、はたしてそうだろうか。われわれは現前意識から出発することで、むしろその背後にあるとされる感情や無意識、言語、美、文化といった問題を探るべきだ、と著者はいう。
 現象学は対象存在それ自体を問うわけではない。対象の存在様態についての確信(信憑)が間主観的に成立する条件を問う。それは本体論(形而上学)とも懐疑主義とも異なる思考方法である。
あくまでも普遍的認識をめざす哲学は、次のような意義をもつ、と著者はいう。

〈問題の核心は一つである。人間社会のあらゆる営みの底には「力の論理」がその強大な現実力を潜めて居座っている。人間の「言葉の営み」の中心的な意義は、この赤裸々な「力の原理」(暴力原理)をいかに抑制するかという点にある。〉

 懐疑主義もまた否定の論理である。だが、懐疑主義には根本的な問題がある。

〈あらゆる社会思想は、相対主義=懐疑論的な言説戦略をとることで、現実主義の「力の論理」に対する本質的な対抗力を喪失する。この思想は、やがて行き場を失って形而上学的倫理学へ逃げ込み、そのことでかろうじて現実世界に対する反抗(反感)の思想に留まろうとする。……どれほど過激な思想を口にしていてもそれは思想の本質として「羊のロマン主義」への陥落以外のものではない。〉

 これがポストモダン思想にたいする著者の懸念とみてよい。
 18世紀以降のヨーロッパ哲学の流れについての著者のまとめもみておこう。

〈18世紀ヨーロッパの啓蒙思想は超越神論を理神論−汎神論へと置き換え、ドイツ観念論哲学はこれを完成させた。このヨーロッパ汎神論を決定的に終焉させた第一の原因は、哲学的な潮流であるよりむしろ19世紀の自然科学(とくにダーウィン)の隆盛である。しかしこれに続く実証主義科学は「事実学」にすぎず、哲学の伝統的主題は危機に陥る。ヨーロッパ哲学は、ニーチェとフッサールの仕事を横目にして通り過ぎつつ、第一に、ヴィンデルバントが示唆した「神」なしの本体論的探求が新カント派以後の流れになり、第二に、科学を標榜するマルクス主義的世界観が台頭し、第三に、反形而上学を旗印とする論理実証主義と論理哲学が現われ、最後に相対主義を論理的武器とする分析哲学(言語哲学)とポストモダン思想が登場する。そしてこの最後の流れは、ヨーロッパの形而上学本体論を完全に終焉させ、これに対抗する哲学的相対主義の最終的勝利を告げる(=大きな物語は終わった)ような様相を呈する。〉

 これが近代哲学史の流れである。
 このあと第2部の「世界と欲望」がつづく。
 よく理解できない部分も多いが、概略だけでもつかみたいものだ。

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金子直史『生きることばへ』を読みながら(2) [人]

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 引きつづき、金子さんの日記を読んでいる。
 2017年1月6日に余命宣告を受けたあとは、しばらく放心状態になったと書かれている。それはそうだろう。
 化学療法の影響で、熱もつづいていた。
 12日には自宅の逗子に近い葉山の近代美術館で、宮迫千鶴夫妻の美術展をみたあと、海の向こうにくっきりと浮かぶ「真っ青な富士山」を見た。
 下旬から、社にも顔を出しはじめている。ある日、八重洲ブックセンターで、中江兆民や高見順の本を買ったのは、何か書きたいという思いがうごめいていたのだろう。
 金子さんには、奥さんと21歳と19歳のふたりの娘がいて、娘と「交換日記」なるものをつけていることも知った。
 2月4日の土曜日には、家族で葉山の森戸神社にお参りし、このときも青い海の向こうに富士山が浮かびあがっているのを見た。さぞかし感動的な富士だったにちがいない。
 その翌日、スタバで楽しそうにバイトする長女の姿をみて、うれしくなったという気持ちもよくわかる。
 2月6日には、社に手術後の状況報告。肺に微量の転移がみられ、化学療法がしばらくつづくが、ライターに復帰したいと伝えている。
 このころの日記には、煩悶のあとがうかがえる。
 子どもたちには「がんだけど必ず治るよ」と伝えているが、そのままでいいのか。そのうち、今できていることができなくなるだろうが、まわりのみんなに悲しい思いをさせたくない。
「神さま、たのむから、まだもう少し時間くれよ」
「今はいたって元気でも(せいぜい口内炎と小量の鼻血のみ)体内ではカチカチと、時計が時を刻んでいるのだろう。願わくは不発弾たらんことを!」
 3月には、就職活動をしている長女に内定がでてほっとしている。編集局から、文化部に編集委員として戻ることになった。現場復帰だ。
 化学療法や日赤での検査がつづく。現場に復帰すると、病気などまるでうそのように、さまざまな仕事が押し寄せる。
 いろいろな記憶がよみがえる。「そういうたくさんの記憶を抱えながら、おれという存在が、この世からいなくなるって? それはいったいどういうことだ! ……ふとした瞬間に、そうした思いが頭をよぎる」
 4月初旬の土曜日には、夫婦で箱根の日帰り温泉に行った。「降りしきる雨の向こうに満開の桜がにじんでいた」。下旬。次女の成人式写真の前撮りをする。娘のはじけるような笑顔が嬉しかった。
 すでに抗がん剤のアバスチンが効かなくなっている。
 文化部の仕事は忙しい。取材、インタビュー、新刊紹介、原稿、細部チェック、出稿。講演会や催しにも出かける。飲み会もある。
 5月10日。日赤で余命1年未満の宣告を受ける。
 ふと思う。「誰が死のうと、日常には穏やかさがあり、笑いがある。死とはその日常からの撤退だ」
 下旬、沖縄に取材にいき、辺野古を訪れた。座り込む人びとを機動隊が問答無用でごぼう抜きにするのを見た。
 初夏の出勤。「青く輝く空。空に向かって歌い出しそうな樹々。山をおおう緑。おれは光が好きだ。日差しを全身に浴びて過ごしていたい。これから職場へ」
 ある日、昼食を終えて、社のビルに戻る空中回廊で、いなずまのように思う。
「え! なに? おれが死ぬの? ほんまかよ! 信じられん、どうにも信じられん」
 6月からは丸山ワクチンの投与もはじめている。副作用の強い新たな化学療法も検討。
 6月某日、逗子のレストラン、サーファーズから海を眺める。
「ものすごく貴重な〈今〉が、ここにあると思った。心の中に刻印したくなるような──。/光にあふれる海と空。……飛翔するカモメを思った」
 次女の20歳の誕生日。「色々たいへんだろうが、ガンバレ!」
 このころのテーマは沖縄だ。インタビュー、沖縄現地取材がつづく。
 29に上がったマーカー値はフォルフォックスで抑えられているが、副作用がきつい。口内炎と強烈な眠気、その他もろもろの症状。
 7月には上田の無言館を訪れ、あらためて戦没画学生の遺した作品をみる。自分も何かまとまったものを書きたいと思いはじめている。
 日赤の検査で、肺の病巣が広がり、骨盤への転移もあると指摘された。新たな薬をはじめるべきか、迷う。
「治癒の可能性はない。投与し尽くしたところが死になる」と悟ってはいる。しかし、わらにもすがる思いで、有明のがん研でも見てもらった。「何もしなければ半年、3カ月で症状がでる」といわれ、よけいショックを受けた。
 22日、文化部の後輩で論壇担当の東海亮樹が48歳で亡くなった。

