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ことしもいろいろお世話になりました [雑記]

たぶんそんなに長生きしないだろうと思っていたのに、70の坂を越えておかげさまで71歳を迎えることができました。
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山田風太郎の『人間臨終図巻』(1986〜87)を読むと、71歳で亡くなった人として、こんな人がリストにあがっています。

近松門左衛門、ダニエル・デフォー、本居宣長、司馬江漢、松平定信、オノレ・ドーミエ、古河市兵衛、児島惟謙、コナン・ドイル、新渡戸稲造、島崎藤村、野口遵、市村羽左衛門(十五世)、斎藤茂吉、大川周明、レイモンド・チャンドラー、花柳章太郎、江戸川乱歩、佐藤千夜子、劉少奇、柳家金語楼、ハワード・ヒューズ、平野謙、山岡荘八、近藤日出造、笠置シズ子……

山田風太郎の評伝はいずれもすばらしいものですが、なかでもぼくのお気に入りは、近松門左衛門がみずからの画像に記した最後の賛です。

〈……市井(しせい)に漂いて商買知らず、隠に似て隠にあらず、賢に似て賢ならず、物知りに似て何も知らず、世のまがい者、唐(から)の大和の数ある道々、技能、雑芸、滑稽の類(たぐい)まで知らぬ事なげに、口にまかせ筆に走らせ一生を囀(さえず)り散らし、今わの際(きわ)に言うべく思うべき真の一生事は一字半言もなき倒惑(とうわく)〉
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これからもいましばらく、さえずりちらすことができれば、もっけの幸いです。

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「純粋な幸福」をめぐる妄想 [本]

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 詩や文学はわからない。想像力に欠けるため、どうも苦手なのだ。
 それでも、辺見庸の詩集『純粋な幸福』のなかから、長詩「純粋な幸福」を読んでみる。理会にはほど遠いから、以下はただの思い込み、ないし妄想である。
 この長詩はちいさな映画館で、ひとり映画に魅入るようにして読むのがいい。そんなふうに、自分の頭のなかにもスクリーンを広げて、次々くり広げられるスペクタクルを、大笑いしたり、唖然としたり、あきれたりしながら、楽しむべきではないか。そんなふうに思ったりする。
 出演者は生きている死者たちである。死者たちは死んでいない。むしろ、作者のなかで、生きていた昔より溌剌、奔放になっている。
 かれらは松林のなかでつがい、バスに乗って町にでかけ、燃えさかる町に突入し、古い映画館で無声映画を見て、草原で凧になって散華する人たちを眺める。
 ほんとうは、そんなふうに要約することに何の意味もない。ことばは根のように広がり、からまり、爆発し、つながっているからだ。その混沌が楽しい。音が美しい。笑える。ことば遊び、エロス、歌と踊り、バイオレンスにあふれている。
 ハッピーな詩集である。
 肝心なことを書き忘れていた。
 純粋な幸福とは何のことか。
 味も素っ気もなくいってしまえば、それは「天皇の国にいる喜び」にほかならない。思い込みかもしれないが、ぼくは勝手にそう感じている。もちろん反語である。
 たとえば正月の一般参賀で、天皇は「年頭に当たり我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」との「おことば」を発するのが恒例になっている。
 なぜ、われら国民や世界の人びとが天皇に「安寧と幸せ」を祈られなければならないのか。その「おことば」だけでなく、パレードや行幸、被災地訪問に、われわれが「純粋な幸福」を感じるのは、どうしてなのか。
 皇居前広場の祝典で「嵐」もこんなふうに歌った。

  ごらんよ僕らは君のそばにいる
  君が笑えば世界は輝く
  誰かの幸せが今を照らす
  僕らのよろこびよ君に届け

 これが皇室から発せられる「純粋な幸福」のメッセージでなくて何だろう。奉祝はそんな皇室がいつまでもつづくことを願う祭典にほかならない。
 そんなときに縁起でもないかもしれないが、なぜかぼくは1970年11月25日に自裁した三島由紀夫のことを思いおこす。
 ミシマは見えざる日本の神に、鍛え上げた最高の知性と肉体を人身御供として捧げることに人生の価値を見いだしたのだった。その目的は日本文化の永遠と安寧を祈ることにあった。
 皇室にとっては、さぞ迷惑なことだったろう。腹を切ったとき、ミシマは「純粋な幸福」を感じていたのだろうか。
 長詩の一節。

……たくさんの、あおむいたひとの筏。無数の人の艀。足─海側。あたま─山側。河口の造船所ほうこうにながれてゆく。上流からくだってくる、ぼうぼうと発光する幾千の、目をみひらき、あおむいたにんげんたち。あおむいてながれて、戦争をうたふ、純粋な幸福の(無)意識たち。……

 臠という漢字があるそうだ。一片の肉。「れん」と読むのだそうだ。
 この字にはもうひとつの読み方がある。すなわち「みそなわす」。つまり、神なる存在が、ごらんになる。
 われらはかんかんのうを踊らされる臠にすぎない。それを賢きあたりが「みそなわす」のが、永くつづくこの国の風俗である。
 そんなことは、もうやめにしないか。
 エロスと卑俗と哄笑の大爆発が、18禁のスクリーンいっぱいに広がる。

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カンボジア旅行最終日──カンボジア2019春ツアー(9) [旅]

