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丸山真男と「民主主義の永久革命説」──『丸山真男と戦後民主主義』を読む(2) [われらの時代]

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 著者の清水靖久によると、丸山真男は60年安保直後から「永久革命」としての民主主義に言及するようになったという。
 丸山は民主主義を3段階でとらえていた。そもそもの出発点は、特権への「抗議概念」としての民主主義である。それが、19世紀後半から20世紀はじめにかけ「議会制民主主義」の黄金期を迎えることになる。さらに第2次世界大戦後、民主主義は共産主義にたいする「正統概念」とみなされるようになった。
 戦前戦中の丸山は、民主主義を全面肯定していたわけではないという。敗戦後も占領軍によって、「外から上から」強制された民主主義に違和感を覚えていた。
 原理的にみれば、民主主義による議会の権限増大が、内閣の執行権弱体化につながり、それが政治的危機を招く恐れがあることも、じゅうぶん承知していた。
 デモクラシーが「単なる多数支配」になる恐れも感じていた。しかし、民意を無視した政治が正しいわけではない。
 丸山はもともと自由主義の立場をとっていた。民主主義は自由主義のうえに、はじめて成り立つ。個人の尊重がなければ、民主主義は有名無実である。
 丸山は次第に、民主制は独裁制の「反対物」であって、「国民の自発的な意思とその決定に基く」政治制度だと考えるようになっていった。
 戦後、丸山は「人民主権にもとづく民主主義に賭けるに至った」と著者はいう。デモやスト、野外集会などの直接民主主義も肯定するようになる。
 丸山は「民主政治は人民が国家の主人であるところの政治形態」であって、民主政治が確立されるためには「人間が主体性を確立する」ことが重要であって、天皇制を「倒さなければ絶対に日本人の道徳的自立は完成しない」と主張する。
 1950年ごろから丸山は「民主勢力」の運動に加わっていく。だが、冷戦の緊張が高まり、朝鮮戦争が勃発し、講和条約が結ばれ、日本の再軍備が進展する。そうした「逆コース」のなか、「人民主権」の思想にもとづく「民主化」ははばまれ、次第に戦前回帰がはじまる。
 とはいえ、「民主主義は、戦後十年余りを経て、日本社会で広く擁護される正統的価値になりつつあった」と著者はいう。つまり、社会主義に対抗する体制としての民主主義が確立されたのである。
しかし、こういう固定的な建前に丸山は反発する。「未来に向かって普段に民主化への努力をつづけてゆくことにおいてのみ、辛うじて民主主義は新鮮な生命を保ってゆける」という。
 丸山は「抗議概念」としての民主主義を重視した。それをもっとも強く語ったのが、60年安保闘争の時だった。
 60年安保闘争が終わったあと、丸山はみずからのノートにこう記したという。

〈社会主義について永久革命を語ることは意味をなさぬ。永久革命はただ民主主義についてのみ語りうる。なぜなら民主主義とは人民の支配──多数者の支配という永遠の逆説を内に含んだ概念だからだ。……「人民の支配」という観念の逆説性が忘れられたとき、「人民」はたちまち、「党」「国家」「指導者」「天皇」等々と同一化され、デモクラシーは空語と化す。〉

 人民の支配、すなわち多数者が少数者を支配するというのは、現実にはありえないことだ。それは「逆説」的な理念である。だから、民主主義は本質的には制度ではなく、永遠の運動となるのである。
 しかし、人民の支配が名目的に制度化されるときには、それは独裁に移行する危険性をもっている。天皇制も社会主義も人民(臣民)を名目とした独裁制である。議会制もまた寡頭支配におちいるかもしれない。
 そうした硬直した独裁制にたいし、民主主義は抗議しつづける。それが永久革命、永久運動としての民主主義である。
 丸山は1961年10月に渡米し、翌年6月までハーバード大学に滞在し、その後、イギリスのオックスフォード大学に移って、63年4月に帰国する。
 渡米直後、埴谷雄高に出した書簡でも、こう述べているという。

〈私は社会主義こそ歴史的に一つの段階を代表する体制と歴史であり、これに反していわゆる「市民」的民主主義はギリシャの昔からあって、社会主義をのりこえても生きつゞける──というよりは永遠に制度化を完了しないプロセスと思っています。その意味で民主主義の永久革命説といってもよく、そうなると正反対の方向からまた貴兄の考え方と相重なる面が出て来るかも知れません。〉

 丸山は社会主義に批判的だった。とりわけ、スターリン独裁下の恐怖と抑圧にもとづく社会主義は、最悪の体制だと感じていた。
 丸山はあくまでリベラル・デモクラシーを支持する。反スターリニズムの埴谷は、現存する社会主義を批判する社会主義者だった。「そうなると正反対の方向からまた貴兄の考え方と相重なる面が出て来るかも知れません」というのは、たしかにそうだったかもしれない。
 帰国後も丸山は「民主主義の永久革命説」を堅持していた。64年の『現代政治の思想と行動』増補版でも、民主主義を「特定の体制をこえた『永遠』な運動」と規定している。丸山は民主主義を単なる議会制民主主義とは考えていない。それは人民がみずからの主体性にもとづいて、新たな制度を求めていく永遠の運動なのだ。
 制度を否定する急進派にたいして丸山は否定的だった。
「民主主義の『永久革命』説は、革命の幻影を描く急進派に大して、革命の日常化を説くことになった」と著者は記している。
 丸山から見れば、1968年の東大闘争(紛争)で、学内の秩序を破壊し尽くそうとする学生は、とても民主主義的とは思えなかったのだろう。
 68年の丸山と全共闘の対立については、次回以降あらためてみていくことにする。
 今回は「民主主義の永久革命説」がとてもおもしろかったということだけ述べておきたい。
 その後の歴史をみると、たしかに世界は社会主義の永久革命によってではなく、「民主主義の永久革命」によって、動いてきたとも思えるからである。1968年のフランス5月革命、1980年の韓国・光州事件、1989年の「ベルリンの壁」崩壊と天安門事件、2010年の「アラブの春」、2019年の香港民主化運動、それこそ枚挙にいとまがない。
 そして、68年の日大闘争や東大闘争も「民主主義の永久革命」にもとづいていたと言えなくもないのである。

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丸山真男の1968年──『丸山真男と戦後民主主義』(清水靖久著)を読む(1) [われらの時代]