〈東海[本ではTになっている]が死んだ。昨21日の未明。大動脈瘤破裂で一週間意識不明だった。……自尊心が強く、生きづらいやつだった。繊細で涙もろい奴だった。死は、全ての人間にとってすごく傍らにある。〉(ぼくは東海さんとは親しかったので、Tとするのは忍びなく、本名で引用させてもらった。下町が好きで、何でもよく知っていた。このときも悲しかった。)

 そして、このころ、金子さんの日記にはこんなふうに記されている。

〈死へ向けて、どう時間を組織していくか。それを考えるのに忙しい。死への恐怖を味わっている暇がない。〉

 ひとつひとつのことばが身にしみる。
 まるでぼく自身のあしたがえがかれているような気がする。たぶん、かれは死とはなにかを教えてくれているのだ。

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竹田青嗣『欲望論』を読む(3) [思想・哲学]

 ヨーロッパの中世では、存在の始原的原理は神に置かれていた。しかし、デカルト(「われ考えるゆえに、われあり」)の時代になって、ふたたび哲学の「自由な思考」が再開される。そのころ自然を客観的に認識するための観察、仮説、実験、検証という方法も生まれていた。
 フッサールは自然の客観的認識方法を「自然の数学化」と概括している。自然を客観的に認識するとは、自然空間と時間を幾何学的秩序として記述するとともに、自然事物の諸性質を数式化することにほかならなかった。
 空間や時間を幾何学的にとらえ、それに基準(長さや高さ、温度、何時間など)といった基準を与えること。それによって「物理主義的合理主義の世界像」を与えることが目指されていた。
「こうして、すべての自然科学的研究はますます数学化された自然の表象体系として展開し、一切の認識を単なる『記号的概念』を操作する技術的思考へと変更する」
 しかし、自然認識の方法は、認識とは何かという問題を解決したわけではなかった。そこでは、意味形成の根源についての問いが失われ、いわば「意味の空洞化」が生じていた、と著者はいう。
 こうして心身二元論が登場する。すなわち事物と「心の世界」の分裂。主観と客観の対立。
 スピノザはこれを統合しようとして、世界の一切は合理的な「神」から流出し、完全な因果関係の秩序のもとに成り立つという合理主義的独断論を打ちだす。これにたいし、ヒュームは、どのような世界観も個々の主体、あるいは諸文化の経験的な構成物にすぎないという経験主義的懐疑論を提示する。
 合理主義的独断論と経験主義的懐疑論。「近代哲学の、そしてそれに続く現代哲学の認識論は、まだこの近代認識論における根本的対立構図から一度も解き放たれたことがない」。20世紀のマルクス主義とポストモダン思想の対立、論理実証主義と論理相対主義の対立をみても、そのことがわかる、と著者はいう。
 さあ、ややこしくなってきた。
 まずは、ヒュームの方法的懐疑論、方法的経験論について。一切の経験的因果性はただ主観のうちの「信念」としてのみ成立する。それは絶対的なものではなく、あくまでも情動(感情)によってもたらされた習慣的傾向としてとらえらえる。これがヒュームの考え方だ。
 ものごとの発生する原因は無数に考えられる。しかし、真の原因などというものは「むしろ人間がそのつど何を自分にとって重要なものとみなすかという、生の目的性と相関的にのみ現われ出る」。逆に言い換えれば、力(作用)の因果性は遡行不可能ということになる。
 ただし、ヒュームはみずからもゴルギアスのような懐疑論者ではないと述べている。われわれが「なぜ」と原因を問うのは、その根源性を求めるためではなく、その効用性、有用性を求めるためである。そうした原因がつきとめられたなら、それ以上のもの(たとえば神)に遡行する動機は失われる。「われわれは信念のそれ以上遡行できない底板につきあたったなら、そこにとどまるべきである」──著者はこれこそがヒュームの哲学の核心だという。
 厳密にいえば、ヒュームを相対主義者、懐疑主義者と呼ぶのはあやまりで、かれの立場は「方法的経験論」にほかならない。著者自身も共感するニーチェとフッサールは、こうしたヒュームの考え方を引き継いでいるという。
 とはいえ、ヨーロッパでは、長らく哲学の中心課題は、現象の背後にある「本体」、言い換えれば真の実在を探究することに置かれてきた。
 ここで、近代の代表的哲学者として、カントとヘーゲルが登場する。
 カントは『純粋理性批判』のアンチノミー(二律背反)の議論で、懐疑論を根本から否定し、世界認識の普遍的可能性を確立しようとした。帰謬論的相対主義は無化され、同時に形而上学的独断論も否定され、それによって哲学的な普遍認識の可能性を示そうとしたのである。
 いっぽうで、カントは本質と現象という図式を提示した。世界は現象界と可想界(物自体)に区別される。現象界は客観的認識が可能である。しかし、物自体を完全に認識することはできない。
 著者はこう書いている。

〈カントの「物自体」とは何か。絶対的に認識も経験もされえず、しかしその存在の想定なくして「われわれの世界」の存在自体が考えられないもの、われわれの世界の総体を絶対的に可能にしているものとしての「真なる存在」。それは完全にアクセス不可能であるがゆえに「語りえぬもの」であるが、われわれがこの世界を生きて経験する限り、その存在を否認することが決してできない「何かあるもの」。〉