2月17日(日)
カンボジア観光最終日。これまで、あまりに多くの寺院を回ったため、頭がごちゃごちゃになりつつあります。それにしても、あらためて実感するのは、9世紀から15世紀にかけ、いかにアンコール周辺に大きな文明ないし国家が築かれていたかということですね。
それがなぜ滅びたか。これも大きな謎です。
最終日のきょうは、シェムリアップの南東にあるロリュオス遺跡群を回り、それからバスでプノンペンに戻ることになっています。約7時間の長旅です。
ロリュオスには、8世紀ごろ王都が築かれていました。アンコールに移る前のことです。ここには、バコン、プリア・コー、ロレイの3寺院が残されています。
9時にシェムリアップのホテルを出発。市場のあたりは車やオートバイで混雑しています。
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9時40分、バコンに到着。
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881年にインドラヴァルマン1世によって建てられた、5層ピラミッド型のヒンズー教寺院です。階段は40段あり、階段にレリーフはありません。クメール王朝では王が代わるたびに遷都がありました。このあと王都はアンコールに移ることになります。
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バコンのてっぺんに登ってみました。
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上から眺める光景です。左右に経蔵があります。
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第3層から上を眺めると、中央祀堂が空にそびえています。
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次に訪れたプリア・コーはさらに古く879年に建てられたといいます。レンガつくりで、現在ドイツが修復に当たっています。
シヴァ神を祀る寺院で、シヴァの乗る牛の像が残っています。
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怪物カーラが門の入り口を守っています。
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兵士の像ですね。金剛力士像でしょうか。日本にくると、これが仁王さまになるわけです。
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壁に経文らしきものも刻まれています。クメール文字のようです。
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最後にやってきたロレイは893年に建てられたヒンドゥー教の寺院です。塔が4本建っていますが、現在修復中。
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壁にはこんな戦士像が……。これもおそらく金剛力士像です。
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ふくよかなデバター(女神)ですね。
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いよいよカンボジア・ツアーも終わりです。
昼食をとったレストランの庭には、ドリアンが実をつけていました。
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12時半出発。プノンペンに向かいます。
途中、アンコール時代の古代橋スピアン・コンポンクディを見学。ナーガ(ヘビ)の彫刻が印象的な12世紀半ばの橋です。当時は、こうした橋がいくつも川にかかっていたといいます。
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国道6号線を南下。
だんだん日が落ちてきます。
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渋滞するプノンペン中心部を迂回し、空港近くで軽い夕食をとります。
内戦終結記念塔がみえました。
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カンボジア内戦が完全に終結したのは1998年12月29日。いまもこの日にはウインウイン記念塔の前で式典が開かれています。
1998年4月にポル・ポトが亡くなったあと、シアヌーク国王はポル・ポト派が休戦に応じたら、罪を問わず、土地やおカネも与えるという条件を示し、ポル・ポト派とフン・センとのあいだの和解にもちこんだといいいます。その後地雷の撤去がはじまりました。
ガイドさんによると、最近のカンボジアは中国の経済進出が目立ち、中国はカンボジアに港まで確保しようとしているといいます。貧困、ゴミ問題、渋滞、中国の進出(そしてガイドさんは言わなかったですが、中国と結びついたフン・セン独裁政権)が、カンボジアの大問題です。
夜8時過ぎ空港に到着。10時50分の全日空便で帰国の途につきました。
短いツアーでしたが、多少なりともカンボジアという国を瞥見できたのはよかったと思います。

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アンコール・トム周辺を見学してからトンレサップ湖へ──カンボジア2019春ツアー(8) [旅]

2月16日(土)

午前中は郊外のバンテアイ・スレイを訪れましたが、午後はアンコール・トム周辺の遺跡群を見学します。われわれは、9世紀から15世紀にかけてのアンコール(クメール)王朝がいかに繁栄していたかを実感することになります。
昼食後の道中、バスのなかで、ガイドさんがいろんな話をしてくれました。
「カンボジアの学校は教室が足りないので、7時から11時までと、1時から5時までの2部制になっている。金持ちは私立に行く。公務員の給料は安いので、先生は塾を開いて、そこでちゃんとした勉強を教えている」
先生が学校と別に塾を開いて生徒を教えているというのが、すごいですね。教育もビジネスです。
ガイドさんはなかなか毒舌家です。
警察官はアンコール・ワット周辺の物売りを禁止しているのに、自分の妻には物売りをやらせているとも話していました。
しかし、これなどはかわいい話で、表沙汰にはできないけれど、長期政権の腐敗ぶり、役人の汚職にはすさまじいものがあるといいます。
「カンボジアは貧しい。ご飯はたきぎでたき、水道はないので井戸を使う。お手洗いは外ですませ、最近まで電気はなかった。子どもが多い」
そんなことも教えてくれます。日本でも最近は経済格差の問題が取りあげられるようになりましたが、世界にはまだ貧困国が多いのです。ただの観光客にすぎないぼくも、つい世界の貧困について考えてしまいます。
午後2時、プラサット・クラヴァンというヒンドゥー教寺院にやってきました。基壇にれんが造りの塔が5つ並んでいます。完全に修復されているのは中央の塔だけです。
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さまざまなヴィシュヌ神のレリーフが見られます。
これは8本腕のヴィシュヌ神。その回りで人びとが瞑想しています。
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踊る(あるいは世界をまたいでいる)ヴィシュヌ神です。
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中央塔の入り口には、こんな獅子像も。狛犬の起原でしょうか。
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次にやってきたのが、バンテアイ・クディ。入り口の楼門には、四方を向く仏像が彫られていました。もともとヒンドゥー教寺院でしたが、のちに仏教寺院に変わったといいます。
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森のなか、お寺が見えてきます。
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獅子とナーガ(コブラ)が並んでいます。たしかに、ヒンドゥーも仏教も、動物とゆかりの深い宗教です。
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なかにはいってみます。こんな優しげなデバター(女神)がいます。
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僧院の様子です。
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蓮の上で踊るアプサラ(水の精)たち。
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寺院は女神たちに囲まれています。
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塔門を抜け、西の楼門から外に出ました。
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午後3時、お隣のタ・プロームにやってきました。12世紀末、ジャヤヴァルマン7世によって建てられた仏教寺院ですが、13世紀の宗教戦争によって多くの仏像が壊されたといいます。
東塔門からはいります。何と屋根の上に巨木が突き出ています。いったいどうなっているのでしょう。
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なかにはいると、その様子がわかります。じつに巨木が塔門をのみこもうとしているのです。これはテトラメレス科の熱帯高木です。ガジュマル(榕樹)とはちがいます。
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これもすごいですね。寺院の塔と木が一体化しています。
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まるで寺院が森にのみこまれているかのようです。ここはアンジェリーナ・ジョリー主演『トゥームレイダー』のロケ地だったといいます。
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タ・ケウという寺院にも寄りました。ジャヤヴァルマン5世が亡くなったため、未完成のまま残されたといいますが、とても整っています。その上まで登りました。
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これらの寺院をみたあと、休みなしで17時からのトンレサップ湖クルーズに参加しました。
バスでチョンクニアまで行き、そこから船で水路を通り、湖に向かいます。
トンレサップ湖の大きさは琵琶湖の4倍で、雨期には12倍になるとか。魚がよくとれるそうです。水上生活をしているのはベトナム人で、ここには学校や寺院もそろっているといいます。これがその学校ですね。
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水上生活者の村がみえてきました。
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湖に陽が沈むのを拝むような気持ちで眺めます。明日も平和な日がつづきますように。
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夜明けのアンコール・ワット──カンボジア2019春ツアー(7) [旅]