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 野次馬的な見方で恐縮だが、丸山真男(眞男)といえば、60年安保闘争と68年東大闘争(紛争)のイメージが思い浮かぶ。それは、かっこいい丸山と、かっこ悪い丸山である。
自民党の横暴にさっそうと立ち向かう丸山と、全共闘に研究室を荒らされてうろたえる丸山。そのイメージはまさに分裂し、容易に結びつかない。
 だが、その分裂をつなぐものがあるとすれば、それは「民主主義」という概念ではないだろうか。岸信介政権も全共闘も、丸山にとっては民主主義を破壊する存在にほかならなかった。民主主義を旗印にかかげる丸山は、岸政権には敢然と立ち向かったが、大学内からわきおこった全共闘の学生には狼狽を隠せなかったのである。
 最初に野次馬的と書いたけれど、たしかにぼくなどは野次馬にちがいない。60年安保闘争にも東大闘争にもかかわったわけではない。商店街の息子が東京の私立大学に入学し、ろくに授業にも出ず、レポートでようやく卒業し、漫然と会社勤めをしただけの人間である。丸山政治学にもうとい。もちろん、ご本人と会ったこともない。
 こうした経歴からすると、戦後思想の細部にわたる本書は難解だし、わずらわしくもある。はたして、どこまでついていけるか、自信がない。例によって途中で投げだす公算も大だが、残っているのは、1968年の丸山を眺めてみたいというのぞき根性だけである。
 そこで、当方の唯一の武器である「暇」を活用して、のんびり読み進めていくことにする。無知と無恥による誤解はご容赦のほど。このブログを書くのは備忘のためであって、書いておかないと、2、3日前のこともすっかり忘れてしまうぼくの脳天気状態によることもご承知のほど。
 本題にはいる前に、まず「60年安保と丸山真男」に焦点を合わせてみよう。
 本書によると、60年安保闘争後の1964年に、丸山は代表作『現代政治の思想と行動』増補版に「大日本帝国の『実在』よりも戦後民主主義の『虚妄』の方に賭ける」と記したという。
 この人には、学者に似合わず、こういうことばの見得をしてみせるところがある。丸山神話の生まれるゆえんだろう。
 ところが、このことばの意味がよくわからない。
 著者の清水靖久は、この一節にこだわるところから本書をはじめている。
 丸山が大日本帝国の政治体制、とりわけかつてのファシズム体制を支持するはずはなかった。支持したのは戦後民主主義のほうである。
 わかりにくいのは、戦後民主主義の「虚妄」に賭けるという言い方である。
 当時60年代半ばには、戦後民主主義は占領民主主義であり、それを虚妄とする見方が登場していた。丸山の寸言は、それを逆手にとり、むしろ反語によって虚妄説に反撃した、というのが著者のとらえ方である。
 日本では戦後、民主主義がアメリカによって与えられた。
 丸山にいわせれば、その民主主義は「人民主権と平和憲法」を基本としていた。そして、たとえアメリカによってもたらされたにせよ、民主主義の構想自体は正しい、と丸山は考えたのである。
 だが、「人民主権と平和憲法」はまだ実現されたとはいえない。民主主義はまだ「虚妄」にとどまっている。そこで、民主主義の本来の姿である「人民主権と平和憲法」の実現に向けて努力することが、これからの政治のあり方であり、丸山はみずからもその方向に「賭ける」ことにした。
 それがおそらく「大日本帝国の『実在』よりも戦後民主主義の『虚妄』の方に賭ける」というメッセージの意味である。
 著者によれば、60年代半ばから「『戦後民主主義』は貶(けな)し言葉でもあれば褒(ほ)め言葉でもあって」、「愛憎相半ばする」言葉になっていたという。それを擁護する者もいれば、反対する者もいた。実際、一部の左派と右派が民主主義を攻撃していた。
 そうしたなか、丸山の悲壮感すらただよわせる宣言は、多くの反撃を招いたけれど、けっして丸山に孤立をもたらしたわけではなかった。小田実や加藤周一は丸山を支持している。これにたいし、江藤淳は戦後民主主義を「新しい国体」と批判した(とはいえ、江藤は大日本帝国の体制を否定していたわけではない)。
 丸山の基本的な立場は、社会主義でも国家主義でもないリベラル・デモクラシーととらえるべきだろう。
 丸山は極端な右派はもちろん左派にも批判的だった。
「民主主義ってのは、制度と運動の統一なんです」と語っている。制度を守るだけではなく、制度を変えていく運動(抵抗)がだいじだと考えていた。
「丸山は、戦後民主主義には賭けなかったとしても、戦後、民主主義に賭けたし、日本社会の民主化をめざして思索してきた」と、著者は記している。
 丸山はアメリカに強制された占領民主主義を支持したわけではない。戦後の日本において、民主主義そのものの理念を推進しようとしてきた。60年安保では「永久革命」としての民主主義を唱えている。それは国家権力を奪取する革命というより、民主主義制度を拡充していく永久運動を指していただろう。
 著者は、丸山の考え方を次のように説明する。

〈[民主主義は]完全に制度化されたら「国体」のようになるが、他方で制度化がなければアナーキーになるという。それゆえ民主化の契機を保ちながらアナーキーを避けるためには、一方では正統概念としての「国体」から民主主義を区別する必要があった。他方では民主主義を混沌としないように、極左派の異端好みを批判しなければならなかった。〉

 1965年8月15日の集会で、丸山は日本が「平和主義の最先進国」になったことが「20世紀最大の皮肉」だと述べている。丸山にとって民主主義は「国体」ではなく、「反対や否定を通じて」鍛えられる制度=運動にほかならなかった。
 ここまでが、第1章の要約である。まだ先は長い。
 ここで、余談ながら、少しだけ、68年のころのぼくらの感覚を述べておくと、ぼくらはすでに民主主義に丸山のようなロマンを感じていなかったような気がする。
 ぼくらにとって、民主主義とは要するに代議制民主主義のことで、選挙によって、議員を議会に送りだす政治制度にすぎなかった。その民主主義に魅力を感じていたかというと、そんなことはまるでない。政党の立てた候補を選択する選挙は、とりわけ共感する政党がない場合、ただの押しつけられた義務になってしまう。選挙で政治が変わるなどとは思っていなかった。これが民主主義に賭けた丸山と、民主主義にしらけたぼくらとの大きなギャップだったかもしれない。
 こんな低次元の感想はどうでもよろしい。第2章に進むことにしよう。

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笹倉明の新刊 [本]

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 幻冬舎から笹倉明(僧名プラ・アキラ・アマロー)の新刊新書『出家への道──苦の果てに出逢ったタイ仏教』が発売されました。
 笹倉は姫路の高校(淳心学院)の同窓生です。学校は中高一貫のカトリック校で、かれは高校のときからの編入でしたが、すぐに仲良くなりました。
 大学も同じ早稲田で、学部はちがうものの、ときどき会って、おしゃべりし、おまえ相変わらず字が下手やなあなどと言われていました。
 その後、かれは作家の道を歩み、1980年の『海を越えた者たち』ですばる文学賞佳作、88年の『漂流裁判』でサントリーミステリー大賞、89年の『遠い国からの殺人者』で直木賞を受賞、あれよあれよといううちに売れっ子になっていきます。
 それから何冊も本を書きますが、あまりヒット作にはめぐまれなかったようです。奥田瑛二と笛木優子がからむ『新・雪国』という映画を2001年に制作したりもしましたが、失敗に終わりました。
 そのかれがタイで暮らすようになったと聞いたのは、もう十年以上前のことです。そして、2、3年前、タイで出家して坊さんになったという新聞記事を読みました。
 オビにはこんな紹介があります。