「物自体」とは、人間の経験世界の背後にあって、現象一般を可能にしている何ものか(本体)である。ぼくなどには、かつて神と呼ばれた存在が、カントにおいては可想しうる「物自体」に変換されているのではないかと思えるほどである。神が「物自体」に置き換えられているとすれば、これはおそらくヨーロッパの思想界にとっては、大きな衝撃だったはずである。
 次にヘーゲル。ヘーゲルはカントの認識論を批判し、弁証法の概念を展開しつつ、壮大な有神論の体系を築いた。
 認識は時間的生成の構造として把握されねばならない。これが弁証法のミソである。意識によって見いだされるものは、すでに「先構成」されている。それはすでに時間的に(歴史的に)構成されたものであり、持続する運動の途中過程にある。世界の存在の根源は、絶対精神から発し、精神的原理を展開しながら、運動を持続しているというのが、ヘーゲルの考え方である。

〈ヘーゲル哲学の体系はむしろさまざまな存在者の認識を超えて、人間と社会の生成変化の総体とその究極的動因(絶対的精神)についての「存在論的解釈学」としてうち立てられる。〉

 ここで著者は、普遍認識論を打ち立てるためには、哲学の新たな原理(本体論の解体)を打ちだすとともに、哲学的相対主義ないし懐疑論を根本から批判しなくてはならないと述べている。
 カントによる懐疑論の否定は、それ自体は認識できない「物自体」の観念をもたらした。
いっぽうヘーゲルにおいては、認識は本質的に否定の弁証法的運動として現れるのであって、相対主義と懐疑主義は、その一過程で登場するにすぎず、それ自体非本質的で偶然である。
 イロニーもまた「正しさの信念」にたいするアンチテーゼである。イロニーは、自我、主観性を絶対とし、「絶対の内面」のみを存在の本質とする。客観性自体は放擲されている。現代のポストモダン思想には、こうしたイロニーの傾向が強い、と著者はいう。
 絶対精神を根源とするヘーゲル哲学は、一種の汎神論である。それが自我から出発するのも事実だが、その自我も最終的には絶対精神に吸収されていってしまう。
 ヘーゲルのつくりあげた一種の「本体論」に、著者はニーチェを対置する。

〈われわれはニーチェのマニフェストを思い起こさねばならない。近代科学は古い信仰を打ち倒しただろうか。否、それは「絶対神」の像を破壊したがそこに孕まれていた本体的思考、すなわち「真理への意志」を新しい仕方でうち立てたのだと。この自覚によって、はじめてヨーロッパの世界像は超越的な絶対者のみならず世界の「本体」の観念の完全な解体の道を拓いて進む。〉

 本体論とは、世界の究極的根拠について語ろうとする独断論的思考だといってよい。
 ニーチェは、いっさいの認識を欲望相関的−目的相関的ととらえ、「物自体」の観念を徹底的に破壊しようとする。

〈ニーチェの構図はこうである。「世界」は、さまざまな生命体の身体=欲望と相関的にのみ、それゆえまたさまざまな「生の世界」としてのみ、現出する。完全な認識は存在せず、したがって「物自体」の概念は成立しない。〉

 ここには新しい存在論が登場している、と著者はいう。「存在」は生それ自身が構成するものだ。「身体と欲望に相関して絶えず価値と意味とが生成する力動の磁場こそが、われわれにとっての真なる世界にほかならない」
「原因」なるものは人間主体によって導き入れられたもので、原因それ自体はまったく存在しない。したがって、存在の始原原理や物自体、絶対精神などの「可想的理念」を取りあげること自体、意味がない、とニーチェはいう。
 実証主義的−実在的世界像だけが残り、有神論的本体論は解体される。だからといって、哲学が終わるわけではない。「生」の相関者として、存在、対象、原因、意味、価値、真、世界といった概念が再編されなければならない。
 生の事実は「生成」であり、「存在」はこの「生成」という力動の相関者として現れる。ニーチェはそのことをはじめてあきらかにした。そして、この「力相関性」の存在論を切り拓いたのがフッサールだ、と著者はいう。
 こうしてフッサールの現象学への接近がはじまる。
 むずかしいが、ついていくことにしよう。

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金子直史『生きることばへ』を読みながら(1) [人]

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 2018年9月13日、共同通信文化部の金子直史さんが大腸がんのため亡くなった。享年58歳。その遺稿集が2019年8月に出版された本書である。
 個人的な思い出をいくつか。
 金子さんとはじめて会ったのは、2002年8月28日。当時、文化部長の立花珠樹さんもいっしょだった。ぼくは、あのころ子会社のKK(株式会社共同通信社)図書編集部にいて、田口ランディさんの新企画をめぐって文化部から相談を受けたのだった。同じ部の但木幸子さんにつきあってもらったことを覚えている。そのときの金子さんは元気そのもので、どこか無頼派の雰囲気さえただよわせていた。
 2008年3月には、辺見庸氏の連載「水の透視画法」の出稿作業を、立花さんとともにぼくが金子さんから引き継ぐことになった。この作業はぼくの定年後もつづき、その後、KKからの単行本化へとつながっていく。
 最後に金子さんと会ったのは2014年5月28日に日本プレスセンターで開かれた講談社の鷲尾賢也さんを偲ぶ会でのことだ。「やあ、どうも」といった軽いあいさつしか交わさなかったが、そのとき彼の顔が赤黒くなっているのが気になった。思えば、これが彼を最後に見かけたときだ。もっと話をしておけばよかったと悔やまれる。
 年譜をみれば、2013年1月29日に、金子さんは渋谷の日赤医療センターで大腸がんの手術を受けている。だから、その1年数カ月後に会ったとき、彼は引きつづき、抗がん剤治療を受けていたのかもしれない。そのことに気づかないぼくは、相変わらずの脳天気ぶりだった。
 2016年6月の検査で、大腸がんの再発がわかり、10月6日に渋谷の日赤で12時間におよぶ手術。
 年末にはがんが肺に転移していることがわかり、翌2017年1月6日の執刀医診断で、余命宣告を受けた。「まあ、何もしなかったら1年。処置をして2年?……3年かな??」
 いきなりの宣告である。
 そのときの日記には「『これはなんだ? いったいなんだ? 悪夢か?』と思った」と記されている。
 それから1年8カ月、金子さんはがんばる。原稿を書きつづけた。
 いま、その遺されたことばと、ぼくは向き合っている。

