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ミシマについて──橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』を読む(2) [われらの時代]

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 三島由紀夫の小説のなかに「他者」はいない、という言い方を橋本治はしている。そこにいるのは、「二人の自分」、つまり自分と自分の分身であって、その外側にあるのは「自分と同じような他者」ではなく、「自分とは違う不定形」なのだ、と書いている。
 その不定形の世界は、あくまでも自分が巻き込まれるのではなく、自分が巻き込む対象だ。その世界に拒否されたとき、三島はいっそう孤独になる。かくて『豊饒の海』は、最後は語り手が「記憶もなければ何もないところ」に来てしまうというのが、橋本の読みである。
 橋本にとって、三島という小説家は「広大な宇宙に浮かんでたった一人の人間しか存在させない孤独な惑星の住人」だった。もし、これが三島の実態だとすれば、これは「なんだかとても悲しい世界観であるとしか」思えないという。
 なぜ、三島はそんな悲しい塔の住人にみずからを閉じこめ、最後は純粋観念として自爆してしまうのだろう。
 その経緯を橋本は追っている。
『仮面の告白』をみてもわかるように、三島は同性愛的志向の強い人である。主人公が女性と接吻するときも、欲望からではなく、あくまでも義務としてするのだ。
 女性は強迫観念としてとらえられる。その特異な感性が、三島を三島とする原動力になっている。
だが、三島はけっして同性愛には走らない。強迫観念を克服しようとする。その成果が『春の雪』となる。
 同性愛をえがく『仮面の告白』と『禁色』は、あくまでも三島由紀夫による小説(フィクション)として設定されている。三島によれば、「この小説の中のすべてが事実にもとづいているとしても、すべては完全な仮構であり、存在しえないものである」。
 だが、橋本にいわせれば、これはあきらかに「私小説ならざる私小説」なのだ。
 これらの小説が書かれた当時、同性愛にたいするタブーや偏見は根強かった。それをえがくのは、あくまでも芸術の領域だったといえる。
 こうして、同性愛的志向は観念小説に高められていく。だが、同時にそれは実人生では否定さるべきものだった。
 すると、その後は、挫折と克服を生き、虚に戻るしかない。三島にとって、「自分なりの人生を生きる」という選択肢は閉ざされてしまっていた、と橋本はいう。
『仮面の告白』の「私」は女に欲望を感じない。欲望を感じるのは男にたいしてである。
糞尿汲み取り人の青年、死にいく兵士、祭に陶酔する男たち、死の運命にある王子を愛した。
 はじめて射精したのは、13歳のとき「聖セバスチャン」の殉教図をみたときである。その後、成長してダンスホールに行ったときも、たくましい若者たちが、だれかに匕首で刺される場面を夢想して、情欲に襲われる。
 だが、「この『私』は、『男と直接関わる』ということにおいて、妄想の中でさえ不能者なのである」と、橋本は断言する。「私」はけっして男たちに直接手を下さないし、男と同性愛に走ることもない。
 さらに、こう書いている。

〈「愛する者を人に殺させて恍惚とする」という妄想を抱いている段階で、彼は既に「権力者」である。彼はその地位を手放さない。少年期が青年期になっても、彼の妄想の質は変わらない。〉

 いきなり「権力者」という表現がでてくるのでとまどうが、三島はまるで暴君ネロみたいではないか。ただし、ネロが実際の権力者であるのにたいし、三島はあくまでも観念世界の権力者にとどまる。
 世の中には同性愛のタブーがある(あったし、いまもある)。だが、三島の小説世界において、タブーは突破される。そして、妄想のなかで愛する男たちには死が与えられる。
 とはいえ、暴君(権力者)であるかれは、みずからの世界に他者がはいってくることを拒否し、「塔」に閉じこもって、認識者としてみずからを鍛えあげる。それが快感となる。そんなふうに橋本治は書いている。
 人(読者)が三島のなかに見たのは「自己達成」の権化である。自己達成とは、近代人の宿痾でもある孤独な屹立を意味していた。
 その孤独は嫉妬をも呼び起こす。「私」より優位に立つ者を許さないのだ。「強くならねばならぬ」というモットーがかれを縛っていく。愛する男もまた敵になるのだ。そこで、その愛する男に似ることによって、男を排除し、それによって自己を愛するという奇妙な倒錯が発生する。
 そして、かれは「塔」にこもる認識者になる。そのなかで、「作者と作中人物に分かれて、自身の陶酔を演じ、享受している」三島が生まれる。
 橋本はこう書いている。

〈三島由紀夫の悲劇は、「真実必要なものを求めて、その求め方を知らなかった」というところにあるはずである。しかし、彼はそのような選択をしなかった。彼は、「真実必要なものを求めることは、してはならないことである」という選択をした。その選択を「正しい」とするのが、彼の生きた時代だった。〉

 なんだか悲しいけれど、それでも三島由紀夫の世界はとてもおもしろい。三島は自分とはまるでちがうが、それでもどこか自分と似ているのだ。

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