〈直木賞作家である著者は、自らの才能に対する疑いと不安、楽な方へと流れてしまう性(さが)ゆえに、仕事に行きづまり、経済的にも困窮、逃げ出すようにしてタイへ移住する。仏教の国・タイで目にしたのは、毎朝の托鉢風景。俗世への執着を断った修行僧と、彼らに食物を捧げる人々の満ち足りた表情を眺めているうち、著者は我欲に流され、愚行を重ねてきた己の人生のために、一つの決心をするのだった〉

 そのとおりかもしれませんが、この紹介は自虐的すぎるかな。かれは才能もあったし、じゅうぶん努力していたと思うのです。それでなければ、直木賞はとれませんよ。
 さらにオビには、大きく「異国へと落ちていった直木賞作家はついに俗世を捨てた。なぜだったのか?」との文字が躍ります。
 いったい何があったのだろう。おもしろそう。
 そう思って、多くの人がこの本を手にとってくれたら、ぼく自身もうれしいです。
 じっさい、ここには檀一雄の『火宅の人』ではないですが、複雑な人間模様もあけすけに語られています。
 ほんと、人間って困ったものですね。悩みはつきません。
 それにつけ、思うのは、たとえ直木賞をとっても、作家として持続的に稼いでいくのが、いかにむずかしいかということです。
 この本には、そのアップダウンの生活ぶりもつぶさにえがかれています。
 私たちは、だいたい成功物語しか見ないものですが、世間はきびしいもので、大半の人が挫折や苦難を強いられています。
 仏教がその救いになるかどうかはわかりません。しかし、だいじなのは、どこかで精神のバランスを保ち、愉快な気持ちで毎日をすごすということかもしれませんね。
 人生に浮沈はつきものです。苦悩もまとわりつきます。それでも、それを吹き飛ばす道は、どこかにみつかるはずです。
 いまは笹倉が、遠い異国の僧院から、悩める人を照らす存在になってくれることを願っている、というのが正直な気持ちです。
 修行はまだまだ。どうぞ達者で、と一声かけたくなりました。山っ気は禁物です。

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ミシマについて──橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』を読む(3) [われらの時代]

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[『サド侯爵夫人』。ウイキペディアより]

 橋本治の三島論は、その思想に沿ってではなく、あくまでも男、女という性の位相において、三島の作品を読み解いていく。
 三島にとって、女とは、男とは、どのような存在であったのか。
 前にも触れたように、三島には同性愛の志向がある。その志向が強いときには、女を忌避する方向へとはたらく。
 そんな男にとって女との恋愛や結婚は義務のようなものとなるが、いずれ女がそんな男を見限って、男を存在しない者とみなすのは目に見えている。
 それが『豊饒の海』の最後の最後にやってくる。

〈『豊饒の海』を完結=終焉へ導くのは、女達の拒絶である。それが「作者」〔三島由紀夫〕という男の意志で完結したのかどうか疑問である。女達の拒絶によって、この長大なる物語世界は崩壊し、崩壊後の空虚に本多繁邦〔物語の語り手、主人公〕は取り残される。三島由紀夫がそのように書いた以上、三島由紀夫は、「そうなる必然」を知っていたことになる。〉

 男は女を義務のように愛する。女には欲望を覚えない。しかし、欲望をもつよう努力しなければならない。その対象となる女への視線は、ときに酷薄さをともなう。
 その点、橋本にいわせれば、『禁色』は「同性愛者としての三島由紀夫が勝利を実現する小説」であり、『豊饒の海』第一部にあたる『春の雪』は、「その贖罪」ということになる。
 だが、女たちがそんな男を赦すはずがないことも、三島はうすうす気づいている。
 母が病弱だったため、三島は祖母に溺愛されて育った。中学生になるころまで、祖母と暮らしたという。家では、ずっと女ことばを使っていた。その祖母は三島が14歳になった正月に亡くなる。
 祖母との関係は微妙である。祖母は自分を溺愛してくれるが、母から自分を奪い取った存在でもある。祖母に保護されているのは心地よい。しかし、過保護への反発も生まれはじめている。
 母と祖母の関係が悪かったわけではない。
 橋本はこう書いている。

〈母親と「私」は、祖母の宰領する世界で、「姉と弟」のような関係を保っていた。それを拒絶する必要はない。そうすることによって、「私」は母を《気づかつてゐた》。〉

 祖母に溺愛されているがゆえに、「私」はかえって母を気づかうようになる。そして、祖母の死後、「私」は母の「やさしい庇護」を受けいれる。三島はそんな母を突きはなせない。橋本によれば、三島は「自分に何事かを托そうとする母を憐れむ息子」なのである。
 母との決別は、大きな課題だった。だが、それが結晶化するまでには、『サド侯爵夫人』の完成を待たねばならなかった。
 幼いころ、三島は女装が好きだったという。松旭斎天勝という女奇術師にあこがれ、そのまねをして、家のなかを走り回ったこともある。祖母にははしたないと言われたものの、それはタブーはみなされていたわけではなかった。
「であればこそ、三島由紀夫は『女であることに巧みな作家』になれた」と橋本はいう。
「女」になれる三島は何人もの女主人公をつくりだした。さまざまな女が登場する。どの女も三島ワールドの面影をまとっているが、橋本が注目するのは、殺す女、すなわちサディズムをまとった女である。
『愛の渇き』では、女が、愛する男を殺す。女は男を愛しているのに、その男から肉体関係を迫られて、男を殺してしまう。拒絶することに快楽を感じるのだ。
 戯曲にも似たような作品がある。殺す女たちは、美の「塔」にこもって他者を寄せつけない暴君、三島が女に変身した姿だといってよい。
 そして、三島はついに『サド侯爵夫人』を書く。橋本によれば、これは「三島由紀夫におけるサディズムとの訣別」を語る戯曲だという。
 この舞台で、三島はほとんど登場しないサド本人ではなく、サド侯爵夫人にみずからを仮託している。
この戯曲がえがくのは「女の世界」である。サドは見捨てられている。主な登場人物はサド侯爵夫人とその母モントルイユ夫人であり、最後にその母は俗物としてしりぞけられることになる。
 三島は母との戦いに勝つ。

〈戦いに勝った三島由紀夫は、「女」という衣装を脱ぎ捨て、その世界を去って行く。その後の彼は、「男の世界」へと向かう。それが幸福であったかどうかは分からない。しかし三島由紀夫は、「女の世界」を去ったのである。〉