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竹田青嗣『欲望論』を読む(2) [思想・哲学]

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 2年前、この本を衝動的に買ってしまい、序文だけ読んで放り出してしまった。悪い癖で、本屋に行くと、ついおもしろそうだと思い、買うのだが、買っただけで満足し、けっきょく読まないという本が多い。とくに哲学書がそうだ。買った手前、ぱらぱらとめくってみるのだが、前提となる教養がないため、読みはじめてもさっぱりわからず、すぐに投げだしてしまう。その繰り返し。
 本の整理を迫られている。あまり先がなさそうだ。そんなわけで、年寄りの冷や水とからかわれるのを承知で、無謀にもこの本を読んでみることにした。
 参考までに、前回の序文だけのまとめを挙げておく。「気の向くままに、少しずつ読んでいきたい」と書いたのに、いったいどうしたことだろう。困ったものだと思う。

https://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2017-12-09

 今回は第1部「存在と認識」の第1章「哲学の問い」をまとめてみる。
 人が世界をえがこうとするのは言葉をもつからである。最初の世界は宗教的世界としてあらわれる。死の畏怖が神々の世界をつくりだす。
 神々の物語は、人のいまを説明する。それは確執と戦い、秩序と混沌、善と悪などからなる物語だ。神々によって、人間は創成されたと信じられる。
 死の畏怖と不安から「普遍闘争」、すなわち「生きるために殺す」闘争がはじまる。そして、「共同防衛的集合社会」として国家が誕生する。その国家はもちろん戦争の主体でもある。そのさい、宗教は少なくとも共同体内では「暴力原理に対する根源的な抵抗」を示す平和原理となる。
 哲学が登場するのは紀元前6世紀前後だ。それは最初、宗教的説話を受け継ぐかたちで誕生し、世界の始原的原理をさぐる言語ゲームへと発展していく。
 インドのウパニシャッド哲学は、「有」から世界が生成し、広がっていくありさまを提示する。中国の老荘思想はわずかに世界の始原をえがくものの、儒教思想にはそうした哲学的思考はみられない。
 インドにおける哲学体系の発展と世界原理の把握。そこでは精神と物質の区別、自我と知覚、思考、理性の関連が示される。苦と輪廻、解脱の思想が、その根本だ。
 仏教はさらにその哲学を精緻化する。その過程で、一元論と多元論、唯物論と観念論などといった、哲学ならではのさまざまな対立図式が生まれる。
「空」の思想も誕生するが、まだ宗教的色彩が強く、本格的な「認識の謎」や「言語の謎」にはいたらない。もっぱら解脱をめざす便法にとどまる。相手の論の矛盾をつく帰謬論があらたな思索の方法を示したが、それは哲学の問いには発展しない。
 ギリシャ哲学において、はじめて哲学の問いがあらわれる。すなわち、存在、認識、言語にたいする問いである。著者によれば、ギリシャで哲学が誕生したのは、そこには少なからず自由な社会が存在したからだという。言論の自由なくして、思索の発展もありえない。
 イオニアの哲学者たちは、存在原理の探究から出発した。火と土と水。その発生と運動、展開、消滅、そして無限なるもの。ヘーゲルとハイデガーは、ここに哲学のはじまりをみる。しかし、世界認識の普遍性が問題として立ちあがるまでには、プラトンとアリストテレスの登場を待たねばならない。
 ギリシャ的思考の特徴は宗教から離れた思考様式、すなわち自由な思考の展開にある。それは、世間の先入見と臆断を解除しつつ、理性がとらえうる最高の普遍性へと近づいていく。「思考の思考」が繰り広げられる。
 パルメニデス。存在するものだけが存在する。人は存在するものしか思索できない。無から存在、存在から無への転移はない。
 ヘラクレイトス。万物は永遠であり、不断の流れと運動のうちにある。世界は生成変化している。生成を生みだすのは、対立と調和、統一の動きである。ここには感覚的思考にとどまらない抽象的(超感覚的)思考、認識における時間性の契機が登場している。
 認識の正しさ、言語の正しさは何によって保証されるのか。存在論、認識論、言語論の困難な問いから懐疑論が生まれる。
 ギリシャにおける懐疑論の代表者はゼノンとゴルギアスである。ゼノンの有名なアキレスと亀のパラドクス。あるいは飛んでいる矢は止まっているというパラドクス。これらのパラドクスは論理学や数学では解決できない。これを解くには本質的な思考が必要となる。ゼノンはパラドクスをしめすことによって、哲学に相対主義的論理(帰謬論)を持ちこんだ。
 ゴルギアスのテーゼ。何ものも存在するとはいえない。たとえ存在があるとしても、それを認識することは不可能である。またその認識が可能だとしても、それを言葉で表現するのは不可能である。
「存在と認識と言語の不可能性によって、ゴルギアスは、ギリシャ哲学における最も自覚的かつ本格的な相対主義哲学、懐疑論哲学をうち立てた」と、著者はいう。
 懐疑論は形而上的独断論を批判するソフィストたちの武器となった。ソクラテス、プラトン、アリストテレスは普遍的認識論をもちだして、これに対抗することになる。
 クセノフォンによれば、ソクラテスは世界とは何か、永遠とは何かといった問題ではなく、美とは何か、勇気とは何か、国家とは何かというような、現実生活に結びつく問題について、人に問いつづけた。生きる知恵を与える人だったという。
 これにたいし、プラトンのえがくソクラテスは、対話弁証法を駆使しながら、新しい哲学的地平をひらいた思索者として登場する。ソクラテスは、人びとが自明とする認識に疑いをいだかせる。だが、ソフィストとちがい、真理についての確信をいだいている。
 プラトンはソクラテスから認識の普遍性に到達するための方法を受け取る。それは「臆見(ドクサ)」から「真知(エピステーメー)」を導きだす方法だった。それによってプラトンは「イデア」説に行きつく。
 プラトンの弟子、アリストテレスは、その代表作『形而上学』で、それまでの知の総体を総括することによって認識の普遍性にいたろうとした。だが、「存在」を規定しようとするその記述は網羅的で、混乱している、と著者はいう。
 師プラトンのイデア説を批判するのが、アリストテレスの存在論の特徴である。あらゆる存在の「本体」としてのイデアなるものは、言葉のあそびであり、そんなものはない。
 ものには原因(質量因、形相因、動因、目的因)があり、変化(生成と消滅、性質の変化、増大と減少、移動)がある。事物存在の様態は可能態と現実態からなる。人間の存在は、構成要素(精神と質量)、外的原因(父親)、内的原因(太陽)からできている。「実体」は物と宇宙、神である。
 存在の総分類、原因から神にいたる考察がアリストテレスの思考の特徴だ。感覚だけでは事物の生成変化をとらえることはできない。それをおこなうには時間的契機を導入し、根本原因にいたり、もう一度事物の総体を見つめなおさなければならない。そこで発見されるのが「力」という概念だ。そして、一切の存在を生成する根本原因は神だという結論に達する。
 ここで、もう一度プラトンのイデア説について、考えなおしてみよう、と著者はいう。