2月16日(土)
夜明け前の5時半にホテルを出発します。
アンコール・ワットに朝日が昇るのをみようというわけです。
次第に夜があけてきて、背後にあけぼの色をまとったアンコール・ワットのシルエットが浮かび上がってきます。時刻は6時10分。
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空が白んでくると、池の水面にアンコール・ワットが映ります。
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そして日の出。時刻は6時40分。まさに暁の寺です。
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蓮の花も開きました。
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すばらしいものを見せてもらいました。
いったんホテルに戻り、朝食をとってから9時過ぎに再び出発。
向かうのはバンテアイ・スレイという寺院です。ガイドさんによると、バンテアイは砦、スレイは女性という意味。バンテアイ・スレイは、ですから「女の砦」ということになります。
967年にジャヤヴァルマン2世が、インド人の師(政治顧問)ヤジュニャヴァラーハのために建てたヒンドゥー教の寺院です。
その入り口にやってきました。
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赤色砂岩でできた石門上部の紋様をアップしてみます。中央にはヒンドゥーの神々、そして左右のヘビが牙をむいて、迫力があります(でも、どこかユーモラス)。
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リンガの立ち並ぶ参道を歩いて、寺院のほうに。
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寺院の周りは池。つまり寺院は環濠に囲まれているわけです。
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いよいよなかにはいります。
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アップしてみると、怪物カーラの上に乗っている神の像がみごとです。
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内部には中央祀堂や塔、経蔵が残っています。しかし、圧倒されるのは、やはりみごとにレリーフされた神々の世界ですね。
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物語が多少でもわかれば、もう少し理解が深まるのですが、いまは森のなかで獅子や鹿、象、猿、鳥のあふれる戦いの場面に心馳せることで充分としましょう。
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中央祀堂の前に伺候するのは、まるでカラス天狗みたいです。
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りっぱな寺院です。よく見ると、カラス天狗ではなくて、やはり猿ですね。
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立ち姿が美しいデバター(女神)の像が、あちこちに見られます。
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門をくぐって、ふり返ってみます。
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接近して見ることができず、しかも似たような像なので、残念ながら撮りそびれてしまったのですが、ここには「東洋のモナリザ」と呼ばれるデバターの像があります。少しちがいますが、それと似た像をここに紹介しておきましょう。
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いずれにせよ、1923年に「東洋のモナリザ」を含むデバター像の彫刻4体を、若きアンドレ・マルローが切り取って盗みだしたのでした。幸いにも船に積み込もうとしているところを見つかって逮捕されたのですが、かれはその話を『王道』という小説に書いています。
それでも、マルローが1960年代にドゴール政権の文化大臣になるところをみれば、シヴァ神のお目こぼしがあったのかもしれませんね。
最後にそのシヴァ神の像を拝んでおくことにしましょう。
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昼食をとって、ツアーはつづきます。

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吉野作造の朝鮮論(2)──中村稔『私の日韓歴史認識』(増補新版)断想(5) [本]