『サド侯爵夫人』以降、三島が「女の世界」をえがくことはなかった。
 そして、「男」という選択がなされる。
 傑作『午後の曳航』について、橋本治はこう書いている。

〈この作品では、「殺される男」もまた、三島由紀夫自身なのである。「殺す側の少年」という三島由紀夫と、「殺される側の男」という三島由紀夫の二人がいる。〉

 男は「死なねばならない」という少年たちの意志によって殺される。
『癩王のテラス』がえがくのは、自分の全存在を壮大な伽藍(芸術)建設に賭けて、肉体は滅びても超人間的な永世をはじめる王(芸術家)の姿である。
 最後の作品『豊饒の海』を書いているときにも、三島は、「肉体は滅びても超人間的な永世をはじめる王(芸術家)」の姿を思い浮かべていたのだろうか。
 だが、「男」の道を選んだときから、「死ぬ」のが「男」であるという思いはますます強くなっていた。輪廻転生、すなわち若さの復活願望は、しょせんむなしい。男は大義のために死ぬべきだ。そうした思いが、三島に『英霊の声』や『葉隠入門』、『太陽と鉄』、『文化防衛論』といった雑書を書かせることになった。
 三島は老いても小説を書きつづけるという大義を選ばなかった。
 選んだのは「男」として死ぬということだった。目指した大義は「偉大なる明治の再興」、「古きよき日本」の再現、そして何よりも幻想の天皇護持にほかならなかった。
 だが、橋本は「三島由紀夫は、それが妄想でしかないということも知っていたはずである」という。
 虚無への供物だろうか。
 自死する人のほんとうの気持ちはわからない。その死はいつも「まさか」というできごととともに終わる。
 死はひとつの世界の終わりをもたらす。三島由紀夫が終わらせたのは、どのような世界だったのか。いま考えると、それはひとつの「戦後」だったのかもしれないと思ったりもする。

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ミシマについて──橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』を読む(2) [われらの時代]

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 三島由紀夫の小説のなかに「他者」はいない、という言い方を橋本治はしている。そこにいるのは、「二人の自分」、つまり自分と自分の分身であって、その外側にあるのは「自分と同じような他者」ではなく、「自分とは違う不定形」なのだ、と書いている。
 その不定形の世界は、あくまでも自分が巻き込まれるのではなく、自分が巻き込む対象だ。その世界に拒否されたとき、三島はいっそう孤独になる。かくて『豊饒の海』は、最後は語り手が「記憶もなければ何もないところ」に来てしまうというのが、橋本の読みである。
 橋本にとって、三島という小説家は「広大な宇宙に浮かんでたった一人の人間しか存在させない孤独な惑星の住人」だった。もし、これが三島の実態だとすれば、これは「なんだかとても悲しい世界観であるとしか」思えないという。
 なぜ、三島はそんな悲しい塔の住人にみずからを閉じこめ、最後は純粋観念として自爆してしまうのだろう。
 その経緯を橋本は追っている。
『仮面の告白』をみてもわかるように、三島は同性愛的志向の強い人である。主人公が女性と接吻するときも、欲望からではなく、あくまでも義務としてするのだ。
 女性は強迫観念としてとらえられる。その特異な感性が、三島を三島とする原動力になっている。
だが、三島はけっして同性愛には走らない。強迫観念を克服しようとする。その成果が『春の雪』となる。
 同性愛をえがく『仮面の告白』と『禁色』は、あくまでも三島由紀夫による小説(フィクション)として設定されている。三島によれば、「この小説の中のすべてが事実にもとづいているとしても、すべては完全な仮構であり、存在しえないものである」。
 だが、橋本にいわせれば、これはあきらかに「私小説ならざる私小説」なのだ。
 これらの小説が書かれた当時、同性愛にたいするタブーや偏見は根強かった。それをえがくのは、あくまでも芸術の領域だったといえる。
 こうして、同性愛的志向は観念小説に高められていく。だが、同時にそれは実人生では否定さるべきものだった。
 すると、その後は、挫折と克服を生き、虚に戻るしかない。三島にとって、「自分なりの人生を生きる」という選択肢は閉ざされてしまっていた、と橋本はいう。
『仮面の告白』の「私」は女に欲望を感じない。欲望を感じるのは男にたいしてである。
糞尿汲み取り人の青年、死にいく兵士、祭に陶酔する男たち、死の運命にある王子を愛した。
 はじめて射精したのは、13歳のとき「聖セバスチャン」の殉教図をみたときである。その後、成長してダンスホールに行ったときも、たくましい若者たちが、だれかに匕首で刺される場面を夢想して、情欲に襲われる。
 だが、「この『私』は、『男と直接関わる』ということにおいて、妄想の中でさえ不能者なのである」と、橋本は断言する。「私」はけっして男たちに直接手を下さないし、男と同性愛に走ることもない。
 さらに、こう書いている。

〈「愛する者を人に殺させて恍惚とする」という妄想を抱いている段階で、彼は既に「権力者」である。彼はその地位を手放さない。少年期が青年期になっても、彼の妄想の質は変わらない。〉

 いきなり「権力者」という表現がでてくるのでとまどうが、三島はまるで暴君ネロみたいではないか。ただし、ネロが実際の権力者であるのにたいし、三島はあくまでも観念世界の権力者にとどまる。
 世の中には同性愛のタブーがある(あったし、いまもある)。だが、三島の小説世界において、タブーは突破される。そして、妄想のなかで愛する男たちには死が与えられる。
 とはいえ、暴君(権力者)であるかれは、みずからの世界に他者がはいってくることを拒否し、「塔」に閉じこもって、認識者としてみずからを鍛えあげる。それが快感となる。そんなふうに橋本治は書いている。
 人(読者)が三島のなかに見たのは「自己達成」の権化である。自己達成とは、近代人の宿痾でもある孤独な屹立を意味していた。
 その孤独は嫉妬をも呼び起こす。「私」より優位に立つ者を許さないのだ。「強くならねばならぬ」というモットーがかれを縛っていく。愛する男もまた敵になるのだ。そこで、その愛する男に似ることによって、男を排除し、それによって自己を愛するという奇妙な倒錯が発生する。
 そして、かれは「塔」にこもる認識者になる。そのなかで、「作者と作中人物に分かれて、自身の陶酔を演じ、享受している」三島が生まれる。
 橋本はこう書いている。

〈三島由紀夫の悲劇は、「真実必要なものを求めて、その求め方を知らなかった」というところにあるはずである。しかし、彼はそのような選択をしなかった。彼は、「真実必要なものを求めることは、してはならないことである」という選択をした。その選択を「正しい」とするのが、彼の生きた時代だった。〉

 なんだか悲しいけれど、それでも三島由紀夫の世界はとてもおもしろい。三島は自分とはまるでちがうが、それでもどこか自分と似ているのだ。

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ミシマについて──橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』を読む(1) [われらの時代]