〈プラトンのイデア論は、長く、感覚的な世界の上位に超感覚的な世界をおく本質実在論、あるいは実念論であるという通念に支配されてきた。しかしプラトンのイデア論の最も重要な核心は「存在」の思考に対する「価値」の思考の優位という点にある。〉

 プラトンは思惑や臆見に左右されやすい人間から出発する。その人間が「善のイデア」という価値に導かれて、「真知(エピステーメー)」、すなわち普遍の認識にいたるにはどうすればよいか。プラトンはそれをさぐろうとした、というのが著者のとらえ方である。
 そして、ある意味で、著者もこのプラトンの思いを共有している。著者はニーチェとフッサールに依拠しながら、懐疑論と本体観念を根本的に解体し、間主観的確信にもとづく普遍的認識への道をさぐろうとしているからである。
 快刀乱麻、新たな哲学が切り開かれようとしているのではないか。まだ、とば口だが、そんな予感がする。

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ゴードン『アメリカ経済──成長の終焉』を読む(10) [商品世界論ノート]

 経済成長の源泉はイノベーションと技術革新であり、そこに資本と労働が投入されることによって経済発展が生ずる。起業家の役割はけっして無視できない。1970年以降のそうした起業家として、マイクロソフトのビル・ゲイツ、アップルのスティーブ・ジョブズ、アマゾンのジェフ・ベソス、グーグルのセルゲイ・ブリンとラリー・ペイジ、フェイスブックのマーク・ザッカーバーグなどの名前を挙げることができるだろう。アメリカで起業家が活躍できるのは、民主的な特許制度があるからである。
 ところで、ここで新たに開発された生産性の指標である全要素生産性(TFP)の伸び率を調べてみると、それが圧倒的に高かったのは1920〜70年であり、1.89という数字が出ている。これにたいし、1970年以降は、1970〜94年が0.57、1994〜2004年が1.03、2004〜14年が0.40となっている。
 1920〜70年は、第2次産業革命によって、経済が順調に成長した。1994年からの10年間が盛り返したのは、いわゆるデジタル革命(第3次産業革命)の成果があらわれたためである。このかん、インターネットやブラウザー、検索エンジン、電子商取引が普及した。しかし、その後2004年以降の指数は落ちこんでいる。
 第3次産業革命の成果は、通信分野と情報技術にかぎられる。通信分野を引っぱったのは携帯電話からスマホへの流れである。情報技術ではパソコンが普及するとともに、巨大なネット企業が誕生した。しかし、デジタル革命が生活の改善にもたらした分野は限られている、と著者はいう。
 たしかにパソコンはオフィスや家庭の環境を変え、たとえばそれまでの商品カタログも電子化された。スマホやタブレットが普及して、人どうしの連絡も容易になった。何もかも簡単にできるようになったのに、経済の成長はみられないのはどうしてだろう。
 小売業は停滞し、ATM化にもかかわらず銀行業界はかえって苦境におちいっている。家電の開発はほぼ終わり、スマホの進化もこれ以上、たいして期待できそうにない。
 経済の活力が低下したようにみえるのは、2005年以降、市場への新規企業の参入率が低くなり、それを越える割合で既存企業の退出率が増えているからだ。市場から退出する小売業者やサービス業者が多くなっている。いっぽうハイテク分野でも新規参入する企業が減っている。労働者のあいだでは新たな雇用機会が少なくなり、失業期間が長引くと職を得るのが、いちだんとむずかしくなっている。
 製造業の生産能力の伸び率は低下している。設備投資にも力強さがみられない。コンピュータの性能向上ペースも最近は鈍化している。
 将来のイノベーションとして考えられる分野としては、どのようなものがあるだろうか。技術楽観派が持ちだすのは、とりわけ人工知能(AI)分野である。具体的には、医療、小型ロボットと3D印刷、ビッグデータ、自動運転などがよく挙げられる。
 1940年から80年にかけ、医療技術は急速に進歩した。進歩はその後も緩慢ながらつづいている。がん特効薬の開発も進んでいる。認知症の治療薬にも関心が向けられている。わずかにせよ今後も平均余命は延びるだろう。
 ロボットの小型化、高性能化も進んでいる。ロボットは職場から労働者を排除するものではなく、むしろ人間とともに作業をおこなうものになるはずだ、と著者はいう。3D印刷の強みは、新しい設計モデルを比較的低コストでつくれることにあり、さまざまな分野での効果が期待されている。
 AIは人間に似た能力をもつコンピュータである。そのひとつの応用としてのビッグデータは、強力なマーケティング・ツールとして、さらに利用されるものとなるだろう。
 さらにAIは、最新の検索ツールを使って、大量のデータのなかから必要な情報を瞬時に見つけだす。だからといって、AIが完全に人間に代わるわけではない。「コンピュータが人間に代わって分析するケースもあるが、多くの場合、コンピュータは人間と共同で分析スピードを速め、より正確にする」
 そして、自動運転である。自動運転のメリットは、自動車事故の発生率をより低下させ、カーシェアリングの普及を促進し、それによってガソリン消費を減らし、大気汚染を改善することにある。さらに自動運転はトラック運転手の負担を減らし、配送の生産性を高める可能性もある。しかし、安全に走れるようになるまでには、まだまだ改善すべき課題が多い。
 こんなふうに将来のイノベーションには多くの期待すべき面がある。しかし、デジタル革命がそうであったように、そうしたイノベーションは1920年代から1970年代にかけてもたらされた生活の改善にくらべれば、派生的で微々たるものだ、と著者はみている。
 以下は、1970年代以降の問題についてだ。
 社会のすべての構成員が経済成長の成果を等しく享受できる保証はない。とりわけ1970年以降は所得格差が目立つようになってきた。イノベーションの効果は減退し、むしろさまざまな逆風が吹くようになった、と著者はいう。その逆風は、所得格差、教育、人口、政府債務の面で、とりわけ顕著になっている。