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 吉野作造は1919年3月のいわゆる三・一運動をどのようにみていたのだろうか。
 その前に、まず本書によって、そもそも三・一運動とは何であったかを確認しておこう。
 第1次世界大戦終結後、アメリカのウィルソン大統領は、14カ条の平和原則を発表し、そのなかで民族自決をうたった。
 これに刺激を受けて、海外在住の朝鮮人独立運動家11名が独立宣言書を起草、採択した。
 1919年1月、朝鮮国王、高宗が亡くなる。そのことも、朝鮮内での独立機運を高めたという。
 独立運動で、当初中心的な役割を果たしたのは、天道教やキリスト教などの宗教団体である。いっぽう学生たちも、独自に運動を開始していた。
 だが、宗教団体は土壇場になって手を引く。
 3月1日、学生や民衆、四、五千人が、当時京城のパゴダ公園に集まった。午後2時すぎ、独立宣言書が朗読された。
「われらはここに、わが朝鮮国が独立国であること、および朝鮮人が自由の民であることを宣言する」ではじまる宣言書である。
 学生や民衆はいっせいに「大韓独立万歳」と高唱したあと、太極旗を先頭に3隊に分かれて、徳寿宮、外国領事館、総督府に向けて、非暴力的な市内デモ行進をした。これにたいし、総督府の憲兵警察が出動し、デモを鎮圧した。午後7時すぎ、デモはいったん沈静化した。
 3月3日、高宗の葬儀当日、京城は人の波にあふれ、あちこち哀惜の声が上がった。
 5日になるとふたたび大規模なデモが再開される。治安警察はこれを厳しく弾圧した。その後、商店がデモに呼応して店を閉め、労働者や職工がストライキを実施し、農民も立ちあがった。
 中村によれば、「示威運動は、憲兵警察に弾圧されてのちに武器を取っての抗争に移行していった」。
これにたいする官憲の弾圧は苛酷だった。
 水原(スウォン)郡のある町では、20数名のキリスト教徒と天道教徒が教会に閉じこめられて射殺された。
逮捕され、拷問の末、獄死した女子学生もいる。
 ある集計によれば、朝鮮人の死者は7509名、負傷者は1万5961名、被囚者は4万6948名。これにたいし、日本側の被害は官憲の死者8名、負傷者158名だったとされる。
 この事件を吉野作造はどうとらえていたのだろう。
「中央公論」に発表された「朝鮮暴動前後策」で、吉野は「朝鮮の暴動は何と云っても大正の歴史における一大汚点である」と書き起こす。
 かれはさらにいう。暴徒を徹底的に鎮圧すべしという意見もあるいっぽう、朝鮮人の困窮を救うべきだという意見もある。だが、だいじなのは「一視同仁政策の徹底」である。そのためには朝鮮人にある種の自治を認める方向に進むとともに、(米国人宣教師を含む)第三者による事件の真相解明機関を設けるべきだ。
 さらに別の論考では、「我々は朝鮮の問題を論ずる時に、曽(かつ)て朝鮮人の利益幸福を真実に考へた事があるか」と問いかけ、次のように論じる。
 問題は、今度の朝鮮暴動でも、国民のあいだに「自己の反省」がないことだ。日本人はなぜ朝鮮全土に排日姿勢があふれているかを考えたことがあるのか。それはまさに日本による統治の失敗を意味している。にもかかわらず、当局者には何ら反省がみられない。
 朝鮮人が日本の統治をどのように考えているかを朝鮮人の立場から考えてみる必要がある。朝鮮人の日本人にたいする怨恨は根が深い、と吉野はいう。
 水原(スウォン)の虐殺が、朝鮮人の憲兵殺しにたいする報復措置だという言い方についても、それは野蛮きわまるという考え方だと述べている。吉野は事件をうやむやにせず、真相を徹底的に究明すべきだと主張した。
 三・一運動は日本の朝鮮統治の失敗を象徴している。少なくとも今後の統治にあたっては、次の点に留意しなければならない、と吉野はいう。
 ひとつは朝鮮人にたいする差別的待遇の撤廃である。とりわけ、教育面での差別をなくさなくてはいけない。官吏採用についても、地位や給与の面で、日本人と朝鮮人とのあいだで差別があるのをやめるべきだ。
「武人政治」は撤廃されなければならない。
 朝鮮の伝統や文化を無視した、無理やりの同化政策はとりやめるべきだ。
 そして、言論の自由を与えよ。憲兵政治は愚かである。
 こうした見解は、石橋湛山の考え方とも共通する、と著者の中村稔は指摘する。
 三・一運動を受けて、日本政府はどう対応したか。
 長谷川好道に代わって、朝鮮総督に斎藤実が就任した。斎藤は、これからは「文化政治」をやるのだと打ちあげている。
 あたかも、吉野作造の提案が受けいれられたかにみえるが、その実態はまったくちがっていた。
 斎藤新総督のもと、憲兵警察制度は廃止された。地方自治の拡充や、「内鮮人共学」が高らかに宣言された。朝鮮語の新聞・雑誌発行も認められ、会社設立を許可制から届出制にすることによって、朝鮮人の会社設立も容易になった。
 そのいっぽうで、この時期、朝鮮各地では、「内鮮融和」のため、天照大神と明治天皇を祭神とする朝鮮神宮が盛んにつくられている。
 文化政治の名のもとで、実際におこなわれたのは、日本によるソフトな政治支配強化だった。
 警察官の数も警察署の数もむしろ増えていた。地方政治でも日本人がより実権を握るようになっている。朝鮮語教育はむしろ減らされ、日本語教育が強化された。検閲もむしろ厳しくなっている。実業面でも、日本人企業がこの時期より多く進出した。そして、朝鮮神宮がむしろ朝鮮人の反感を招いていたことはいうまでもない。
 これにたいし、吉野は「朝鮮に於ける統治の改善は幾分内地人の慈悲心を満足せしめては居るだらうが、朝鮮人の満足は買って居ない」とはっきり書いている。