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 ぼくらの世代は、共通体験として三島事件をかかえている。
 1970年11月25日、三島由紀夫が「楯の会」メンバーとともに、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地の東部方面総監室を占拠し、自衛隊員に決起を呼びかけたあと、割腹自殺を遂げた事件である。
 そのとき、ぼくは早稲田大学第一学生会館のサークル部室にいて、飛びこんできた部員から事件があったことを知らされた。1階に据えつけられたテレビで、バルコニーに立って演説する三島の様子が何度も流されていたように記憶しているが、それは後づけされた記憶かもしれない。
 あれから、はや50年。そのかん、のうのうと生きてきた。
 あのとき、三島は自衛隊駐屯地のバルコニーで、こう叫んでいたという。

〈沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと2年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。
 ……われわれは4年待った。最後の1年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒瀆する者を待つわけには行かぬ。しかしあと30分、最後の30分待とう。共に起って義のために死ぬのだ。〉

 あとになって知った檄の内容である。
 あのころは、ただ唖然とするだけで、まったく訳がわからなかった。三島は何を叫んでいるかわからず、狂った右翼のようにしか思えなかった。
 自決から4カ月ほど前、三島は「サンケイ新聞」にこんなエッセイを寄せている。

〈私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。〉

 無思想のぼくも、かえっていまのほうが、三島の言わんとすることが理解できるような気がする。
 三島は日本が買弁の経済的繁栄を認められているものの、政治的、軍事的、文化的にはアメリカの属国に成り下がった、と嘆いているのだ。天皇も、いまや日本の天皇ではなくアメリカの天皇になってしまった。
 三島の幻のクーデター計画はそうした憤りから発している。実際は茶番で終わることを自覚していたにちがいないが……。
 作家は行動する。いや、作家だって行動する。とはいえ、成功するはずもないお笑いぐさのクーデターに、実際に命を賭けるのはばかげている。
 三島がほんとうにやりたかったことは割腹自殺そのもので、決起はつけたしにすぎなかったのではないか。自死によって、三島は天空に輝く月のような存在になりたかったのかもしれない。そんなふうに思ったりもする。
 4部からなる最後の長編小説『豊饒の海』は、そもそも月にある盆地のひとつを指している。それは虚無の舞台だが、同時に永遠に照らされる世界でもあった。
 それにしても、鍛えあげた肉体を人身御供のようにして、自決するのはあまりにも狂気じみていないか。三島はまだ45歳だった。
 これからも作家として活躍できるはずだ。死に急ぐ必要はない。それなのに、こんな事件を引き起こすなんて、まるで全共闘のばか騒ぎにうながされたとしか思えない。世間のほとんどがそうみていた。
 あれから50年、三島のとらえた状況は変わっていない。日本はますます喜んでアメリカの属国の道を歩んでいる。そう思われても仕方がないできごとが相次ぐ。

 ここまで書いてきて、いまさらながら、ぼく自身が三島由紀夫の小説をさほど読んでいないことに気づく。ふり返ってみれば、よくわからないまま、いくつかの作品を流し読みしただけだ。そもそも歴史小説やミステリーを除いて、純文学は苦手。読んでもさっぱりわからなかったというのがホンネである。
 たまたま本棚を眺めていたら、文庫本のなかに橋本治の『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』を発見した。2005年に新潮社から発行された文庫本(単行本は2002年)である。これもツンドク本になっていた。
 東大駒場祭のポスターや「桃尻娘」シリーズで知られる橋本治は、三島由紀夫とは対極的な存在である。三島のことを「へんな人」と思っていた。16歳のとき、はじめて『仮面の告白』を読んで、その主人公に「こんなやつが同じ教室にいたら、絶対近くになんか寄ってやんない」と嫌悪を覚えた、と述懐しているくらいである。
 それでも、当時から三島は日本を代表する偉大な作家にちがいなかった。橋本も「三島由紀夫は、手の届かない高級ブランドの作家で、高嶺に輝ける存在だった」と認めている。
 その三島がじつにつまらない死に方をした。
 政治などに興味がない橋本は、「その事件」になにも関心をいだかなかった。三島が最期に『豊饒の海』という小説を書いたことも、かれが死んでから、はじめて知ったのだという。
『豊饒の海』を読んでみると、「すごくおもしろかった」。
しかし、こうも書いている。

〈『豊饒の海』には、それを読んだ人間を死に向かわせるような力はないと思う──私はそのように思った。だから私には、「どうしてこれで三島由紀夫は死ななければならないのか?」が分からなかった。しかし三島由紀夫は。それを書いて死んだ。だとしたら答は明らかである。三島由紀夫は、「こういうものを書くと死ななければならない作家」なのである。〉

 そこから橋本による三島探究がはじまる。そして、ぼくも三島と橋本を追悼するために、この本をめくりはじめている。

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宇沢弘文の1968年 [われらの時代]

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 佐々木実の『資本主義と闘った男──宇沢弘文と経済学の世界』を読むと、世界的な経済学者、宇沢弘文にとっても1968年は大きな曲がり角だったことがわかる。
 この年、宇沢は40歳で、経済学教授を務めていたシカゴ大学をあとにし、東京大学に戻ってきた。いきなり激しい学園闘争に巻き込まれている。宇沢は学生側に同情的だったものの、けっして学生を支持したわけではなかったが、それでも日本の高等教育のあり方に疑問を感じていた。
 日本に戻ってきたとき、宇沢はみずから多くの業績を成し遂げた近代経済学(新古典派経済学)を批判する方向に舵を切ろうとしていた。それを促した一因がベトナム戦争だったことはまちがいない。全能なるアメリカに疑問をいだいていたのだ。
 12年ぶりに日本に帰ってきて、最初に感じたのは公害のひどさだった。大気や河川は汚染され、工場からは煙がもくもくと出て、自動車がわがもの顔に街を疾駆している。水俣を何度も訪れている。
 1969年11月17日付日本経済新聞の論説では、「生活環境を構成する社会に共通な資本が、私的な経済活動によって破壊されつつある」と論じている。
 のちに宇沢が積極的に打ちだす「社会的共通資本」概念の、最初の表明とみてよいだろう。
 そのころ、ぼくは大学の授業にも出ず、サークルでマルクスやレーニンのかじり読みをはじめていた。資本とは資本家の所有する財産であって、資本は労働者を雇用し、搾取し、剰余価値を生みだすために用いられる装置だ、などと考えていた。
 しかし、その先がわからなかった。土地や資本を国有化すれば、正しい経済社会が生まれるとも思えなかった。ソ連や中国の惨状をみても、そのことは理解できた。
 宇沢弘文の名をはじめて知ったのは1974年に岩波新書として出版される『自動車の社会的費用』によってである。いなかに戻らず、結婚し、東京で仕事をしていて、まもなく転職しようかというころだ。
 悪い癖で、本を買ったもののすぐには読まなかった。しかし、自動車が便利な交通手段である反面、生活環境に巨額の社会的費用(損害)をもたらしていることを、具体的な数字で示したこの本の切り口は斬新だと感じていた。
 しかし、1969年段階で、宇沢がすでに社会的共通資本の概念を打ちだしていたことは、まったく知らなかった。その後、かれの構想は次第に固まっていく。
 宇沢は社会主義にも資本主義にも疑問をいだいていた。そもそも主義が人をしばるという考え方が気に食わなかったのだ。
 教皇ヨハネ・パウロ2世は、1991年に「社会主義の弊害と資本主義の幻想」と題する歴史的回勅を発表する。佐々木の評伝を読むと、じつは教皇に依頼されて、この回勅の原案を起草したのが宇沢だったことがわかる。
 抑圧的で硬直したソ連社会主義はすでに崩壊していた。
「社会主義のもと、市民の基本的権利は無視され、個人の自由は完全に剥奪され、人間的尊厳は跡形もなく失われてしまった」というのが、社会主義にたいする宇沢の認識だった。
 だが、資本主義に問題がないわけではない。どこまでも資本主義を追求しようとする新自由主義の果てなき欲望が、世界を破滅の淵に追いこもうとしていると感じていた。
 回勅の原案で「宇沢は、資本主義が解決できないでいる問題の具体例として、取り組みはじめたばかりの地球温暖化問題を挙げ、あわせて宇沢が唱えている社会的共通資本の考えを丁寧に紹介した」と、佐々木実は書いている。
 社会的共通資本とは、いったい何か。
 岩波新書には、こう書かれている。