「すべての逆風を勘案したとき、1人あたり実質可処分所得の中央値の将来の伸び率は、プラスを維持するのがむずかしく、19世紀末以来のアメリカ国民の各世代が享受した伸び率を大幅に下回ることになろう」。これが将来にたいする著者の悲観的な見通しだ。
 1972年から2013年までの、所得上位10%と下位90%の人びとの実質所得の伸び率を調べてみよう。すると、この期間、上位10%の伸び率が1.42%にたいし、下位90%は−0.17%になっている。
 1917年以降の統計をみると、1972年までは、上位10%よりも下位90%の所得伸び率のほうが上回っていた。言い換えれば、このかんは、経済格差が徐々に縮まっていたことがわかる。ところが、1972年以降は、それが逆転し、上位10%と下位90%の所得格差が広がっているのだ。
「1970年代半ばを転換点に、低中所得層の賃金が着実に上昇していた時代が終わり、過去40年は、低所得層では賃金がほとんど伸びない反面、高所得層の賃金は高い伸びを示した」と著者は書いている。
 その原因を、著者は労働組合の衰退、輸入の増加、移民の流入に求めている。加えて、オートメーション化と実質最低賃金の低下も大きな要因として挙げられている。
 労働組合の組織率が低下したのは、製造業の雇用縮小と非正規雇用の増大が原因である。加えて、輸入品の増加が国内の雇用を代替し、中低熟練労働者の相対的賃金低下をもたらした。とくに1990年から2007年にかけては中国からの輸入が拡大した。
「輸入の浸透とアウトソーシングの増加は、グローバル化の複合効果であり、国内の雇用と賃金両面に影響を及ぼした」
 1995年から2005年にかけては移民の流入が目立つ。移民によって国内労働者の賃金は小幅に引き下げられ、高卒資格のない国内労働者に打撃を与えた。加えて、労働現場では自動化が進み、それによって賃金の高い製造業の雇用が失われ、下位労働者の所得が相対的に低下した。
 とはいえ、大量失業が発生したわけではない。「職業の構成が変わり、職業分布の上位と下位で雇用が創出される一方、中間部分の雇用が消失したのだ」
 専門職とマニュアル業務へと仕事が分極化し、中間部分の雇用が失われていったことがわかる。賃金の高い製造業の雇用は失われ、コンビニや外食産業、小売りやクリーニング業、管理仕事など比較的賃金の低い部分の雇用が増えていった。アメリカでは実質最低賃金も下がっているという。
 1940年代から50年代の所得税制は限界税率が90%と累進性が高かったが、レーガン政権は1980年代前半に累進性を見直し、減税の方向に舵を切った。その結果、最高経営責任者(CEO)と平均従業員の賃金格差は、1973年の23倍から2013年の257倍へと拡大することになった。
 ファストフードチェーンの従業員は、最低賃金すれすれの賃金で働いている。これにたいし、所得分布の最上位に属する人びとはヘッジファンドなどを利用してさらに資産を増やしている。
 中位グループはほとんど資産を増やすことができず、下位グループはますます資産を減らしている。「アメリカの下位80パーセントの所得層で実質資産が伸び悩んでいるという事実は、過去30年間、生活水準の向上のペースが鈍化したとの見方を裏付ける有力な証拠である」
 ここからは下位層の賃金が伸び悩むいっぽう、上位1%層の所得が押し上げられ、中間層の一部が下位層に転落しているという構図が浮かびあがってくる。
学歴は収入と関係がある。2000年以降、高卒者や高校中退者の賃金は緩やかに低下し、大卒者の賃金は伸び悩み、大学教育の必要がない職に就かざるをえない大卒者の割合も増えている。専門職をになうのは、いまや大学院卒業者である。
 しかも「教育が格差に及ぼす影響は、現世代の所得への直接的影響にとどまらない」。格差は世代間に引き継がれていく。「高所得世帯はほぼすべて、子どもを4年制大学に進学させるのに対し、最貧困層が子どもを進学させることは稀である」と、著者はいう。
 現在のアメリカの問題は、教育水準向上のスピードが低下していることとと、学費の高騰で低中所得層の子どもが大学に行けなくなっていることだ。全般的な学力低下も目立っている。「中等教育の悲惨な結果をみれば、教育が将来の経済成長の足かせになるのは間違いない」と、著者はいう。学生ローンによる負債が、卒業後も大きな負担になっている。
 人口問題もある。アメリカでは2007年から2015年にかけ、労働参加率が66.0%から62.6%に低下した。これはベビーブーム世代が退職したことが大きいという。労働参加率の低下は、とうぜん経済にも影響をもたらす。
 政府債務も大きな問題だ。それを処理するためには税収を増やすほかなく、そのことが可処分所得を低下させ、経済成長の逆風となることはまちがいない。
 所得格差の拡大は社会環境の劣化をもたらす。婚姻率の低下と片親家庭の増加は、恵まれた雇用機会が減っていることを繁栄している。「過去30年の賃金伸び悩みと結婚の意欲低下は相互に関連しあっている」
 賃金の相対的低下は犯罪の増加とも無縁ではない。「黒人の高卒中退者の3分の2は、40歳になるまでに少なくとも一度は刑務所に入る」との驚くべき指摘もある。
 さらに、グローバル化が格差を拡大する要因になっている。輸入品の増大によって、工場が閉鎖され、数百万の労働者が中程度の賃金を得る機会を奪われた。また国内に外国資本が誘致されても、安い労働力を求める外国企業の活動が、賃金の伸びを低下させる要因となっているという。
 地球温暖化などの環境問題もある。アメリカでは水平粉砕法で、掘削可能なガス田や油田が増えたため、エネルギー問題はまず心配ないといえるが、資源がどうなるかは、これからも大きな問題でありつづける。
 これらのことを勘案して、著者は2015年から2040年にかけてのトレンドを予測する。
 それによると、今後25年の年平均伸び率は、労働生産性が1.20%、1人あたりGDPが0.80%、1人あたりGDPの中央値が0.40%、1人あたり可処分所得の中央値が0.30%になるという。これはあくまでも予測だが、端的にいって、ほとんどゼロ成長の時代になるということだ。
 著者はこう書いている。