〈朝鮮人は法律上日本臣民である。けれども固有の日本臣民と同一に待遇する事は出来ないといふ事実に基いて、全然内地人と同様の権利を与へられて居ない。是れ法律に於ても朝鮮人を日本人となるべきもので、既に日本人であるものと見てゐない証拠である。……此根本的誤謬が悟られ且(か)つ改められざる限り、吾々日本国民の懸案としての朝鮮問題は実質的に一歩も進める事は出来ない。〉

 吉野は朝鮮のような歴史と文化をもつ国の人びとに、「同化」を押しつける反面、差別と侮蔑で事に当たろうとする日本当局の愚を諭している。
 帝国時代にこういう主張をした人物がいたことは、もっと評価されるべきである。
 いまは植民地時代ではない。しかし、植民地時代の反省から生じたこうしたまっとうな感覚は、現在も継承されるべきだと思われる。

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吉野作造の朝鮮論(1)──中村稔『私の日韓歴史認識』(増補新版)断想(4) [本]

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 ぼくの読書はゆっくりとしか進まない。それに最近は毎日が茫々とすぎていく。2、3日前のこともあまり覚えていない。最近の政治には腹が立つが、それもすぐに忘れてプライムビデオやゲームに興じている。本を読むのは、1日1時間ほどだ。それも、いつしかうとうと、夢のなか。
 そんな情けない状況ながら、きょうは中村稔の本を1章だけ読んだ。メモをとるのは、何もかもすぐ忘れてしまうからだ。
 吉野作造の朝鮮論について記しておきたい。
 ここで紹介されている論考は次の3つである。

(1)「満韓を視察して」(「中央公論」1916年6月号)
(2)「朝鮮暴動前後策」「対外的良心の発揮」(「中央公論」1919年4月号)
(3)「朝鮮人虐殺事件に就いて」(「中央公論」1923年11月号)

(1)が1910年の日韓併合から5年後の現地ルポであり、(2)が1919年3月の三・一独立運動を受けての所感であり、(3)が1923年9月の関東大震災発生に伴う朝鮮人虐殺についての抗議であることは容易に想像がつくだろう。
 吉野作造(1878〜1933)は、常に時代と向きあいつづけた気鋭の政治学者だった。いつの時代も世の中を動かしているのは力の論理である。そんな力の論理に、かれは絶えざる良心の声(愛や正義、道義といってもよい)を対置し、政治のあり方を変えたいと願っていた。それが民本主義の思想だ、とぼくは理解している。
 けっして権力闘争の人ではない。いつしか左右の政治の力が、かれを排除の方向に追いこんでいったが、かれは最後まで屈しなかった。
 まず1916年3月末から4月末にかけての朝鮮視察をみておこう。当時東大教授の吉野は、何を感じていたのだろう。
 視察の目的は、朝鮮人の識者と会い、日本の統治にたいする意見を聞くことにあったという。
 吉野が朝鮮にはいってまず感じたことは、朝鮮総督府を通じて、日本の「威力」がみなぎっていることだった。植民地政府の近代化政策により、朝鮮では鉄道や道路、病院がつくられ、殖産興業も盛んになり、公共の秩序も維持されていた。
 ところが、朝鮮人と話してみると、いまなお「日本の統治に対していろいろの不平を言う者が案外に少く無い」。
 たとえば、総督府は道路を建設するさいに、強制的に立ち退きを命じ、地元住民をただでこきつかっている。道路建設はなるほど将来役に立つかもしれない。しかし、やり方に注意しなければ、とかく不平の種になる。日本のやり方は最初に計画ありきで、とかく強引なのである。
 こう書いている。

〈無論朝鮮人は所謂(いわゆる)亡国の民である。表向は彼等の希望によって我国に併合したのであるけれども、事実上は日本から併呑されたのである。従って日本人が何かにつけて一段朝鮮人の上に居るといふことは事実已(や)むを得ない。然しながら日本人が一段上に居るといふことは、朝鮮人を軽蔑してもいい、圧迫してもいいということではない。〉

 植民地の権力感覚は露骨だった。
たとえ政府の官吏になっても、朝鮮人は差別され、いくら能力があってもけっして高等官にはなれなかった。
 そのほか、日常においても、朝鮮人にたいする日本人の横暴虐待ぶりは目にあまるものがあった。これでは、日本の統治への不満が募るはずである。
 暴虐はいましめるべきだ、と吉野はいう。言論に圧迫を加えるのもやめるべきだ。憲兵による治安維持強化は、人びとの不平や怨みをつのらせるばかりである。
 総督が日本に帰国したり、また日本から帰任するときに、官吏ばかりか小学校の生徒にまで停車場で送迎させたりするのは、権威主義の現れそのものにほかならない。
 何につけ官吏万能主義、民間より官吏が偉いという考え方が横行している。その結果は、行き過ぎた干渉である。
 日本の内地以上に、朝鮮では言論の自由が極端に拘束され、内地からの新聞雑誌にも厳重な検閲がおこなわれている。
 さらに朝鮮では内地よりも関税が高く課せられ、地租の評価もはなはだ不当だった。これにたいし、朝鮮の民衆はいささかの文句もつけることができなかった。
 吉野は暗に、総督府が朝鮮民衆に支持されていないことを示唆している。
 差別意識が強いなかでの同化政策がうまくいくはずもなかった。何につけ、同化よりも差別が優先されたからである。

〈異民族に接触せる経験も浅く、殊(こと)に動(やや)もすれば他の民族を劣等視して徒(いたず)らに彼等の反抗心を挑発するのみを能とする狭量なる民族が、短日月の間に他の民族を同化するなどと言ふことは、殆(ほとん)ど言ふべくして行ふべからざる事である。〉

