SSブログ

船場という場所 [山片蟠桃補遺]

IMG_2940.jpeg
[1830年代の大阪。大阪くらしの今昔館で]
 引きつづき、中沢新一の『大阪アースダイバー』を読んでいます。
 ナニワの商人にはミトコンドリア性が強かった。権力に取りこまれても、おいそれとは服従しなかった、と中沢は書いています。ここでいうミトコンドリア性とは、生命力の源といってもよいでしょう。
 商人の世界ではゼニが絶大な威力をもちます。それは合理主義、自由な発想をもたらしますが、いっぽうでは殺伐とした競争社会を生みだします。
 しかし、どうやら船場には、この殺伐さを防ぐ文化のようなものが形成されていた、と中沢はいいます。それを象徴するのが暖簾です。暖簾は古さと信用をあらわします。商品は暖簾に守られることによって、えげつないゼニを稼ぐための手段ではなく、いわば信用に包まれた価値になります。
 大阪人はこってりしているというより、むしろあっさりしているのではないか、と中沢はいいます。それは商品のもつ性格からきています。
 商品は売れたら、それでいわば縁切りになって、一サイクルが完了します。それからまた次のサイクルがはじまるわけで、いつまでもこってりとこだわるのは大阪人らしくないというわけです。にもかかわらず、大阪人はむきだしのゼニよりも信用をだいじにしました。
 信用はおカネをベースにしていますから、じつに合理的です。しかし、それが単に合理的ではなく、信仰の域にまで達していたのが、ナニワ商人の特徴だった、と中沢はいいます。
「ナニワ商人は、この信用の空間を絶対に信仰し、信仰にはずれた行為は、厳に自分に禁じた」
 ナニワでは、土地の取引にあたって「手金」なども取りませんでした。「口約束」で「手打」が完了。取引の多くも「手形」でおこなわれました。
 手形も単に便宜上の発明ではなかったといいます。手形を交わすことは、お互いが信用の約束を交わすことにほかなりませんでした。
「ここには信用の空間への律儀な信仰が、確固として保ち続けられた」
ですから、船場というのは、単なる商業地域ではなく、商業道徳の信仰空間だったわけです。
 船場では恋愛は御法度だったといいます。恋愛を暖簾のなかにもちこまない。たしかに、これも商業道徳のひとつにちがいありません。どろどろの恋愛が暖簾のなかにはいってくると、近松門左衛門の『女殺油地獄(おんなごろしあぶらのじごく)』になってしまいますものね。
 しかし、船場に愛情がなかったわけではありません。そこには「クールに洗練された、デリケートな愛情の世界が、静かに形成されていった」と中沢は書いています。それを表現したのが谷崎潤一郎の『細雪』だったというわけでしょう。
 とはいえ、暖簾の外では、ナニワ商人のエネルギーが奔放だったことも忘れてはなりません。そこからは遊び人のぼんぼんの世界が広がっていきます。
 商家は一種の修行の場だったといいます。丁稚は船場道場で商人道の修行に励んだと、中沢は書いています。その丁稚を鍛え上げるのが若い番頭の役割でした。
「船場には、生まれたばかりの時期の、日本の資本主義の思想が、巨大なフォークロアの集積体として、番頭から弟子へと伝えられてきた」というわけです。
 その哲学の根本は「商人がゼニを正しく動かす思想を忘れないでいれば、商人道は社会を豊かに富ませていく、この世でいちばん重要な仕事となる」というものだった、と中沢は書いています。
 蟠桃の思想を育んだのが、船場での丁稚奉公だったことはまちがいないでしょう。それはいったいどういうものだったのでしょう。
 香村菊雄に『船場ものがたり』という名著があります。著者は船場育ちで、この本で、いまはない船場の様子を再現しようとしています。
 これを読めば、時代はかなり下るとはいえ、蟠桃が13歳から修行した船場がどういう場所だったかを、もう少し接近してつかめるのではないでしょうか。そんな期待をもって、この本を読みはじめました。

nice!(8)  コメント(0)