〈1770年まで、千年にわたって経済成長といったものはなかった。1870年までの過渡期の1世紀には、経済は緩やかに拡大し、アメリカの場合は、1970年までの革新の世紀にめざましい成長を遂げた。それ以降、成長は鈍化している。アメリカの成長が1970年以降、鈍化したのは、発明家がひらめかなくなったわけではないし、新しいアイデアが枯渇したわけでもない。食料、衣服、住宅、輸送、娯楽、通信、医療、労働環境など、生活の基本的な部分が、その時点で一定の水準に達してしまったからだ。〉

 つまり、経済はほぼ飽和状態に達し、AIが生活水準の向上にもたらす影響はかぎられているということだ。
 そのいっぽうで、著者は、いまでもアメリカは世界で優位性を保ち、その経済システムは堅固であり、こうした状態は少なくともあと25年はつづくと予想している。
 これからはゼロ成長の時代にはいっていくが、そのこと自体は問題ではない。むしろ、問題は経済格差が広がっていることである。これにたいし、政府は何らかの手を打たねばならないと著者は考えている。経済格差の拡大を圧縮し、さらなる平等を実現し、社会の一体感を保つために、政府は行動しなければならない。
 そのためには、次のような政策が考えられる。
 ひとつは上乗せ報酬にたいする課税、100万ドル以上の所得にたいする特別課税、そして相続時の金融資産にたいする課税強化である。そのいっぽうで、最低賃金の引き上げや、低所得層の所得税免除も考えるべきだ。
 機会の平等を高めるためには、教育の役割が何よりも重要である。まず幼児教育の充実がはかられねばならない。とりわけ貧困家庭でリスクにさらされている子どもにとっては、幼児教育が将来を左右する。政府は幼児教育にもっと予算をつぎ込むべきだ、と著者は主張する。
 中等・高等教育が重要なのはもちろんである。豊かな地域と貧しい地域とでは、現在、教育体制に格差がある。それを平等なものに変え、全般的に学力を向上させる必要がある。大学の学生ローン問題にも対処しなくてはならない。著者は、大学在学中は授業料がかからず、卒業後に所得に応じて返済するシステムができないかと考えている。
 著作権法や特許法、土地利用規制などによる規制や新規参入を制限する認可制度を見直す必要がある。「過度の規制を緩和することが、格差を縮小し、生産性の伸びを押し上げるうえで、実現可能な政策手段のひとつである」
 高スキルの移民を増やすことも必要だ。公平性を大幅に高めるため、租税優遇措置などを見直し、税制改革をおこなう必要がある。財政再建も欠かせない。そのためには所得上位層への課税、炭素税の導入などが考えられる。
 こうした政策をとるのは、経済格差をできるだけ圧縮することで、より公平で賢明な社会をつくるためである、と著者はいう。
 このままではいけないという真摯な思いが伝わってくる。

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ゴードン『アメリカ経済──成長の終焉』を読む(9) [商品世界論ノート]

 本書もいよいよ最後の第3部「成長の加速要因と減速要因」にはいろうとしている。長々と要約してきたが、ほんとうは日本経済やソ連経済と比較しながら読んでいくのが有益なのかもしれない。あるいはマルクスやマーシャルを念頭に考察を深めるという方向性も考えられる。しかし、それはそれとして、いまは最後まで読むことを優先しよう。ぼんやりじいさんの読書メモだから、内容はあてにならない。
 1920年から1970年にかけて、アメリカでは史上もっとも労働生産性の高い時代が訪れ、それによりアメリカ人の生活は大きく改善された、と著者は書いている。さまざまなイノベーションがなされただけではない。この期間に、労働時間も週60時間から週40時間に減った。
 1920年から70年にかけての成長ペースが、それ以降鈍化し、とりわけ2000年以降、大きく減少するのはなぜか。これが、本書のメインテーマのひとつといえるだろう。
 1970年以降、労働生産性の伸びが低下したのは事実である。1996年から2004年にかけては、情報技術への投資によって、労働生産性は一時回復する。だが、それ以降、労働生産性の伸びはさらに鈍化している。
 1970年以降、成長をリードしたのは娯楽、通信、デジタル機器、IT部門だった。だが、それも2005年以降は頭打ちになる。
 食料や衣服、住宅については、すでに1940年代までにほぼじゅうぶん満足できる状態に達していた。1940年代から70年代にかけては、家庭に電化製品が普及し、豊かさが広がる。その後の進化は微々たるものである。
 高速道路網は1970年代にほぼ完成をみた。航空機もジェット機への転換が完了した1970年代以降、大きな進歩はみられない。医療や健康面も1970年代でほぼ体制が固まっている。
 労働環境の改善も基本的には1940年までに実現し、1970年代がピークとなった。1980年代以降は、女性の社会進出が目立つ。
 1人あたり実質GDPには、生活水準や労働生産性の伸びがもたらした大きな進歩が反映されていない、と著者は考えている。言い換えれば、消費者余剰やイノベーションの価値が過小評価されているというのだ。そうした価値は価格指数でとらえきれないもので、経済成長が人びとの生活改善に与えた影響ははかりしれない、と著者はいう。
 本書第3部では、次のことが検討される。
 第1は1920年から1970年にかけての経済成長の足どりである。とりわけ重視されるのは大恐慌の時期と第2次世界大戦の時期だ。
 第2に検討されるのは、1970年以降に成長が減速した理由である。1990年代末のIT革命は一時的なものに終わり、大きな経済成長に結びつかなかった。これからの25年間も、たとえイノベーションがあっても生産性全体に与える影響はごくかぎられているだろう、と著者はいう。
 第3に検討されるのは、1970年代後半から広がりはじめた経済格差が、これからどうなっていくのかという問題である。学歴の上昇も頭打ちになり、学歴が生産性向上に結びつかなくなっているという現実もある。1990年以降、女性の労働市場参入によって、1人あたり労働時間は増加したものの、2008年以降はベビーブーム世代が退職したことにより、1人当たり労働時間は減少しはじめている。結婚制度が機能しなくなったことも問題だ。そのような時代においては、どのような政策が可能なのか、と著者は問う。
 今回のブログが扱うのは、第1の部分だ。第2、第3の部分、すなわち1970年代以降と、将来の展望については、次回あらためて論じることにする。できれば、次回で本書の内容紹介が終わればいいのだが……。