 もちろん、吉野は日本人を「狭量なる民族」とみているのである。
 皇民化教育は、朝鮮の人びとをますます反日的にしていた。
 吉野の紀行は、次のような文章で結ばれている。

〈凡(およ)そ植民的経営に成功するものは、一視同仁殆(ほとん)ど国籍の差別を忘れて懸るの心掛がなければならない。我に於て誰彼の差別を忘れれば、相手方も亦我の外人たることを忘れてかかる。……此点に於て我同胞は余りに自己を他と区別するの意識が強烈である。此事自身のいいか悪いかは別問題である。然(しか)し苟(いやしく)も海外発展に成功するを以て、帝国将来の必要の国是なりとする以上、彼我の区別を忘るるまでに公正に出るといふことは極めて必要であると信ずる。〉

 吉野が1916年の朝鮮視察で感じたのは、日本人の朝鮮人差別意識があまりに強烈であるのに加えて、武断政治が横行していたことである。
 その反発が1919年3月の三・一独立運動となって爆発するのは、とうぜんの流れだった。

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アンコール・ワット──カンボジア2019春ツアー(6) [旅]

2月15日(金)

アンコール・トムを見学したあと、昼食をとって、しばらくホテルで休憩しました。真昼は暑くて、とても観光ができないのです。昼間からついビールを飲んでしまいます。
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15時出発。いよいよアンコール・ワットに向かいます。途中、森のなかで休んでいる人も。ハンモックには赤ちゃんが寝ているようです。
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30分ほどで到着。ガイドさんによると、アンコール・ワットは12世紀はじめから半ばにかけて、クメール王国のスールヤヴァルマン2世によってつくられた寺院だといいます。
スールヤヴァルマンには子どもがおらず、この町が使用されたのはこの1代かぎりだとか。
ガイドさんはそういいますが、はたしてここが町だったかは疑問です。むしろ、アンコール・ワットの区画は、その全体が神聖な寺院であって、王宮を含め町はその外に広がっていたのではないでしょうか。
見えてきました。周囲には大きな堀があって、乾期のいまも水が満々とたたえられています。
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堀にかかる参道(橋)は上智大学により現在修復中で、そのため仮設の浮橋をふわふわ歩いて、なかにはいります。堀には熱帯睡蓮があちこちみられます。残念ながら夕方なので花を閉じていますが。
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アンコール・ワットがつくられたのはアンコール・トムより30年ほど前だといいます。浮橋を渡って、入り口の門にやってきました。
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塔門脇の象の門をはいると、いくつもデバター(女神)像を見かけます。なかなか妖艶です。
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アンコール・ワットは西向きに建てられていて、もともと王の墓としてつくられた、とガイドさん。春分と秋分に太陽は中央の塔のうえに上がるよう設計されているとか。われわれは西門からはいり、東門に抜けることになります。
おや、猿がお出迎えです。
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門をくぐったところから中央の塔につづく参道は「虹の架け橋」と呼ばれ、入り口には7つの顔をもつコブラの像があります。大きな塔に向かって参道を歩いて行きます。
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中央祀堂をアップしてみましょう。なかなか荘厳です。
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これは参道の左右にたつ左側の経蔵です。
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これも左右に配置された左側の聖池の前から中央祀堂の姿をとらえてみました。水面に塔が写ります。左側の塔は修復中のようです。
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アンコール・ワットは、もともとヒンドゥー教の寺院で、ヴィシュヌ神をまつっています。ヴィシュヌロカと呼ばれる像は、金色に輝いていたとか。
現在の気温は35度くらいですが、3月から5月にかけては40度近くまで上がるといいます。アンコール・ワットと周辺遺跡の見学料は3日で62ドル。ただし、カンボジア人は無料だそうです。
1950年代までは、アンコール・ワットへの道がつくられていなかったため、象に乗ってこなければならなかったといいます。
アンコール・ワットは、ジャングルのなかからフランス人が発見したとされます。しかし、ここに寺院があることはカンボジアではだれもが知っていたようです。森本右近太夫という日本人も1632年にここを訪れ、壁に自分の名前を残しています。ジャングルになったのはそのあとでしょうか。
1990年代にはポル・ポト派がここを占拠し、あちこちにいまも銃弾の跡が残っています。1998年にポル・ポトが死んでから、ようやく観光客が来られるようになったとか。最初は日本人が多かったが、現在は中国人が圧倒的だ、とガイドさん。
いよいよ中心部にやってきました。第1回廊にはラーマーヤナの物語をつづった壮大なレリーフが150メートルにわたって彫られています。猿の軍隊と悪魔の軍隊が戦うおなじみの物語です。われわれは左側の面しかみませんでしたが、ほかの面にはマハーバーラタの物語もえがかれているようです。写真はラーマ王子ですね。
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内部の天井にはさまざまな紋様や彫刻がほどこされています。
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ガイドさんが指さす先には森本右近太夫の墨書が残っています。
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当時の格好をした少年少女たち。これから踊りが始まるのでしょうか。
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これは第2回廊のデバター群像です。
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ヴィシュヌ神も登場です。
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よく見ると、あらゆるところに彫刻がほどこされています。
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残念ながら、時間の都合と人数制限のため、第3回廊にのぼって、中央の祀堂まで行くことはできませんでした。
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その代わり、プレ・ループという寺院に寄り、夕日を眺めることになりました。ジャングルのなかに日が落ちていきます。
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アンコール・トム──カンボジア2019春ツアー(5) [旅]