〈社会的共通資本は、一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置を意味する。〉

 そのとおりかもしれないが、これではあまりにお題目にすぎて、具体的なイメージがつかみにくい。
 そこで、別のテキストで、宇沢によるもうひとつの記述を紹介してみよう。

〈社会的共通資本は、土地を始めとする、大気、土壌、水、森林、河川、海洋などの自然資本だけではなく、道路、上・下水道、公共的な交通機関、電力、通信施設、司法、教育、医療などの文化的制度、さらに金融・財政制度を含む。
 社会的共通資本のネットワークは、広い意味での環境を意味し、このネットワークのなかで、各経済主体が自由に行動し、生産を営むことになるわけである。市場経済制度のパフォーマンスも、どのような社会的共通資本のネットワークのなかで機能しているかということによって、規定される。さまざまな社会的資本の組織運営に年々、どれだけの資源が経常的に投下されるかということによって、政府の経常支出の大きさが決まってくる。他方、社会的共通資本の建設に対して、どれだけの希少資源の投下がなされたかということによって、政府の固定資本形成の大きさが決まってくる。このような意味で、社会的共通資本の性格、その建設、運営、維持は、広い意味での政府、公共部門の果たしている機能を経済学的にとらえたものとなる。〉

 長々と引用したが、要するに社会的共通資本は、制度的には政府・自治体の公共部門を指しており、それを持続的な共生経済のために運営する仕組みに替えていこうという発想のうえに成り立っている。ケインズの考え方を発展させたものだととらえることもできる。
 社会的共通資本は人びとの生活基盤であり、私的な資本によって蚕食されてはならない部分である。社会全体の財産(コモンズ)という意味で、それは社会的共通資本なのだ。
 この社会装置を運営するのは、政府や官庁ではなく、あくまでも社会的に認められた専門家集団であり、その業務実態は常に開示されなければならない、と宇沢は考えていた。
 環境、教育、医療を含め、人びとの生活基盤全体にかかわる社会的共通資本は、受益者の負担と税金によって維持される。政府の予算規模は、社会的共通資本としての公共部門を、どれだけの大きさや内容で維持していくかによって決まってくる。
 宇沢は民間資本の役割を否定するわけではない。もし民間資本が人びとの生活基盤を脅かすのであれば、それは法によって規制されなければならないが、生産、消費を含め、経済活動の自由は認められるべきだ。社会的生活基盤としての共通資本のうえに立って、民間の経済活動が自律的かつ持続的におこなわれるというのが、宇沢の経済ビジョンである。
 それは、あきらかに市場原理主義の考え方とは異なっていた。もちろん、中央集権主義的な社会主義経済とも一線を画している。
 宇沢が社会主義に違和感をもつのは、人間を社会的諸関係の総体としてとらえる人間観に、一種のあやうさを感じていたからである。それは人を、社会に、あるいは革命に奉仕しなければならない存在として規定しかねない。
 宇沢はジョン・ステュアート・ミルやジョン・デューイのリベラリズムの考え方を尊重していたという。それはムード的な政治的リベラルとは異なる。
 ミルは人間が与えられた能力を可能なかぎり調和的に発展させることのできる自由を唱えていた。
 ジョン・デューイに関しても、宇沢はこんなふうに述べている。

〈決して政治的権力、経済的富、宗教的権威に屈することなく、一人一人が、人間的尊厳を失うことなく、それぞれがもっている先天的、後天的な資質を充分に生かし、夢とアスピレーションとが実現できるような社会をつくりだそうというのがリベラリズムの立場である。〉

 ここにも、われらの時代の願いが込められている。
 しかし、世の中はいまも新自由主義の風潮におおわれている。新自由主義の本質は、国家が市場万能の市場原理主義を後押しするところにある。これにたいし、社会的共通資本の立場から政府の公共部門を市民のものに変えていくという宇沢の考え方は片隅においやられている。
 だが、いったん灯された思想の火が消え去ることはないだろう。

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もうひとつの1968年──イアン・カーショー『分断と統合の試練』を読む(2) [われらの時代]