 1920年代から1950年代をふりかえってみると、アメリカでは生産が大躍進したのは、意外なことに1928年から1950年にかけてであった、と著者は書いている。
 もちろん、1929年から33年にかけては大恐慌の時期であり、生産量、労働時間、雇用は崩壊した。その後、経済は部分的に回復するが、1938年にはふたたび不況になる。
 それから1938年から45年にかけてGDPは大幅に伸びる。巨額の戦時支出がなされたことが大きい。だが、その後も経済は崩壊しなかった。戦後、軍事生産が住宅や自動車、家電に転換されたのである。
 大恐慌はニューディール政策の導入をもたらした。
ニューディールは社会保障政策を導入しただけでなく、労働組合の組織化を促した。それにより、実質賃金は引き上げられ、1日8時間労働が実現した。だが、それは経済社会の停滞をもたらさない。むしろ逆である。
 いっぽう政府はインフラ投資を拡大し、金門橋やベイブリッジ、テネシー川流域開発公社、フーバー・ダムなどの巨大プロジェクトを推進した。
 1939年からは第2次世界大戦がはじまるが、とりわけアメリカの場合は、戦争が経済にもたらしたプラス面を否定できない、と著者はいう。政府は軍事生産のために、資金を負担して工場や設備を新設した。1930年代は、技術革新の時代でもあった。そして戦時下に滞留した家計の貯蓄は、戦後になって消費財の購入にあてられていくことになる。
 1人あたりGDPは、大恐慌がはじまった1929年から33年にかけ急減したあと、第2次世界大戦中に急増し、その後も増えていった。
 1930年代後半以降、実質賃金の上昇ペースは以前よりも高くなり、その時期、同時に労働生産性も高まっている。引きつづき、1950年代から70年代半ばにかけても、実質賃金の伸びが労働生産性の伸びを上回った。逆に1970年代半ばから2014年にかけては、逆の現象が生じる。労働生産性が伸びても、実質賃金は低迷するのだ。
 労働の質は教育水準ではかられることが多い。第2次世界大戦前後に、アメリカの教育水準は大きく向上した。高卒率は1900年の6%から1970年の80%に上昇した。大卒者も増えてくる。そのことと労働生産性の伸びは関係している。
 しかし、労働生産性は資本投入量とも関係している。資本の投入なくして、労働生産性の上昇はありえない。資本投入量は大恐慌時に落ち込み、その後1935年に回復、1941年に急増し、1944年に倍増している。戦後も資本投入量はさほど減っていない。
「単純化すれば、アメリカの総生産量は、1928年から1972年にかけて資本投入量をはるかに上回るペースで増加したが、その後、1972年から2013年にかけては、そのペースがきわめて緩慢になっている」
 専門的な論議は省略するが、1920年代から1950年代にかけ、とりわけ大恐慌後、経済の「大躍進」が生じた原因を著者は次のようにみている。
 ひとつは、労働者寄りのニューディール法制により、労働者の実質賃金が上昇したこと。それにより労働から資本の代替が進み、活発な設備投資がおこなわれ、それにより労働生産性が上昇したこと。
 もうひとつは、戦争による高圧経済である。たとえば戦争を遂行するため、造船所や飛行機工場などには、生産をさらに増やすよう圧力がかかった。それにより1日24時間体制が実施される。さらに生産の効率化とコスト削減が同時に進められた。
 戦後、軍事から民間へと需要がシフトしたあとも、需要は減らなかった。

〈1946−47年、鬱積した需要が解き放たれ、軍事品から民生品の生産へと迅速に切り替えられた工場は、自動車やテレビは言うに及ばず、冷蔵庫、ストーブ、洗濯機、ドライヤー、食洗機の需要を満たすべく奮闘した。無尽蔵ともいえる需要に応えるため、第2次世界大戦下の高圧経済で効率的な生産について学んだあらゆる手法が導入された。〉

 多少の生活の不便はあっても、戦時の活況が、大恐慌時の絶望感を払拭し、国民全体に先行きへの期待をもたらした、と著者は書いている。このあたりは資源が豊富な戦勝国アメリカならではの実感だったかもしれない。内心忸怩たるものを覚えないわけではないが、朝鮮戦争が日本経済復興のきっかけとなったのも事実である。
 さらにもうひとつ、著者が注目するのが政府による資金投入である。1930年から45年にかけ、アメリカ政府は新工場の建設資金を負担し、民間企業に軍需品の生産を促した。政府は軍需工場を新設し、それを民間企業に委託しただけではない。テキサスからニュージャージーにいたるパイプラインなどを敷設するために、大量の資金を投入していた。そうした政府の資金投入によって、アメリカの生産技術が大幅に向上した面はいなめない、と著者も認めている。
 さらに、この3つの要因に加えて、著者の指摘するのが都市化である。都市化によって、労働者が農村から都市にシフトしたことが、経済全体の生産性を高めた。
 もうひとつは閉鎖経済である。1930年から60年にかけ、アメリカでは移民が制限された。そのため、移民との競争がなくなり、労働者の賃金が上昇した。さらに高関税により輸入が抑えられ、国内の工場にイノベーションが施された。「移民制限法と高関税によるアメリカの閉鎖経済は、1930年代の実質賃金の上昇と、国内経済における革新的技術への重点投資、1920年代から50年代の一般的な格差の縮小に寄与したとみられる」
 19世紀末の最大の発明は電気と内燃エンジンだった。だが、それらが汎用化されるまでには20世紀前半を待たなければならなかった。その汎用化がもっとも進展したのが1930年代である。
1930年代には運輸・流通業が発展する。電力発電量も大幅に増加した。流通システムも大幅に改善された。
 アメリカにとって画期的だったのは1930年10月に東テキサス油田が発見されたことである。それにより、アメリカでも化学産業がスタートを切る。プラスチックが発明されたのも1930年代だった。セルロイドやビニール、セロファン、ベークライト、アクリル、テフロン、ナイロンなどの新製品も生まれてくる。タイヤの質の改善も生産性の向上に寄与した。「1930年代は、技術進歩の10年として輝きを放っている」
 皮肉なことに、恐慌と戦争が生みだしたさまざまなイノベーションが1970年代までのアメリカの経済成長を支えた。
 そのあとはどうか。次回は1970年以降をみていく。

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