2月15日(金)
朝7時半、ホテルのレストランで食事。中国人観光客のパワーに圧倒されます。座るところがなく、食べるものもなく、ようやく席をみつけ、パンをほおばりました。
8時半バスでホテルを出発。きょうは午前中アンコール・トムを見学します。途中、小型バスに乗り換えました。
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アンコールは町、トムは大きいという意味です。アンコール・トムは「大きい町」ということになります。つくられたのは12世紀末のジャヤヴァルマン7世の時代です。ジャヤヴァルマン7世は、インドシナ半島のほぼ全域に勢力を拡げました。首都アンコール・トムでは、3キロ四方の城壁の中で8万人が暮らしていたといいます。
ここには王宮のほか、仏教寺院や病院、大学、宿泊所もありました。王が亡くなると、仏教とヒンドゥー教のあいだで宗教戦争が勃発し、国力が次第に衰微し、クメール(アンコール)王朝が滅亡します。
1431年ごろ、シャムのアユタヤ軍が侵攻し、多く存在した高床式の家はすべて燃やされました。ですから、ここはクメール王朝最後の都ということになります。
アンコール・ワットはアンコール・トムより30年ほど前の都ですが、むしろ、よく残っています。ワットは寺という意味。ヒンドゥー教の寺院です。これにたいし、アンコール・トムのバイヨン寺院は仏教寺院です。
9時50分、バイヨン寺院の入り口、南大門に到着します。堀の橋にはナーガ(コブラ)の彫刻。
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多くの仏像が並んでいます。
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ちょっといかめしい感じがするのは、寺院を守っているからでしょうか。
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寺院にはここから1キロほど歩きます。寺院の東門にやってきました。
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この仏教寺院がつくられたのは12世紀末。昔は金箔がほどこされていました。54塔のうち37塔が残っています。54は当時の県の数だといいます。なかにはいってみましょう。
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回廊左手の壁には、さまざまなレリーフが掘られています。これは行進するクメール軍で、チャンパ(現ベトナム)との戦いが描かれているといいます。
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クメールの兵士だけでなく、中国人の傭兵もいるとか。
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食料を運んでいるのでしょうか。庶民も動員されているようです。ゾウや牛の姿もあります。ほかのレリーフでは豚を見かけました。
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中央祀堂のほうに。
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あちこち、こんな女神像(デバター)を見かけます。
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塔には観音さまの像が刻まれています。
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おや、こんなところにも女神像。
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おごそかな像です。
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もうひとつの寺院パプーオンにやってきました。いまの気温は34度です。
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中央の塔の高さは42メートル。いちおうピラミッド型ですが、もとの形はわからないため、途中までしか復元されておらず、石はそのまま放置されています。1060年にヒンズー教の寺院として建てられたといいます。
もう少し接近してみましょう。
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次はピミアナカス寺院。王宮の隣にあるヒンドゥー教寺院です。
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王宮は跡地しか残っていません。アユタヤ軍によって破壊されたのでしょう。
このあたりには、かつて裁判所などもあったとか。王が住んでいたのは寺院の後ろの小高い場所で、そこに木造の高床式住居が建てられていたようです。沐浴をした池も残っています。
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王宮の門を出ると、左側には「ライ王のテラス」。ぼくは読んだことがないのですが、三島由紀夫の戯曲に『癩王のテラス』というのがあり、まさに三島はこの場所に着想を得たといいます。らいを病むジャヤヴァルマン7世が主人公で、アンコール・トムを舞台にしています。
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そして、右側には「象のテラス」がありました。ジャヤヴァルマン7世が閲兵をおこなった場所です。
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ガイドさんによると、1907年までアンコール・ワット近辺はタイ(シャム)が支配していたといいます。フランスがカンボジアを保護国とするのは1863年ですが、その後、タイはフランス領カンボジアに現在のカンボジア中部と北部を割譲します。フランスがこなければ、カンボジアはなかった、おそらくベトナムとタイに分割されていただろう、とガイドさんはいいます。当時のノロドム王はみずから進んでフランスの支配下にはいったわけです。
植民地の歴史にも複雑な背景があって、一筋縄にはいかないようです。

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日本統治下朝鮮の戦時動員──中村稔『私の日韓歴史認識』(増補新版)断想(3) [本]

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 1939年(昭和14年)に朝鮮で公布され、翌年から実施された「創氏改名」とは、どのようなものだったろうか。
 朝鮮人がもともと持っている姓名にたいして、新たに「氏」を創設させ、「名」の変更を認めるのが、この制度の眼目である。大日本帝国は、これによって朝鮮人の皇民化を促進しようとした。
 日本では姓と氏とが混同されているが、姓と氏がちがうというのは、知らなかった。中国や朝鮮では名前に姓をもちいる。したがって、氏を用いる日本では、一般に結婚したり養子にはいったりすると姓が変わるが、中国や朝鮮では姓は変わらない。
 朝鮮(韓国)の人の名前は、

 本貫と姓と名

から成り立っている。本貫とは氏族集団の発祥地を指す。
 韓国・朝鮮で、広い意味での姓は、この本貫プラス姓をさす。同じ金でも本貫(金海、慶州、安東などなど)がちがえば結婚できるが、本貫が同じであれば結婚できない。
 日本帝国時代の創氏改名は、公には姓を使用せず、新たに氏をつくらねばならないとする政策だった(しかし姓がなくなるわけではない)。
 これによって、8割の家族が新たに氏をつくり、残りの2割は従来の姓を氏としたとされる。そのため、山本七平の『洪思翊(こうしよく)中将の処刑』で知られる洪思翊は、姓である洪をそのまま氏にしたことになる。
 名前を変えるかどうかは自由だった。しかし、氏の創設は強制的だった。
 朝鮮総督府は、創氏改名の理由を(1)内地人との一体を求める半島人の希望が多いこと(2)婿養子を迎える道を開いてもらいたいという要望があること(3)家の観念を確立するため、などと説明した。そして創氏しない者(姓をそのまま氏としてもよいが)にたいしては、厳正に対処するとした。
 著者はこう書いている。