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[1968年8月、プラハ。ウィキペディアより]
 ヨーロッパの1968年はパリの5月革命だけに代表されるわけではない。
もうひとつの1968年、それが「プラハの春」だった。
 当時の社会主義圏、すなわち東側ブロックで、抗議の声を発するには相当の勇気が必要だった。抗議の場に加われば、国家による厳しい報復を覚悟しなければならなかった。
 1960年代末、チェコスロヴァキアとハンガリー、ユーゴスラヴィアでは、部分的に自由化が認められようとしていた。わずかとはいえ、西側のポピュラー音楽を聞いたり、映画も見たりもできるようになっていた。東ドイツでも、こっそり西側のラジオやテレビを受信できたという。
 チェコスロヴァキアでは、1967年に学生寮の改善を要求して学生が立ちあがったが、たちまち警察によって鎮圧された。それでも民主化と自由化を求める声はやむことがなかった。
 共産党のアレクサンデル・ドプチェクも改革の必要性を感じていた。党による支配を維持するには、ある程度の民主化と自由化が必要だと考えていたのだ。
 1968年1月に党第一書記に就任したドプチェクは、事実上検閲を廃止する。新聞にも党に批判的な記事が出てくる。これをみたソ連はじめ衛星諸国の共産党指導者は狼狽する。
 68年4月には「人間の顔をした社会主義」をめざすという党の行動綱領が採択された。そこには国民の「権利、自由、利益」を保証することが謳われていた。その年のメーデーは、まさに「プラハの春」を祝うものとなった。
 だが、ソ連と周辺諸国はチェコスロヴァキアの動きに懸念をつのらせる。8月20日夜から21日にかけ、「プロレタリアートの国際的連帯」をかかげて、ワルシャワ条約軍がチェコスロヴァキアへの侵攻を開始する。50万人の兵士、7500両の戦車と1000機の航空機が投入されていた。
 ラジオでは武力抵抗をしないよう呼びかけられていた。ドプチェクら党幹部はモスクワに連行され、「プラハの春」の改革は白紙に戻された。
 そのあとは「正常化」の圧力が強まり、党員の粛清がつづく。検閲と旅行制限、共産党による揺るぎない支配がふたたび確立された。監視国家の閉鎖空間がまた戻ってきたのだ。
「プラハの春」の鎮圧は、共産圏ではいかなる自由化も認められないというメッセージにほかならなかった。その後は、一定の経済改革は別として、ブロック内では全般に体制の締めつけが強化された。
 ブルガリアは徹底した警察国家だった。
 だが、ハンガリーでは、カダル政権のもと、中央経済計画を維持しながらも企業による経済活動が認められるようになった。
 ポーランドのゴムウカ政権は、「異論を厳しく管理し、学生の抗議活動を容赦なくつぶし、チェコスロヴァキア侵攻を熱心に支持した」。しかし、ポーランドでは、1970年のクリスマス直前、食料価格を12〜30%値上げすると発表したことから、大規模な抗議運動が巻き起こり、多くの死傷者が出た。後任のギエレク政権は、ソ連からの借款で事態収拾にあたらなければならなかった。
 東ドイツは1963年に「新経済システム」を導入し、一定の非中央集権化と増産対策に取り組もうとしていた。高等教育を受ける割合も増えてくる。テレビや洗濯機、冷蔵庫も普及しはじめていた。
 しかし、それにも限界がある。中央集権を基本とする経済は、電子工業と化学工業、エンジニアリングに偏重し、消費財産業には資源が回らない。いっぽう軍と治安警察(シュタージ)は増強されていた。
71年5月には、ウルブリヒトに代わりドイツ社会主義統一党の書記長にホーネッカーが就任する。
 バルカン半島では、アルバニアが中国寄りの独自路線を歩み、孤立した赤貧状態を堅持していた。ルーマニアはチャウシェスクのもと、独自の民族共産主義の道を歩むようになる。
 ティトー大統領の率いるユーゴスラヴィアはソ連と一線を画していた。西側との接触もさかんで、分権化による経済運営が実施されていた。
 しかし、経済生産性は伸びず、60年代末にはインフレが昂進する。そんななか、ユーゴのなかではもっとも豊かなクロアチアが自治権拡大を求めるようになる。ザグレブでは1971年に学生が大学を占拠、ゼネストが呼びかけられがが、ティトーはこれを抑え、党幹部を粛清した。

 西欧でも東欧でも68年の混乱は、短期間で収まったかのようにみえる。
 共産圏の「現存社会主義」体制は永久につづくと思われた。西欧では一部の国を除いて、民主的な統治体制が保たれ、急進派は排除されていた。
 だが、時代は動いていく。
 西欧の70年代前半は基本的に社会民主主義の時代だった。著者によれば「大きな政府の下で、巨額の政府支出(それに高い税率)で社会福祉をまかない、社会の貧困層の生活水準を改善する」ことが社会民主主義の目標だった。
 イギリスでは、1964年に総選挙で辛勝したハロルド・ウィルソンの労働党が66年に大幅に議席数を伸ばし、引きつづき政権を維持していた。しかし、1970年にはエドワード・ヒースの保守党が政権を奪還する。
 西ドイツでは1969年にヴィリー・ブラント率いる社会民主党が連立政権を発足させた。ブラントは70年に「東方政策」を掲げ、東ドイツやチェコスロヴァキア、ポーランドとの関係正常化に乗りだすことになる。
 オーストリアでも1970年の総選挙で、社会党のブルーノ・クライスキーが安定した社会民主主義政府を樹立した。オランダも72年の選挙で労働党が第一党になった。
スカンディナヴィア諸国でも、社会民主主義政権が、政治的安定と福祉制度をもたらしていた。
 従来、保守が政権を維持してきたイタリアやフランスでも、左派が勢力を伸ばした。
フランスでは1969年にドゴールが退場したあと、ポンピドゥーの保守政権が後を継いだが、むしろ改革志向だったポンピドゥーは74年に死去。共産党とともに72年に「共同政府綱領」を掲げたミッテランの社会党が、主要左派政党として勢いを増しつつあった(ミッテランは1981年に大統領に就任)。
 東西の緊張は緩和し、政治体制は安定したかにみえた。
 だが、そこに思わぬ方向から危機がもたらされる。1973年の石油危機が訪れるのである。

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1968年──イアン・カーショー『分断と統合の試練』を読む [われらの時代]

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 本書は1950年から2017年までの戦後ヨーロッパ史である。戦前を扱った前著『地獄の淵から』の続編だが、ぼくにとってはほとんど同時代史といってもよい。
 その第6章「異議申し立て」をつまみ食いで読んでみた。

〈1960年代後半、ヨーロッパは東西ともに第2次世界大戦の終結直後のどの時期にも増して、大きな政治的動揺期を経験する。……その動揺は70年代初めごろには再び沈静化に向かっていたが、その遺産は多面的で、長く尾を引いた。〉

 つまり、ヨーロッパも1960年代後半に若者たちの反乱を経験したのだ。
 戦後第一世代の若者は権力や服従、義務などを旧弊なものと感じるようになり、それらにたいする反抗や反乱も辞さなかった、と著者は書いている。
 それが爆発したのは1968年である。若者たちの直接行動はアメリカ(米国)、日本、フランス、西ドイツ、イタリア、さらにはポーランドやチェコスロヴァキアまで広がった。
 ヨーロッパで不満が爆発したのは大学内である。「多くの学生の目には、大学の管理運営は、反動的、束縛的に映った」
 抗議活動は国境を越えて広がった。それは、資本主義に異議を唱え、ソ連型社会主義を否定する新左翼の運動となって爆発した。かれら若者の偶像はマルクスをはじめ、チェ・ゲバラ、トロツキーやローザ・ルクセンブルク、あるいはグラムシだった。
 サルトル、アルチュセール、フーコー、マルクーゼらが新左翼の若者たちをを支持した。そこには政治革命を超えて、社会全体の変革をめざそうとする動きがあった、と著者はいう。
 学生たちの活動を支えたもうひとつの源がベトナム反戦運動である。1965年にアメリカはベトナムに48万5000人の兵士を投入していた。
 これにたいし、カリフォルニア州バークレーでもニューヨークでも、大規模な抗議運動が巻き起こった。そして、その運動はアメリカにとどまらず、西ドイツ、フランス、イタリア、日本にも広がった。
「ベトナムは不満を抱いた学生たちを──ともかくも彼らの一部を──革命家志望に変えたのである」と、著者はいう。
 1968年5月、パリは爆発する。学生たちの抗議活動に1000万人の労働者がストライキと工場占拠で呼応した。だが、それはごく短期間で収束する。革命を標榜する新左翼はごく少数にすぎず、広範な社会層を持続的に動員する能力を欠いていた。
 それでも学生運動は盛り上がっていた。
 イタリアでは1967年を通じ、大学のストが広がった。68年2月に警察がローマ大学の建物を占拠する学生たちを強制排除したことをきっかけに、3月には警察と学生集団の全面衝突がおこり、学生数百人が負傷した。
 そのあと学生運動はエスカレートする。「自然発生的な抗議活動が、組織化された革命的扇動に変わったのだ」
 1968年後半から69年秋にかけ、イタリアでは750万人の労働者が「山猫スト」に加わり、賃上げや職場環境の改善を勝ちとった。
 1969年から70年にかけ、政府は労働者の要求にこたえ、さまざまな改革に取り組むようになる。これにより、革命への期待は消滅していった。
 だが、逆に左右の急進派は「極端な暴力形態」に走るようになる。
 1969年4月から12月にかけ、ミラノでは3度の爆弾事件が発生、16人が死亡、百数十人が負傷した。これらの事件にはネオ・ファシストのグループがかかわっていた。
 左翼からは「赤い旅団」が生まれる。この武装組織はまもなく爆破や暗殺、誘拐を実行するようになる。最悪の事件が1978年のモロ前首相の誘拐と暗殺だった。
 イタリアやフランスとちがい、西ドイツの学生運動は広範な労働運動と結びつかなかったが、よりイデオロギー的なものとなった。
 1967年、警官によるある射殺事件がきっかけになって、学生たちは巨大新聞グループ、アクセル・シュプリンガー社に攻撃を加える。その先頭にたったのが、ルディ・ドゥチュケである。哲学者のハーバーマスはかれらの過激な行動を「左翼ファシズム」と批判した。
 1968年4月、ドゥチュケはネオナチの青年に頭部を撃たれて重傷を負った。その前から西ドイツの学生運動はさらに過激となっており、フランクフルトでは消費主義の象徴として、ふたつのデパートが焼き討ちにあっている。
「赤軍派」(バーダーマインホフ)も生まれた。68年5月には、首都ボンに向けた大規模な行進も計画された。だが、労働組合はこれに同調しなかった。
 1969年3月には、社会民主党のヴィリー・ブラントによる穏健なリベラル派連立政権が発足する。72年にはいると、赤軍派は多くの逮捕者を出した。
 77年にはパレスチナ解放人民戦線(PFLP)によるルフトハンザ航空機ハイジャック事件が起きた。西ドイツでは産業連盟会長のシュライヤーが殺害された。シュライヤーは元ナチス親衛隊員だった。
 そして、赤軍派(バーダーマインホフ)の指導者も獄中で劇的な最後を遂げる。自殺の申し合わせがあったといわれる。
 このあたり、日本の連合赤軍の軌跡と似かよっているのは、けっして偶然ではないだろう。
 しかし、フランスの1968年は明るく元気だった。ほかの国とちがい、テロにはつながらない。
 5月革命の引き金となったのは、パリ・ナンテール大学での改善要求である。パリ郊外のナンテールにつくられた大学の環境は劣悪だった。工場のような建物とすし詰めの講義室、家父長的な管理体制、そして学生数の急増が、急進化をもたらす土台となった。
 そのきっかけは、学生寮での男女区別の廃止を要求したダニエル・コーンバンディを大学当局が放校処分にしようとしたことである。そのことが学生たちの反発を招き、キャンパス閉鎖をきっかけに、騒乱は郊外のナンテールから中心部のソルボンヌに広がった。
 68年5月、学生と警官隊が衝突し、カルチェ・ラタンにバリケードが築かれる。大衆の共感は学生側に集まり、労働組合は24時間の連帯全国ゼネストに突入した。
 デモと暴動、ストライキ、職場占拠の盛り上がりで、ドゴール政権は一時ぐらつく。だが、ドゴールはすぐに態勢を立て直し、ラジオ放送で秩序を回復しようと国民に呼びかけ、総選挙を実施することを表明した。
 警察は大学の建物を占拠する学生を排除、大方の労働者は職場に戻った。6月の総選挙はドゴール圧勝で終わる。
 だが、ドゴールの時代も1969年4月までだった。大統領権限の強化を求める法案は国民投票で拒否され、ドゴールは辞任する。国民はドゴール体制の強化を望まなかった。
 いっぽうイギリスやオランダでは、1968年に大規模な学生運動はおこらなかった。入学者の少ないイギリスの大学では、学生と教員の接触が緊密で、しかも頻繁だった。オランダでは政府が若者文化に寛容だったことが大きい。
 とはいえ、イギリスでもベトナム反戦運動がなかったわけではない。ロンドン中心部でも、ベトナム戦争に反対する集会は何度も開かれ、68年10月には25万人が集会に参加している。しかし、それは深刻な暴力にはつながらなかった。
 最後に、はたして1968年にはどんな意味があったのだろう、と著者は問うている。
 たしかに、講義室や図書館の過密状態を緩和するなど、大学環境の改善がなされた面はある。ほかにもさまざまな改革がなされた。そのいっぽうで、大学の管理強化も進んだ。
 しかし、そもそも反乱の季節を導いたのは、「世界を、あるいは少なくとも自分たちの社会を変える」という「大志」だったと著者はいう。
 68年世代はせいぜい夢想家で、うぶなロマンチストであり、そのユートピア的希望は単なる幻想にすぎなかったという見方を、著者はかならずしも否定しない。
 それでも68年のうねりは、ベトナム戦争終結に向けての動きをつくりだしたし、労働者の賃金や労働条件の改善をもたらすきっかけともなった。
 68年世代の「反権威主義的、平等主義的、自由主義的な考え方」は消えることがなかった。それは男女同権や、人種的マイノリティ、LGBTの権利を求める動きとなって広がっていく。
「戦争ではなく愛を」というスローガンは、アメリカのヒッピーだけのものではなかった。「緑の運動」もまた68年世代からはじまっている。
 結論として、著者はこう書いている。

〈1968年の若き抗議参加者と自称革命家たちは、年齢を重ねるにつけ、自らの価値観を日常生活と、おおむね平凡な職業に持ち込んだ。あの年、若者の反乱を形づくっていた考え方は、長く続く消しがたい影響力を有したのだ。……彼らは、価値観の変化が抗議運動そのものとともに死滅しはしないことを保証する「増幅器」なのであった。〉

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