〈これにより朝鮮人社会に「氏」が導入されたことは間違いない。創氏の結果、朝鮮人社会における親族制度の基本をなす文化である「姓」は有名無実となった。このような伝統・文化の基本を破壊するような政策は、植民地統治の方策として愚劣きわまるものであり、朝鮮人の反感を招いても致し方ないものであった。〉

 日本人との協力体制を推し進めるため、朝鮮人(韓国人)が創氏を喜んで受けいれたというのは、あまりにも厚顔な言い草だろう。

 第5章を読んでいる。
 ここで取りあげられているのは、ブランドン・パーマーの『日本統治下朝鮮の戦時動員』である。民族主義史観ではなく、修正主義史観にもとづく歴史書だという。
 著者は「[パーマーの]修正主義史観もまた、民族主義史観と同様、ある種の偏向があるように感じ、かなりの記述に同意できなかった」と率直な感想を述べている。この感想からも著者の立場をうかがうことができるだろう。
 とはいえ、そのパーマーですら「日本の植民地当局は日本軍の兵士あるいは軍属として少なくとも36万人の朝鮮人を召集し、さらに75万人を動員して日本国内の炭鉱や軍需産業で就労させた」ことを認めている。
 パーマーによると、「動員に対する朝鮮人側の対応は、積極的な協力から断固たる抵抗まで、幅広いものだった」が、「圧倒的多数の朝鮮人は、当局の強要と、無用の監視の目を避けるため、動員政策を既成事実とみなし、これに黙って従ったのだった」。
 いっぽう、植民地当局は朝鮮人の蜂起を恐れ、徴兵や労働力の動員には細心の注意を払わねばならなかった。
 朝鮮人が日本軍に召集されたのは1938年以降である。儒教社会の伝統、日本語の読み書き能力、教育課程の壁が、それまで徴兵の障害になっていた。
 朝鮮人特別志願兵制度ができたのは1938年である。これにより、日本陸軍は1943年までに1万7664名の朝鮮人志願兵を受けいれ、1943年に学徒特別志願兵として4385名、また海軍特別志願兵として2000名の入隊を許可した。
 志願兵は強制ではなかった。しかし、朝鮮人の応募の動機はさまざまであり、かならずしも自発的とは言いがたかった、と著者はいう。
 そして1943年8月1日には、朝鮮にもついに徴兵制が敷かれた。問題は日本語の理解力と戸籍の不備だった。27万3139通の召集令状のうち15%が戸籍不備、ないし徴兵忌避によって、宛先不明となった。
 徴兵検査が実施されたのは、翌1944年4月から8月にかけてである。現役兵になるのを避けるため、故意に不合格になろうとした者が多かったという。
 朝鮮では、推定合計28万6000名から36万7000名が陸海軍兵士や軍属となったとされる。その大半は、朝鮮半島ないし日本本土で、戦闘支援部隊の役割をはたした。とはいえ、特攻隊員になった者もいる。
 日本の公式文書によると、朝鮮兵の戦死者は2万2182名。かれらは靖国神社に祀られたが、遺族にたいし、戦後になってからの恩給は支払われなかった。
 戦時中、朝鮮では労働動員がなされた。朝鮮総督府は推定410万人から700万人を動員し、朝鮮各地で働かせた。さらに日本と南太平洋地域に100万人以上の朝鮮人労働者を徴用している。
 国家総動員法のもと、朝鮮労働者は戦時の労働力に組みこまれていった。日本企業によって直接雇用される場合もあった。当局によって徴用されることもあった。しかし、企業の人集めなどでも、総督府の官僚組織末端は積極的に協力し、割り当てられた人数ノルマを実現するため、「強制連行」に近い行動をとることもあったという。
 1939年から1945年にかけ、日本に送られた朝鮮人労働者は、企業によって直接雇用された者を含め、約67万人と推定される。そのほか約7万人が内地の軍要員・兵士となっていた。
 炭鉱ではたらく朝鮮人労働者は、1944年段階で13万4477名(全炭鉱労働者の33%)だった。かれらは主に切羽(きりは)と呼ばれる危険な地下の石炭採掘現場で仕事をさせられていた。
 いちおう2年間の労働契約書が結ばれていた。だが、その契約は企業の都合によって、自動的に延長された。
 炭鉱においても民族差別は歴然としていた。労働時間は12時間で、しかもノルマを達成しなければ地上に上がれなかった。
 賃金が支払われなかったわけではない。しかし、そこから「愛国貯金」が控除され、さらに「強制貯金」を強要され、加えて自発的な「普通貯金」が推奨された。「愛国貯金」と「強制貯金」は会社が管理し、「普通貯金」も会社が認めないかぎり、引き出しができなかった。
 しかも、最終的に、これらの貯金を半数以上の朝鮮人労働者が受け取れなかった。
 したがって、契約にもとづき朝鮮人がはたらいて報酬を得ていたと主張するのは、あくまでも形式である。その実態は給料不払いの強制労働に近いものだった、と著者は指摘している。
 その背景には植民地支配の力の論理がある。

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